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6月18日 スーパーファミコン『MOTHER2』の話。

 先月、ファミコン『MOTHER』をクリアしたので、それに続いてスーパーファミコン『MOTHER2』をクリア!

 いやぁー……面白かったなぁ。発売は1994年8月27日。今から28年前のゲームだ。でも内容があまりにも独特なので、古さを感じない。昔のゲームは、昔のゲームゆえに「表現がショボいなぁ」とか、「ここはまだ整理できてないなぁ」とか感じるのだけど、『MOTHER2』に感じてはそう思うところがほとんどなくて、「これはこれで完成形」という感じがずっとしていた。それが古さを感じなかった理由。
(店の売り買いするときの段取りとか、アイテムを使ったり受け渡したりする時は、まだ整理されてないなぁ……という感じはあったけれども)
 前作に続いてマップ・フィールドはシームレスで繋がっているし、シンボルエンカウントシステム、ダメージはドラム式になっていて、致命傷のダメージを喰らっても、ドラムが回転しきる前に回復しちゃえば大丈夫という仕様。シンボルエンカウントシステムは『ドラクエ』シリーズで採用されたのは『~9』から(『~8』では実験的に一部採用されただけだった)。時代観とか無関係に、『MOTHER2』でしかない仕組みだらけ。だから古さを感じないのだろう。

 マップについてだけど、前作ではフィールドが途方もなくずーっと広がっていて、果たして自分がちゃんと目的地に向かっているのかどうかわからない……というのが問題だった。
 では『MOTHER2』ではどうなのか、というと、上の画面を見てわかるように、目的地が画面の端っこにちらと見えている。これは冒頭の隕石の落下地点へ向かうシーンだけど、この途上でも、やはり画面の端っこにプレゼント箱が置かれていたりしていて、「あ、プレゼント箱だ」とそれを中間目標に進んで行ったら、自然と最終目標地点へたどり着ける……という仕組みになっていた。
 こういう配慮が前作になかったところで、『MOTHER2』はゲーム制作の作法的にも、ファミコンの時代よりも進化したことがわかる。

 『MOTHER2』といえば、街の人達の独特なユーモア、敵キャラクターにすら、ちょっと面白い要素があったりする。ファミコン『MOTHER』の時にも、言葉の一つ一つにユーモアを感じることができたのだけれど、『MOTHER2』はもっと克明に感じられる。
 この例はなんでもいいのだけれど、その一つとして冒頭に登場するブンブーン。100年後の未来からやってきて、主人公に運命を告げる者であるのだけど、パッと見にはカブトムシ。しかもポーキーの家を訪ねると、プチッと潰されてしまう。そういうギャグ漫画的なノリで、このお話は始まるんだ。この時点ですでに面白い。

 『MOTHER2』には様々なユーモアが登場するのだけど、このユーモアが大爆発するのはやはり、ここ、サターンバレーに登場してくる「どせいさん」。なんとメッセージはすべて糸井重里による手書きをドットで起こしたもの。どせいさんはシリーズ通しての謎の生き物で、それでいて愛らしい存在。『MOTHER2』で初登場し、以来シリーズのシンボル的なキャラクターになった(『スマッシュブラザーズ』にも登場する)。『アンダーテイル』に「テミーさん」というキャラクターが登場するが、明らかに「どせいさん」の影響だ。

 『MOTHER2』の物語は、各地域に行き、そこにはびこる問題を解決したら終わり……ではなく、様々なキャラクターがいて、そこで交流する展開が作られている。画像はその中でも印象深いキャラクター・トンズラブラザーズ。元ネタはもちろん『ブルースブラザーズ』。
 ツーソンでは主人公と共に旅をすることになる最初のパートナーを見出すことができる。が、お話はそこで終わらない。仲間を見付けた後も、その先にあるトンネルには幽霊がウヨウヨいて、それ以上進むことができない。そこでトンズラブラザーズ……ということになる。
 しかしトンズラブラザーズは劇場の支配人から、大金を借りてしまっている。
「トンズラブラザーズのやつらにゃ、たいへんな金をかしてるんだ。かえしてもらえるまでは、100年でも200年でもここで働いてもらうさ」
 そんな支配人に大金を渡してトンズラブラザーズを解放してもらい、その車に乗せてもらって、ようやく次の街へ行ける……というのがここの展開だ。
 古典的なゲームであれば、アイテム一つ使えば次のステージへ行ける……という感じになるが、『MOTHER2』では“エピソード”と“キャラクター”がそこに介在する。だから一つ一つのエピソードが楽しいし、印象に残る。前作と比較しても、「物語体験」に厚みが出ている。

 それでやっぱり楽しいのは、町の人の言葉。ファミコンの頃というのはメモリーが非常に小さかったので、ひらがな・カナカナすら全て自由に使えたわけではなかった。容量制限も厳しかったので、メモリーが足りないと町の人の台詞を一つ一つ削ったり……ということも多かった。
 そこでスーパーファミコンはそれくらいの余裕は充分あるスペックだから、街の人達の言葉がやたらと生き生きとしている。ファミコン時代ではおそらく削らなければならなかった台詞が、スーパーファミコンにはたっぷり残っている。印象に残る台詞が一杯あるんだ。町の人のメッセージというのは、大半は特に意味のない、ゲーム的な進行からすると必要のないものばかりなのだけれど、でも話しかけたくなる。どの台詞でも、一つ一つに丁寧にユーモアが挟まれている。町の人の話を聞く、ということもエンタメにしてくれている。そこが楽しい。

「ようこそ! ハッピーハッピー村へ!」
 「ハッピーハッピー村」の元ネタは、当時HAL研の社長であった岩田聡の発言から出たものだった。当時、岩田聡社長は半年ごとに全社員に対して面談を行っていて、その時、社員に対して「ハッピーですか?」と必ず尋ねていたそうだ。
 糸井重里がどこで岩田聡が社内でこういう話をしていると知ったかわからないが、とにかくもそれをヒントに「ハッピーハッピー村」は生まれた。

 スーパーファミコンになって、キャラクターがより詳細に描かれるようになった。そのおかげで、1人1人のキャラクターが克明になって、より愛らしくなった。画像は主人公が自転車に乗っている場面だけど、やたらと笑顔! 可愛い!

 話は飛ぶけれど、キャラクター4人いて、そのうち3人までレベルを99まで上げた。というのも、「いよいよ最後の戦いだな……」という雰囲気になった時、レベルは80まで上がっていた。そこまでレベル上げをしたのではなく、お話を進めていたら、自然とレベル80までは上がっていた。要するに、それくらいに物語のボリューム感はあったってこと。しかもそこまでのお話がずーっと楽しい。
 RPGの凡作はだいたい中間あたりに入ったところでゲームがダレてしまう。だいたい似たような展開ばかりな上に、ただスケールだけが大きくなっていく。戦闘だけはやたらと複雑で、一回一回が長くなっていく。一つのダンジョンを攻略するにも数時間必要……というのが当たり前になっていく。
 グラフィックがゴージャスになって、難易度が上がっていけばゲームプレイヤーの幸福感も上昇するか……というとそんなことはなく、ダレるだけ。こういうのはクソゲーの話ではなく、あらゆるRPGにおいてよく起きてしまう現象でもあるんだ。これが私が時々話す、「RPG中盤以降面白くない現象」。
 そういった凡作RPGと比較しちゃうのはアレだけど、『MOTHER2』はずっと楽しかった。それこそ、鯛焼きの尻尾までアンコが入っていた、というくらい。無闇にダンジョンを広くするとか、無闇に強敵ばかり出すとか、そういうことでドラマ感を演出していくのではなく、「物語」そのものを中心に、ドラマ感を高めて行く。だから最後の最後までずっと飽きない。これができているから名作たる由縁とも言えてしまう。

 余談だけど、私がレベル上げで使った場所はここ「ルミネホールへの洞窟」。なぜならレベル80くらいで戦闘をスキップできて、そこそこ一杯ザコキャラが出てきてくれるから。レベルが上がってくると戦闘をスキップできるという素敵なシステムのおかげで、ノーストレスで一気にレベル99まで上げることができてしまった。

ーここからネタバレ!ー

 さて、『MOTHER2』はどういったお話だったのだろう? これは正直なところ、解説が難しい作品で……。『MOTHER1』にはマジカントという場所があって、このマジカントのマップというのが、俯瞰して見ると「女性器」の形をしていた。しかもマジカントの女王というのが、主人公の祖母であるマリア。
 『MOTHER1』はこのマジカントに何度も行ったり来たりするお話だった。要するに、母胎的空間を行ったり来たりしつつ、最終的にそこから出て行く……というお話だった。親離れのお話であり、祖母にとっての子離れのお話であった。

 『MOTHER2』にもマジカントが出てくるのだけど、その様子はぜんぜん違う。『MOTHER2』のマジカントは、はっきり主人公の内面世界、精神世界であった。主人公の内面世界だから、主人公の思い出や、好きなもの、嫌いなものが出てくるし、冒険の最中に出会ったキャラクター達も出てくる。そのキャラクター達も、実際の姿や性格とは微妙に違っていて、「主人公がそう解釈した姿」となっている。

 そのマジカントの最奥にいるのが、この金の像。物語のごく最初の頃に出てきて、その後も何度か繰り返し出てきた像だ。この像を手にした人は、みんなどこかおかしくなってしまう。心の中の邪悪が掘り起こされ、暴力的な面が出てきてしまう。それが主人公の精神の一番奥にあった。それを倒すことで、主人公は『真の力』に目覚める。ファンタジーものでお馴染みの、内面的な悪を倒す、というシーンだ。

 『MOTHER2』には“もう一人の主人公”が登場している。もちろんポーキーだ。主人公のお隣さんで、見た目はおデブさん。行動力はあるが、やたらと自尊心が強い。主人公の行く先々で“権力者の右腕”に収まり、主人公を妨害する。どの地域に行っても大成功するが、その後全てを失って逃亡する(『こち亀』の両津勘吉みたいだ)。物語全体の狂言回し的な存在として描かれる。
 ポーキーはある意味、主人公のもう一つの姿。いかにも主人公という出で立ちに立ち振る舞いをする主人公に対して、コンプレックスがやたらと強い、人間的なポーキー。主人公がそうなっていたかも知れない存在がポーキーだ。だからポーキーは、ある種「憎たらしい存在」ではあるのだけど、主人公はポーキーの存在を見捨てられないし、頭の片隅で気にし続ける。

 そのポーキーだけど、いつも主人公を先回りしていて、その土地の権力者の“右腕”や“相談役”に収まっている。どうしてポーキーがそこまで熱心に権力者に取り入ろうとするのか、というと主人公に対するコンプレックスがあるから。どうしても主人公より一歩先に出たい。主人公より頭の良くて、行動力があるところを見せたい。それがポーキーの行動原理になっている。

 ポーキーについてだけど、実はかなり才能豊かな少年でもある。というのも、どの地域に行っても、その地域の権力者の懐に入り込み、大人達をあっと驚かせる「助言者」という立場になっている。それで、実は結構な財産を作っていたりもする(その直後、全てを失うけれども)。それができる、ということはかなり才能豊かな少年だ。
 でもポーキーは主人公に対するコンプレックスから、最後まで抜け出せなかった。主人公が行こうとする場所を察知して先回りして、主人公に対して「僕のほうが上なんだぞ!」という姿を誇示しようとする。ポーキーは永久にその行動原理から抜け出せない、ある種の病的な存在だった。

 そんなポーキーの存在というのが、主人公の属性の一つでもあった。金の像が主人公の内面的な“邪悪”であったように、ポーキーもまた主人公の内面に隠されたある属性を説明している。そもそもなぜポーキーなんて歪んだ少年が生まれたのか……というと、それは主人公が生み出したから。主人公がポーキーに対して何かしら働きかけたから、ポーキーは主人公に対してコンプレックスを抱き続けることになったのだ。

 その切っ掛けがなんだったのかは不明だけど、一つの想像としては……。主人公がブンブーンから「託宣」を受け取った時、ポーキーも一緒に話を聞いていた。ポーキーはきっと胸が躍ったはずだ。自分も「世界を救う少年少女の1人」かも知れない……と。
 しかし実際はそうじゃなかった。世界を救う冒険物語から蚊帳の外だったし、自分の両親は退屈な人間で、自分に対しては抑圧的で、しかも強欲。
 なんで僕はこうなんだ。どうして主人公と違うんだ……。
 と、思ったかどうかは定かじゃないが。もしかしたら、あの夜の出来事が、ポーキーの内面が決定的な屈折を生み出す切っ掛けだったかも知れない。

「よく来た。ここは1番目の「お前の場所」だ。
しかし今は私の場所だ。
奪い返せばよい。
……できるものなら」

 主人公の目的はこの世界の「お前だけの場所」を8カ所巡り、メロディを集めることにある。
 この理由は、ブンブーンが説明してくれている。

「ギーグを倒すには、地球とお前の力を一つにすることが必要なのじゃ。この地球にはお前のパワーを揺り起こし、強めてくれる…。「お前だけの場所」が8カ所ある。そこをすべて訪れるのだ」

 前作『MOTHER1』では集めた音楽を最後にギーグに聴かせる……という場面が最終的なクライマックスだった。ところが、今作ではそういうギミックはない。音楽を集めきると、メロディを保存していた「音の石」は消滅してしまう。最終的に消滅してしまうのだったら、なぜ音楽を集めていたのか。どういう意味があったのか?

 これを解き明かすヒントは、「お前の場所」と呼ばれている理由だ。
 その場所へ行くと、「ここは○番目の「お前の場所」だ。しかし今は私の場所だ。奪い返せば良い。できるものなら」というメッセージが流れる。その後、ボス戦に入り、その場所を「私の場所」として取り戻すことができる。
 その後は白日夢ような光景が現れ、主人公は自分の幼少期や両親の姿を見る。これは主人公のアイデンティティがどのように構築されたか、を再現する風景だ。

 再び前作『MOTHER1』を見てみよう。『MOTHER1』はなんだったのかというと、実は祖母マリアの内的世界だった。マリアの精神が「マジカント」という形で残留し、主人公はその祖母の内的世界に何度も行ったり来たりする。主人公はアメリカ中を旅して「音楽」を集めていたのだけれど、その音楽がどこから出てきたのか、というと祖母の意識の中だった。『MOTHER1』という世界観全体が、祖母マリアの内的世界だった。

 世界中に散っていた音楽を集めて、マリアのもとへ戻っていくのだけど、実は音楽はずっとマリアの無意識の中にあったのだ。だがマリアは音楽を忘れていた。思い出してしまうと、夫のジョージとの別れや、暴走してしまったギーグと向き合わなくてはならなくなる。そこから逃避するために、マジカントという世界観を作り、その世界を構築する核となっていた音楽について忘却し、閉じこもっていた。閉じこもっていたけれど、いつか誰か訪れてくれることも待っていた。だから主人公に対してだけは、マジカントの入り口はいつも開かれていた。

 では『MOTHER2』はどうい世界観だったのだろうか?
 物語中、不思議な場面がある。物語の後半も後半だけど、「ルミネホール」という洞窟の途中で、主人公の意識がダダ漏れになって、壁面に大きく浮かび上がる……という場面が出てくる。
(わぁ、恥ずかしい! エッチなこと考えてなくてよかった)
 これはなぜだろうか。

 ブンブーンはこう言った。
「ギーグを倒すには、地球とお前の力を一つにすることが必要なのじゃ」
 その「お前だけの場所」へ行くと必ずこんなメッセージが現れる。
「ここは○番目の「お前の場所」だ。しかし今は私の場所だ。奪い返せば良い。できるものなら」
 私だけの場所。その場所と繋がると、地球そのものと繋がれる。「僕」という意識が世界全体に広がっていく。

 マジカントへ行くと、こんなふうに言われる。
「ここはマジカントの国。君の心が生み出した国」

 次に老人にこう言われる。
「お前は地球の8つのパワースポットすべてに立った。そのことがこの心の国、マジカントを生み出す条件だったのじゃよ。このマジカントには、お前の心の中にある美しさも優しさも、哀しみも憎しみも、むろん邪悪なものや凶暴なものもあるのだ」

 ここまで来ればわかるが、『MOTHER2』においては、マジカントも、そこに至るまでの旅の道程も、みんな主人公が持っている世界観の一部だった。音楽は分離していた世界と繋げるための「のり」のような役割として必要だった。
 『MOTHER1』においては音楽を集めることによって、祖母マリアが覚醒したように、『MOTHER2』は音楽を集めることによって、主人公自身を覚醒させる。マジカントはあらかじめどこかにある世界ではなく、主人公が各地を巡り、新たに生み出した世界観だった。それを生み出すキーが「音の石」であるから、音の石が消滅して、マジカントが出現する……という仕組みだった。

 『MOTHER2』は物語の最終局面で、少し不思議な展開を見せる。ギーグがいるはずの場所へ向かったはずなのに、そこにギーグはおらず、遠い過去へ行った……と。
 なぜ?
 主人公達はギーグを追いかけるために、遠い過去へ行くことになったのだけど、しかし生身で行くことができないから、ロボットに魂を移すことになった。
 この「何かに魂を移し、遠い過去へ行く」という展開は、実は冒頭のブンブーンが伏線になっていた。なぜブンブーンがカブトムシの姿をしていたのか、というと生身の姿で過去へ行くことができなかったからだ。

 で、主人公達はロボットに体を移し、遠い過去へ行く。
 するとその場所だけど、文明の気配もなく、色彩のない世界観だった。
 ああ、なるほど……。
 この描写を見てピンとくるけれど、これは「過去」と説明しつつ、実は主人公の「内面世界」だ。なぜこの世界へ行くために肉体を捨てねばならなかったのか、というと、精神世界へ行くのだから、肉体を持ってその場所へ行くことはできない。肉体から魂を分離した状態でなければならなかった。
 過去へ行く……という説明だけど、具体的にどの時代か、を示していないのもヒントだ。これは方便というやつで、過去というより、「ここではないどこか」に行ったのだ。
 そこで、こんなちょっとダサいロボットの体で表現されたのは、この作品ならではのユーモアだ。

 いよいよギーグが待ち受けている場所へやってくるのだけど……。
 一瞬、ギョッとするよね。「内臓」かと思った。これはパイプが無数に這っている様子が描かれたのだけれど、実際のパイプだったら“直線”で表現されるはずだよね。なのに、パイプがやたらとウネウネと波打って表現されている。パイプで内臓を表現している様子なんだよね。

 で、その最奥でギーグが待ち受けているのだけど……二重にビックリな展開が待ち受けている。ギーグが主人公の顔をしていて、しかも横にポーキーを従えている。
 どういうことだ……と思うよね。
 ここまでの展開からすると、実はギーグも主人公自身だった……と解釈すべきだろう。もしかしたら主人公が世界と繋がった存在になれたから、ギーグの性質も取り込んじゃった……ということかも知れないけれど。
 そんなギーグの傍らに、ポーキーがいる。なぜポーキーがいるのか、というとポーキーが主人公の鏡面的存在だから。主人公の姿をしているギーグの横に、ポーキーが控えている……これがある意味で主人公が内面的に抱えていた画像で、ポーキーの願望でもあった。
 ポーキーは本当は主人公と一緒に冒険がしたかった。本当は主人公と仲良くしたかった。でも「世界を救う少年少女」に選ばれなかった。それで主人公の気を惹きたくて、主人公を妨害していた。
 主人公を追いかけて、先回りを繰り返して、その結果、行き着いた場所がギーグの傍ら……。
 ポーキーは最後までジョーカーとして憎まれ役を引き受けるけれど、その端々から感じるのは哀愁。
 主人公は最後の最後で、自分自身と向き合って、戦うのだ。

 最後の戦いは、肉弾戦で決着を付けるのではなく、ヒロインの「祈り」で解決する。ヒロインが祈ると、これまで関わってきたキャラクター達がハッと振り向き、主人公に祈りを返してくれる。
 今まで地球と繋がるために「私の場所」を取り返してきたのだけれど、ここで人間と結ばれていく姿が描かれる。地球と人間と繋がっていく。そこでここまでに関わってきたキャラクター達が再登場してくる。『MOTHER2』のドラマが高まっていく瞬間だ。

 壮絶な戦いを終えて、最後には別れ……。ギーグ打倒のために、みんなと繋がれたのだけれど、最後には別れていく。みんなそれぞれの家へ戻ることになり、お別れとなる。
 こうして『MOTHER2』の物語は終わる。

 私が『MOTHER1&2』をプレイしたのはゲームボーイアドバンス以来だったから、すでに10数年ぶり。どんなストーリーだったかな……という感じで始めたのだけど、いやいや、ものすごく面白かった。こんな奥行き感のあるストーリーだったのか、と驚いた。こんなすごいものを、28年前という時代にすでに作られていたんだなぁ……と率直な感動。そして楽しかった。名作はいつまで経っても名作。これだけの時間が過ぎても、変わらないんだなぁ……と思わされた。
 このまま『MOTHER3』をやりたい……でもまだ配信されていない。この流れで『MOTHER3』を遊べないのが惜しい。
 『MOTHER』シリーズは残念ながら3作目を最後に、完結してしまう。第2作目でギーグの物語が終わり、第3作目でポーキーの物語が終わる。そこでシリーズが完結してしまう。
 ファミコン、スーパーファミコンとゲーム機の変化を見たのだけれど、ゲームのスペックが上がると、「物語解像度」がまるっきり変わってしまう。『MOTHER1』から『MOTHER2』までこんなに変わるのか……と驚くほどだった。
 もしも最新機種で『MOTHER』を作っていたら、物語はどのように描かれていただろうか。情景は? それぞれのキャラクターはどのように描かれたのか、それらが紡ぎ出すドラマはどんなふうに変わっていったのか……。
 残念ながら、それを見届けることはできない。
 そもそも『MOTHER』は糸井重里さんが娘に遊ばせるために作っていた……という動機があったらしく、その娘がゲームを遊ばなくなってしまった。それで、ゲームを制作するモチベーションがなくなってしまった……。そんな理由をどこかで聞いたことはある。
 それはきっと職業人ではなく、アーティストとしての考え方だ。例えば『ドラクエ』シリーズは制作者たる堀井雄二さんは「もう終わりでいい」と何度も思ったけれど、会社側の要請でその後も続いている。なぜなのか、というと堀井雄二さんが職業人だから。糸井重里さんはゲーム制作をアートと考えているから、誰に何を言われても、モチベーションがなければもう作らない……という立場でいる。
 そう考えると、こんな時代にすでにゲームをアートとして捉えている人がいたんだな……と感心してしまう。
 それにしても、やはり『MOTHER』という伝説的なゲームが、この時代で完結してしまっているのが惜しい。どこかでこの伝説の続きを見ることはできないだろうか……。


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