2020年秋期アニメ感想 ご注文はうさぎですか? BLOOM
人気シリーズだが、『ご注文はうさぎですか?』を視聴するのは初めて。今まで気にはなっていたけれど、なんとなく逃してしまっていて……。なんとなく、じゃなくて忙しかったからだね。初視聴なのに第3期でキャラクター名やキャラ同士の関係性、設定その他などなにもわからない状態での視聴だった。私も作品については一切調べなかったし……。
……という感じでざっとシリーズを見た感じ、私の好きなキャラクターは千夜。佐藤聡美さんのああいった芝居が好きなんでしょうな、私は。
毎回、「千夜は出ないのかなーまだ出ないのかなー」と思いながらの視聴だった。
今期『ご注文はうさぎですか?』で一番好きなエピソードは第4話。ずっと千夜が出ていたから。千夜が出てさえいれば、だいたい満足だった。
※ 佐藤聡美…青二プロダクション所属の声優。『けいおん!』田井中律役、『生徒会役員共』七条アリア役、『きんいろモザイク』烏丸さくら役など。私のもっとも好きなキャラクターである『氷菓』の千反田える役もこの人。
さて、アニメの内容だが、世界観が不思議なことになっている。ヨーロッパ風の町並みに、女の子しかいない世界観。女の子達はいずれも中学生や高校生だが、みんな仕事を持っている。働いているのはみんな少女達で、大人達の姿が見えない。ある一定年齢以上の女性の姿が見当たらない。
かといって、映像を見ても貧しい雰囲気は感じらず、少女達が働く必要性は特に感じない。少女達は穏やかに日々の暮らしを謳歌しているようにすら感じられる。
あれだけの豊かさを持っていて、なぜ、何のために少女達は働いているのか……。これはいっそ、そういう世界観の中での約束事だから、というしかない状態になっている。
この作品と接していると、夢のような光景が延々と続いているようにすら感じられる。働いているのに現実感がまったくなく、世界観も物語にも夢想感が感じられるのはなぜだろうか。それを考えながら読み解いていく必要がありそうだ……と感じた。
画の品質についてだが、決して素晴らしいものではない。オープニングのアニメーションにはキレがなく、妙にふわふわしている。冒頭のよくある振り向きにもカメラとキャラクターの動きに躍動感がない。いわゆる「美少女回転寿司」と呼ばれるシーンは、キャラクターの動きにつぶしとのばしのリズムがなく、動画の速度も一貫性がないうえに、変なねばりだけがある。ラストの魔女姿のココア母の動きだけがやたらと早くて、あそこだけ浮いてしまっている。
本編シーンは、背景が華やかなヨーロッパ風の町並みにお花で一杯に飾られて美しいが、パースがあやふやだし、質感がのっぺりしている。ほとんどのシーンでキャラクターが足下まで描かれておらず、風景との連動感が薄く、書き割りっぽく見えてくる。あえて言うと、ドール人形の世界に見える。
ヨーロッパ風の町並みなのに、文化的な面は明らかに日本。ヨーロッパ風のしつらえのある日本のどこか、みたいな雰囲気がある一方で、登場してくる女の子は千夜以外は人種の特定すら困難な謎めいた雰囲気を漂わせている。
だが、アニメシリーズの画は常に極上である必要はない。その作品を成立させる上で、充分な画が構築されていれば良いわけで、『ご注文はうさぎですか?』その要件を満たしているので問題がないし、『ご注文はうさぎですか?』という作品で、絵の品質がどうとかいう評論は聞いたことがない。
世界観を見てもキャラクターを見ても一貫性がまったくない。ある意味、奇妙さが一杯に巡らされた作品だが、不思議と成立している感じがある。これはなぜなのか。
※ 美少女回転寿司…アニメのオープニングシーンなどで各登場人物が次々と登場する場面のことを指す。美少女アニメで描かれがちなので、「美少女回転寿司」と呼ばれる。元々は「イケメン回転寿司」という言葉があり、そこから派生した言葉のようだ。
こうした作品を読み解くための格好のテキストだと思っているのが、フランス映画の『エコール』だ。2004年の映画で、監督はルシール・アザリロヴィック。
『エコール』とはどういう作品か、を雑な説明で紹介すると、「日常系萌えアニメの完全な実写化」である。おや、「萌えアニメの実写化なんて、できるわけないだろ」とそこのお兄様方はお疑いのようですな。『エコール』は本当に萌えアニメの実写化に成功した唯一の作品なので、騙されたと思って視聴してほしい。
っていうか、「萌えアニメ」なんて言っちゃったな、私。
※ エコール 2004年のフランス映画。フランク・ヴェデキントの小説『ミネハハ』を原作とする。原題は『イノセンス』だったが、押井守監督のアニメーション『イノセンス』と混同するため邦題が『エコール』となった。オススメの作品。
では『エコール』という作品について、詳しく紹介しよう。
そこは深い森の中。女の子しかいない宿舎が舞台だ。女の子達はある日、箱に入れられて、何者かに連れてこられる。そこには男の姿がなく、大人もごく少数。女の子だけの世界だった。
女の子達は誰にそこへ連れてこられたのか。いったいどこの森の中なのか――なにもわからない。女の子達もその問題について、ほとんど疑問に持つこともない。
女の子達はみんなバレエの練習をやっていて、その発表会の時のみ、外部から大人達がお客さんとしてやってくる。それ以外は完全に閉ざされた、少女だけの世界の物語である。
映画『エコール』はどういう結末で終わるかというと、女の子達は最後に森の外に出て、男の子に「やあ君!」と声を掛けられるところで終わる。全編、ほとんど夢のような世界が描かれるが、最後の最後で男性が現れ、声を掛けられる。つまり、異性の出現と、異性を意識することで夢の世界がハッと終わってしまう。そういう描かれ方になっている。
『エコール』には『ご注文はうさぎですか?』やその他『きらら系』と呼ばれる作品群と似たような特徴を備えている。
まず少女だけしかいない世界観。もちろんみんな美少女。女の子しかいない世界だから、女の子同士でただひたすらに関係性を深めていく。外の世界に対する関心もあるにはあるけれど情報が何もないから、なんとなく恐ろしい、怪談めいた話にすり替わってしまっている。
『エコール』で描かれるのは美少女と、あとは美しい森と湖だけ。それだけの世界しかない。美少女と森と湖というシンプルな構成だけで組み立てられた映像は、なんともいえない甘美で、夢想的で、ほのかな官能がふわりと漂う……。ついでに言うと『エコール』には物語的な山もない。ドラマ的なクライマックスというものがなく、ひたすらに夢想的な映像がえんえん続き、それがある瞬間、ふっと終わる。それこそ夢だった……みたいな感じに終わってしまう。
『エコール』に登場する女の子というのは生身の女の子だからやがて成長し、初潮を迎え、大人になっていく。そういう端境期になった瞬間、外の世界に連れて行かれて、男の子に「ねえ君!」と声を掛けられて終わる。ここだけがアニメと違うところだ。
『エコール』では象徴的に森の中の学生寮という場所が描かれているが、これは女の子が普遍的に通過する、ある閉鎖的な時期を描いている。童の時は論ずる時も童のごとく――という言葉もあるように、少女である頃というのは少女という意識でしか世界を見ることしかできない。女の子は同性を意識の中心に置いて内的意識を育んでいき、時に同性に対して恋心を抱き、それは危うく性的な気色をはらむことはあるけれど、ある一線を越えず、えんえん同じ所を漂い続ける。
この時期の少女にとって異性である男の子なんてものはノイズでしかなく、ロクに教育されていない幼少の男子なんてものは野生動物とほぼ同等なので、男の子というものは時々現れては女の子世界を荒らしていくモンスターでしかない。『エコール』はそういうノイズを徹底して廃しているので、ただひたすらに無垢の世界観が成立してしまっている。
『エコール』にはそういう少女期特有の世界観、感性を「森の中の学生寮」という象徴的な場所として描いているが、これは実際ではなく、あくまでも夢想のもの。またそういった表現を組み立てるために“しつらえ”として用意されたものに過ぎない。
『エコール』では同時に、外からの目線も描いている。少女期特有の夢想的な世界……なんてものは少女自身の体内にあるわけはなく、それは外から見て、「あーいいなー」とか思っている空想の中でしかない。だから作中、女の子達のバレエを披露する場面で、お客さん達が寮に訪れる。あのお客さん達は、少女という世界観に対する羨望と、あるいは性的欲望の目線を表現したものだ。『エコール』はそうした外部からの目線も自覚的に取り入れている。少女期の閉鎖的な内面世界を描くと同時に、外的な目線も同時に描いている。だからこそ成立しうる世界観となっている。このことに自覚的なのが『エコール』の面白いところだ。
『エコール』という作品の特徴がだんだん見えてきたところで、『ご注文はうさぎですか?』という作品を見ていくとしよう。
『ご注文はうさぎですか?』は女の子しか登場しない。老婆やごく少数の男性も登場するが、それは「キャラクター」として確立したものしか登場せず、いわゆるモブキャラはみんな若い少女か女性だ。『ご注文はうさぎですか?』において、大雑把に認識される女性は、みんな少女か若い女性しかいないのだ。これは少女の内的世界を描いているからだ。男性は存在していたとしても、少女の意識内ではミュートされているのだ。男性は時々、意識された瞬間のみ、ふっと姿を現す。
(車がほぼ登場してこないのも、車も外部世界のノイズという位置づけだからなのだろう。それにあの夢想世界に車は相応しくない)
『ご注文はうさぎですか?』は、『エコール』的な少女達の内的世界と、その世界を外部から見た羨望を同時に描いている。
注意深く見ていると『ご注文はうさぎですか?』には少年も少し描かれているが、私は「少年っぽい格好をしている少女」だと思っている。男性でも女性でもない、分化を前にした“子供”であるから、どちらでもないし、どっちでもいいんだ。男の娘でもいい。
どうして『ご注文はうさぎですか?』ではヨーロッパ的な風景が描かれるのかというと、はっきり言って日本の風景は美しくないからだ。日本の典型的な町並みはどこを見ても灰色のアスファルトで、面白味も一貫性もない“ただの家”が立ち並び、空を見上げると視界を遮るのは電柱と電線……。日本の町並みはどうしてこうも美しくないのだろう……と私も常々感じていることだった。こんな場所で、少女達の閉鎖的な世界を描けるかというと、描けない。無理だ。『エコール』では森の中の学生寮という“しつらえ”が用意されたように、『ご注文はうさぎですか?』でも同じような“しつらえ”が必要になってくる。それで古き良きヨーロッパ的な風景が描かれた。
それもなんとなく印象のヨーロッパ風で、ドイツ風の木組みの壁があるかと思えば、ヴェネツィア的なゴンドラが水路を巡り、町並みには誰が管理しているのか不明のお花が一杯に飾られている。建物はどれも3階建て4階建てと非常に階層が高く、この中に一家族が入るとしたらあまりにも裕福すぎ。おそらくは分譲していたりシェアハウスしていたりすると予想されるが、そうした住人達が作り出している生活感は映像の中にまったく感じられない。
奇妙に感じるが、『ご注文はうさぎですか?』の世界観はあれでなければならないのだ。ああいった世界観だからこそ、由来のわからない美少女が戯れ続ける夢想世界が成立する。もしも『ご注文はうさぎですか?』の世界観が違うように描かれたら、作品からあれだけの夢心地な雰囲気を感じることができない。
『ご注文はうさぎですか?』には由来が不明の女の子達だけで構成されている。喫茶ラビットハウスのメンバーを見ても、紫の瞳をしたココアに、青髪青瞳のチノ、紫髪紫瞳のリゼと、一貫性が感じられない。
女の子達はなぜかみんな喫茶店に勤めている。
「喫茶店」という場所に対する憧れ……というものは私はわからないのだが、わりと多くの人が「いつか喫茶店をやってみたい」「お洒落な喫茶店へ行きたい」と思っているようだ(私は喫茶店は単に食べる場所……くらいにしか思ってない)。喫茶店という場所に夢想を託している人はどうやら多いらしい。『ご注文はうさぎですか?』が描いているのは、まさにそういう夢想の具現化だ。
私がポイントだと思っているのは、女の子達の制服だ。制服はその人間に固有の社会観を与え、規定する。だからこそリベラリストは制服を嫌うが……私は好きだ。みんな好きだ。私服よりも制服のほうがよほど好き……という困った人々は多い。私もその一人だ。
『ご注文はうさぎですか?』には様々な制服が登場する。学生服に、それぞれの喫茶店の制服。学生服でもあえてキャラごとに違った学校に通わせ、制服のバリエーションを増やしている(決して大きな街に見えないのだが、学校が複数あることになっている)。キャラクター達は頻繁にそれぞれの制服を交換しあって、華やかな姿を見せてくれる。そういった場面が明らかに作中一番のサービスシーンとして捉えられている。入浴シーンのヌードよりも重要な地位が与えられている。制服のショットは他のシーンよりも明らかに気合いの入った絵で表現され、私も思わずスクリーンショットを多く撮ってしまった。
しかし女の子達の働いている様子にはリアリティがまったくなく、言ってしまえばあれは単なるコスプレだ。喫茶店に勤めている……というシチュエーションが描かれているが、あれは部活物の変奏だと思っている。
喫茶店という小洒落た空間があって、そこでみんな可愛い制服を着て、戯れ程度の接客を時々やっている。……これは学園祭的な情緒だ。いやいっそ、世界観を含めて全体が“学園祭”情緒に満たされている……といっても言いすぎではない。無限に続いている学園祭情緒の中で、あの少女達は戯れを続けているのだ。
『けいおん!』も学園祭的な夢想が続く作品だったが、平沢唯や中野梓はきちんと「日本人である」という縛りを持ってキャラクターが生み出されている。由来が明示されているから、舞台は日本でなければならないし、その戯れが永遠に続くことはなく、どこかで終わりを迎えなければならない。
対して『ご注文はうさぎですか?』はぬけぬけと、学園祭的夢想を無限に続けられるように作られている。なぜならココアもチノもどこにも所属も由来を持たない、純然たる“アニメキャラクター”だからだ。アニメキャラクターでしかない、という開き直りを最初から持っているからあの世界観が成立し得て…… いやアニメキャラクターという特殊性を持っていなければあの世界観は成立させようがない。ヨーロッパ風のしつらえにあの美少女達という組み合わせでなければならないのだ。あれで現代日本風の世界観だったら雰囲気ぶち壊しだろう。日本の風景は美しくないし、身近にある世界は夢想の対象にならない。ヨーロッパ風の“どこか”がちょうどいいのだ。
『ご注文はうさぎですか?』は実写で描けるか、といえば絶対に描けない作品だ。絵に描かれた世界でなければ成立し得ない。
ここが『エコール』と違うところで、『エコール』に登場する美少女達は人間として描かれているから、あの夢想的な美しい森の学生寮という世界観はいつか終わってしまう。終わりを迎え、男の子に「やあ君!」と声を掛けられて終わる。『エコール』は有限の世界であったのに対し、『ご注文はうさぎですか?』は無限にあのたわむれを続けられる。そういうところで、異様な強度を持った世界観だったといえる。
『ご注文はうさぎですか?』において、見逃せないモチーフがある。それはウサギである。作中でもあちこちにウサギのモチーフが描かれた。
ウサギが登場する物語で有名な作品と言えば『不思議の国のアリス』だ。
ウサギが登場する作品は別に『不思議の国のアリス』だけではないが、この作品を特に言及するべきだろう。エンディングも明らかに『不思議な国のアリス』のイメージで描かれていたわけだし。
※ 不思議の国のアリス…イギリスの数学者ルイス・キャロルが描いた児童小説。アリスという少女がウサギに誘われて、異世界に行くというストーリー。多くの作品で引用され続ける名作小説。
たまたま最近読んでいた本に、こんな一節が出てきた。
「少女とは人間の中でもっとも(あからさまに)性的でない存在であり、性をいちばん安全な場所にしまっておける存在であるが、一切の性的なるものを、そのような少女のなかに封じ込めてしまいたいという願望こそ、ドジソンが少女に惹かれる大きな動機をなしていた」
澁澤龍彦の『少女コレクション』という本の中に出てくる一説だが、イギリスの批評家ウィリアム・エンプソン『牧童としての子供』からの引用である。
ドジソン、つまりルイス・キャロルに向けた評言だが、これはそのまま多くの美少女アニメに当てはまる。
アリスとは独身者の幻想が生み出した一種のモンスターである。美少女は実は奇形であり、単に時代の志向が噛み合っただけに過ぎず、その姿が普遍性を持つわけではない。美少女はその時代の欲望が生み出したモンスターである。
ドジソンは作中と同じ名前のアリス・リデルという少女に恋し、その少女のヌードを撮ることを至上の趣味とし、その美しさと官能に惚れつつも、しかし性的に手を出すことはなかった。明らかに性的な欲求を持っていたくせに、性を遠ざけようとしていたのだ。なぜなら手を出して性交してしまったらその瞬間、少女期特有の幻想が破壊されるからだ。ドジソンはロリコンだが、そこをわきまえていた。
少女は無限に端境の中で戯れている……そういう幻想世界の存在でなければならない。『エコール』に登場する美少女達のように。性交してしまうと、途端にその幻想は崩れ、現実が迫ってくる。性的な欲望を感じつつも、永久に遠ざけてガラスの棺の中に留めておきたい。少女をその半端な状態にドジソンは置き続けていたかったのだ。
でも現実の少女は成長してしまうものだし、ドジソンは13歳のアリス・リデルに求婚したが結局、振られている。もしも結婚が叶っていたとしても、その幻想は少女が成長してしまうことで終わってしまう。現実は幻想のような永続性を持ち得ないのだ。
※ ドジソン……ルイス・キャロルの本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンのこと。1832~1898年。イギリスの数学者であり、写真家、作家、詩人。作家としては『不思議な国のアリス』は言うまでもなく、その他にも数学者として様々な著作を残している。
※ アリス・リデル……『不思議な国のアリス』のモデルになった少女。もともとはこのアリス・リデルという少女を喜ばせたくて、少女と同じ名前のアリスという少女が主人公の物語が作られた。
だが、アニメの世界ではこの永続性は守られ続ける。
しかも現実に存在しない少女達が私たちのような外部の人間に毒されることはない。永遠に無垢で、永遠に夢想の世界を戯れ続けることができる。大人になることもない。
美少女アニメに登場する女の子たちは明らかに性的で、時にこれみよがしにその危うさが描かれるのに、しかし決定的な瞬間が決して描かれることはない。どこまでも行っても少女という端境のまま描かれ続ける。アニメキャラクターだからこそ、端境で戯れ続けることができる。
当然ながら、あんな巨大な瞳を備えたキャラクターなんてものは奇形以外の何者でもない。だが美しい。アニメキャラクターだからこそ、現実を越えた理想型でいられる。ただそれも時代の産物で、時代の移り変わりとともに、次第にあの姿に美しさは感じられなくなる(感性も巡ってくるもので、そのさらに数十年後にはあのキャラクター達が美しいと言われる時代がくるだろう)。
美少女キャラクターの特徴と言えば大きな瞳にまるっこいフォルムの輪郭線。あれはどちらかといえば子供の特徴だ。美少女キャラクター達は子供の特徴を強く押し出している。でも実は大人との端境期にいる“少女”であるという。この異様さが、少女達の危うさをより強くしている。
アニメの美少女達は私たちにとって、ガラスの棺の収められた彼岸の他者でしかない。
もしもドジソンがこの2000年代に生まれていたら、美少女アニメに夢中になっていただろう……いやすでに生まれ変わりがいて、秋葉原に入り浸っているかも知れない。そういう数学の先生がいたりしないだろうか。
『ご注文はうさぎですか?』はルイス・キャロルが抱いていた幻想を意識していたかどうかは不明だが、作中のあちこちにウサギのモチーフが描かれる。喫茶ラビットハウスの名前。千夜が勤める喫茶は「甘兎庵」。シャロが勤める喫茶「フルール・ド・ラパン」の「ラパン」はウサギという意味だし、カチューシャの垂れ耳はウサギが意識されている。その他の色んな所でもウサギは欠かせないモチーフとなっている。公園へ行くと普通に野ウサギが放たれているという徹底ぶりだ。
ではあの少女達はウサギに誘われる美少女なのだろうか。異世界を探検した後、一時の夢だったかのように現実に帰っていく美少女であるのだろうか。
私はそれは違うと感じていて、というのもあの少女達はあまりにもウサギというモチーフを近距離で背負い続けている。ということは、あの少女達自身がウサギなのだ。あの少女達はすでに幻想世界の住人であるから、何かを越境して幻想世界へ行く必要がない。
しかしココアもチノも“使者”であるのに、誰かをあの世界観に引き込むということはしない。なぜならあの世界の住人だけで物語は自己完結しているからだ。外部から誰かを引き込まなければ、物語が始まらないということもなく。自分自身が幻想世界の使者という立場だから、アニメという幻想世界を無限に戯れ続けることができる。
ここまでに上げた美少女の幻想は、別に『ご注文はうさぎですか?』という作品に限らないのではないか、と思われるし実際そうなのだが、ただ思ったのは『ご注文はうさぎですか?』は上に挙げたような幻想が異様に濃いと思えたからだ。
ヨーロッパ風だがいったいどこなのかわからない風景。みんな働いているようだが貧しさはまったく感じられず、働いている風景も労働特有の苦労は一切感じない(もし生活苦なら、あんな客の入らない喫茶店に勤めるべきじゃない)。そんな世界観の中に描かれる出自不明の美少女達……。
何もかもが幻想。物語もドラマというか戯れである。その物語も進行していく過程で、どんどん幻想の濃度を濃くしていく。まるで作品自体が夢というか、作品を見ている時間すらも夢のように感じさせてしまう。
そういった世界観だからこそ、あの風景と少女という組み合わせが異様にピタッとハマる。ヨーロッパ風という漠然とした世界観に、小さく収まった喫茶店という風景と、美少女達……。この組み合わせがひと連なりに綺麗にハマって見える。なるほど、だからこそヒット作として長い寿命を得たのか、と納得もできる。
美少女アニメを大ヒットさせる秘訣はなんであるか? 私はその作品独自の風景を生み出せるか……だと考えている。最近のヒット作『ゆるキャン』では、冨士山が望める湖を前に、女の子が椅子を置いて座って本を読んでいる。第1話であの風景、あの画が出てきた時点で、ああこれはヒット確定だと思った。
物語がどうとか、キャラクターがどうとか、そういうのはどうでもいい。そういうものが重要だと思っている視聴者はおそらくいない。だって、物語はたいして面白くなければ、キャラクターはみんなどこかで見た、借り物でしかない。でもそんなものはどうでもいいんだ。ポイントはただ一点で、美少女と風景という組み合わせに幻想を感じられるか、それを画として表現できるか。『ゆるキャン』はそれができていたから、あれだけのヒットとなった。
そういう要件で言えば『エコール』も同じで、森の中のどこなのかわからない宿舎という場所があって、そこで戯れている美少女達がいる。その画だけしかない映画だ。だがそれがたまらない映像体験を生み出している。
美少女アニメは毎年毎クール大量に作られている。「美少女は白飯」といううまい例えがあるのだが、まさにその通りで、美少女を白飯にしてどんなオカズが横に置かれているか、という作られ方をしている。色んな作品が色んなモチーフをオカズにして制作されている。でもその大部分が特に注目されることもなく、姿を消していく。
なぜか? 白飯とオカズの組み合わせが美味そうに見えないからだ。美少女が持っている幻想を充分に活かしきれる“佇まい”をきちんと描けているかどうか。これを美しく、魅力的に描けないとどんなモチーフを持ってきてもダメ。美少女アニメは物語が面白くある必要はなく、お話がゆるいとかスポ根にすべきかというのもどーでもよく、斬新なキャラクターデザインが必要かというとほとんどの場合はそうでもなく(堀口悠紀子のようなインパクトのある絵描きがいたら、そこで一点突破できるが)、その作品固有の幻想を描けるかどうか、この一点にかかっている。これが描けていない作品は即座に消える。
※ ゆるキャン…キャンプ場を主な舞台とする作品。2015年から連載が続く。2018年に放送されたアニメが大ヒットし、キャンプブームの切っ掛けを作った。
※ 堀口悠紀子…1983年生まれのアニメーター、イラストレーター。京都アニメーション所属時代に『らき☆すた』『けいおん!』という大ヒット作のキャラクターデザイン、作画監督を引き受け、美少女キャラクターの見過ごすことのできない普遍的なスタイルを確立させた偉大な人。
そこで『ご注文はうさぎですか?』の場合、美少女と風景という組み合わせが異様な濃さを生み出している。なにもかもが、完全な虚構。完全に閉じた世界観。その世界の中で戯れ続ける女の子達。それを恥ずかしげもなく、我に返ることもなく、むしろ書き手自身が信じてその世界観に徹底的に没入した。なるほど、これは極上の美少女アニメだ……と言わざるを得ない。
私たちは『ご注文はうさぎですか?』という作品を見ながら、ああ、あんな世界に行きたいと羨望の眼差しで見ながら、しかし所詮は絵に描いた世界に過ぎないものだから、眺めることしかできない。そんなふうに気持ちを曖昧にしておける。だからこそ、多くの人が『ご注文はうさぎですか?』にのめり込んでいくのだろう。
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