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2021年冬期アニメ感想 ぶらどらぶ

 『ぶらどる』……じゃなくて『ぶらどらぶ』だ!
 押井守監督による久しぶりのテレビシリーズ作品。どれくらい久しぶりなのかというと、1981年の『うる星やつら』以来だから実に40年ぶりとなる。若いアニメファンはもはや「押井監督のテレビアニメ」なんて、タイトル名すら知らないんじゃないか……というくらいに久しぶりのテレビシリーズ監督となる。押井守は総監督のポジションとなり、監督は西村純二(現場の中心的指揮は西村が執る……ということになる)。西村は押井監督と同じく40年前に『うる星やつら』ではアシスタントディレクターとして関わった人である。
 他にも音響監督に若林和弘、音楽の川井憲次、演出スタッフに西久保利彦なども加わり、平均年齢60歳以上の老兵たちの下に、水野歌や新垣一成といった若手が加わるという構成となっている。

 押井守監督40年ぶりのテレビシリーズ作品となる。
 さすがに40年ともなると、テレビ作品に関わっていた頃の押井守自体を知らない……という人のほうが多いくらいだろう。押井守監督が世界的評価を得たのは1995年の『GHOST IN THE SHELL』から。アニメファン的な評価でいえば1993年『パトレイバー2』で決定的になった。若いアニメファンが後から押井守という人の話を聞いて評価の高い作品を見ようと思ったらまず『GHOST IN THE SHELL』か『パトレイバー2』になるはずで、その以前の作品までちゃんとチェックしている……という人は相当少なくなっていくだろう。

 しかし『パトレイバー2』は押井守監督の作風がガラリと変わったポイントで、その以前の押井監督というのは実はギャグの人だった。1989年『パトレイバー』劇場版1作目までその残滓をはっきり確認できるのだが、その2作目になったところでほとんど別人かというくらいに作風を変えてしまう。押井守著作を読んでいると、インタビューで「エンターテイメント映画の作りに飽きた」と語っているように、『パトレイバー2』から現在の作風に――エンタメ的な演出やわかりやすさを完全に排除した映画作りの作家となってしまった。今となってはコアなアニメファンですら「ギャグの押井守」について言及する人はほぼいない状態にまでなっている。

 押井守エッセイ『犬の気持ちはわからない』という秀逸な一冊があるのだが、こういったところではふんだんに「ギャグの押井守」を確認することができる。後から見ると作家としての端境期となっている『パトレイバー1』ではその後の作風とギャグの押井守の両方が見て取れるし、エンタメ映画として素直な作りをしているほぼ唯一の作品となっている。
(もう一つの端境期の作品と言えば1989年『御先祖様万々歳!』がある。『御先祖様万々歳!』はまさしく2作の『パトレイバー』劇場版の間に収まる作品で、こちらの作品もまだギャグ寄りだった。ギャグの押井守からシリアスの押井守に移り変わる直前の作品としても注目すべきである)

 実は私は劇場版『パトレイバー1』が好きで、ついでに『御先祖様万々歳!』といった作品も好き。初期の頃に作られた『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』やエッセイ『犬の気持ちはわからない』といった作品ももちろん好きで、あの頃の切れ味鋭いギャグを連発する作家だった頃の押井守作品が好きだった。その後の世界的評価を得るようになった作品群ももちろん素晴らしいのだが、しかし愛着があるのはどちらかというと過去の作品の方。切れ味のいいギャグ、素直なエンタメの作りをしている頃の押井守が好きだった。間違いなく少数派だけども!

 ――そんな押井守が、まさかの40年の時を経てテレビシリーズの監督に戻ってくる! 古くから押井守作品を見てきた一人として、そのニュース自体が衝撃的であった。しかも作品はかつて描いていたようなギャグ作家としての押井守のほう。
 これまで長らく劇場作品の作家として続けてきた押井守が、いったいどういった風の吹き回しだろうか――というと話は単純で、海外ドラマにハマって、それでテレビシリーズがやりたくなったから……そこでたまたま声を掛けられたから、という経緯だったそうだ。
 テレビシリーズは映画の縮小版ではない――テレビシリーズで何ができるか。何を追求していくことができるのか。御年70歳になる老兵がどういった作品を描くのか、期待高まる1作である。

 ようやく『ぶらどらぶ』本編の話をしよう。

 趣味が献血……と見るからに不健康そうな少女バンバン……ではなく(サトラレ少女)絆播貢の元に、吸血鬼少女マイ・ヴラド・トランシルヴァニアがやってくる……というところから物語は始まる。

 という経緯はさておくとして。
 背景が実写である。これは実際にセットを組み、撮影して、その上で美術スタッフによるトレースと彩色で作られた背景である。だから正確な立体・空間構造を持ちつつも、線や色彩がふわっとしている。少し不思議な感覚のする背景となっている。正確な立体を持ちつつも、少しふわっとした柔らかさを持った背景の上に線画で描かれたキャラクターが載る。一見すると質感の合わない両者だが、映像を見ると不思議と噛み合って独特の風合いを作っている。
 こういった手法ですぐに思い当たる作品と言えば『トワイライトQ 迷宮物件』だ。背景を写真から作り出す、という手法は『迷宮物件』で検証された手法で、以降、押井守監督は作品に写真を使うようになったし、『パトレイバー2』あたりからはプロのカメラマンを起用している。過去作品では実写背景とキャラ絵は切り分けられていたが、今回はこの両者を合わせる方法を採られている。
 ただし『ぶらどらぶ』の背景は“セット”を作って、その上で写真撮影をする、という手法を採っている。

 こうした作り方をする理由を考えてみると、テレビアニメのレイアウト。テレビアニメのレイアウトは、そこまで正確な立体が描かれることはあまりない。キャラクターの足下をあえて描かず、キャラクターがいる前景と遠景とをぱっきりと切り分けている。背景の質感がのっぺりしていることはよくあるし、奥の方へ行くほどパースはあやふやになっている。前面に乗っているキャラクターの密度でどうにかごまかしている……という感じだ。昨今はキャラ絵の出来がどうこうで「作画崩壊だ!」大騒ぎする連中が絶えないが、背景パースが狂っていてもそこに目を向ける人はごくごく少数である(要するに前面のキャラ絵だけで作画がどうこう言っているような連中は絵をわかってねー……と)。私としても背景パースがそこまできっちり描かれているテレビ作品は、そうお目にかかったことがない。
 そこでレイアウトの品質をいかに保っていくのか。押井守はキャラ絵がどうこうよりも「レイアウト」を重視する演出家である。押井監督作品を見ると、レイアウトまでガッチリ監修するが、キャラ作画については作画監督にお任せしてある。レイアウトにこそ、演出家の意図が宿るという考え方だ。
 テレビシリーズを制作したいが、レイアウトをしっかり描くには相応の実力ある作画スタッフが必要だし、しかも時間が掛かる。大量生産を基本とするテレビシリーズの中でいかにして品質を保っていくのか。考え出された手法が“写真”である。大量の写真を活用し、トレースした上でキャラクターを載せる。あとはシーンに合わせてイメージを作り上げていく。
 例えば第2話、保健室の窓からやたら大きな月を見上げるというカット。月はあんなに大きくないし、色彩にもリアリティがない。でも画としてはハマっている。写真は使うが、いかに画として決まっているかどうかが重視されている。
 こうやってお手軽にレイアウトの品質を保ちつつ、テレビシリーズ特有の大量生産にも応える。過去に培われた技術が活きた作品だ。

 主人公絆播貢の家を見ると、今ではなかなか見られなくなった平屋の和住宅。その居間には畳にちゃぶ台。背景には奇怪な民具とかなり不思議な絵面となっている(あそこに置かれているものから親は民俗学者……という予想を第1話の段階で立てていたが、だいたい正解だった)。
 畳とちゃぶ台という、いかにもな“作り物”めいたセットの上で絆播貢とマイが対話する――。これはなんだろうか、としばらく考えていたが、これは「舞台」だろう。コントの舞台だ。それも、古き良き昭和コントを意識したセット作りだ。
 リアルな舞台作りではなく、あえて作り物っぽい背景を目指したのだろう。現実に存在しないようなアニメキャラといかにして融合を図るか? アニメキャラが作り物でしかないのだから、舞台も作り物に徹したほうが良い。その潔さのほうに振ったのだろう。
 舞台ふうの作りといえば『御先祖様万々歳!』を思い出す。『ぶらどらぶ』も長回しの多い作品で、それならなぜ『御先祖様万々歳!』のような徹底した舞台ふうの作りにしなかったのか――というと『御先祖様万々歳!』はうつのみやさとるという希代のアニメーターがいたから。『御先祖様万々歳!』はうつのみやさとるというアニメーターがいたから成立し得た作風であって、彼がいなければ成立し得ない作品である。あそこまで完全に舞台ふうの見せ方でキャラの動きだけで間を持たせる作りは、うつのみやさとるという独自の感性を持ったアニメーターがいなければ成立し得ないことである。

 では『ぶらどらぶ』ではどのようなアプローチを取られたのか。
 見てわかるように、カットインの挿入である。どうもこれはゲーム演出をヒントに作られたらしい。
 面白いのはキャラクターが向き合って対話しているシーン。通常、こういったシーンを演出する場合、キャラクターの正面顔を見せるために、何度もカメラを転換しなくてはならなくなる。二人の顔を同時に見せようとすると横顔になってしまう。二人の正面顔を捉えたいが、それは絶対にできないことになっている。それでも2人の顔を同時に捉えるために、演出家は昔から色な物を……鏡などを使ったりと工夫を凝らしてきた。
 このカットインを使うと、向き合っている2人の正面顔をずっと捉えることができる。本来あり得ない画が可能になってくる。
 またこう描くことで作画の節約になる。向き合っている2人の正面顔を描こうとしたら、そのぶんレイアウトを描き起こさなければならない。これが意外と大変なのだ。でも一方だけのレイアウトを作り、あとはキャラ絵に集中できる。絵の品質を保つ上でも有用な手法となる。また長回しがずっと続く画にもなるが、「間が持たない」といった問題も起きずに済む。利点の多い手法だ。

 キャラクターが複数人集合した時も、カットインが多用される。この時もやはり必要なレイアウトは1枚だけ。レイアウトを作り起こす手間ががっつり省けて、キャラ作画に集中できる。品質も保つことができる。良いことだらけだ。
 第2話になると、本来そのキャラクターがいる場所と向き合うのではなく、カットインされたキャラクターのほうを見て話し始める……という不思議なことを始める。この作品ならではの独自表現の開拓に進み始めている。

 そこで上手いのは声優の芝居。この作品の要であるマイは異世界からやってきた異邦人である。ラムと同じく、天から落ちてきた少女だ。そのマイの芝居はいかにもなアニメキャラクター的な、「作り物ですよ」という声で芝居をしている。演じている日高里菜はもともとそういう声質の持ち主ではあるのだが、それ以上にマイは「わざとらしさ」をあえて出してきている。
 それに対して絆播貢はかなり落ち着いている。地に足の付いた芝居でリアル感を作品に残している。もちろん、作品が作品だから相当にコミカルな振り方をしているのだが、飛躍しすぎていない。ある段階で押しとどめて、芝居の感覚で作品の重しになっている。
 この2人がちゃぶ台を挟んでの対話をしているシーンを見ると、舞台劇っぽさが出てきている。シーン自体がコントとして成立している。これがなかなかいい。
 そうした重しを中心において、出てくるキャラクターがそろいもそろって変人ばかりだし、回を重ねるごとに声優達の芝居も弾けていく。雲天那美を演じる小林ゆうは、相変わらずだんだん何を言っているかわからなくなってくるし、渡部マキ(いま唐突に気付いたが、この名前は渡辺麻紀が元ネタかな?)は声優界きっての美声を持つ早見沙織だが回を追うごとに芝居が汚くなっていく。いつもしないくらいに弾けきってあの美声を汚してくる。墨田仁子を演じる日笠陽子もやはり暴れ回っている。

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 血祭血比呂……キービジュアルを見るとマイと絆播貢は奥に追いやられて、ド中心にいるのは血祭血比呂。押井守的に真の主役であり真のヒロインはおそらくこの人だろう。押井守監督がもっとも素直に気持ちを寄せられるキャラクターなのだ。役どころを見るとどうにも『うる星やつら』のさくら先生のバージョンアップ版だ。
 血祭血比呂の台詞を見ると、もはや押井守監督の意思が載りまくっている。引用に、作品設定に対する客観的な視点を与えたり。それをあの独特すぎる節回しでまくし立てる。押井守の霊魂が乗り移るキャラクターとなっている。その最も厄介者である血祭を演じる朴璐美のハマりっぷりが凄い。圧倒的な存在感を持ち、作品の主導役としての力を持っている。

 ただし、カットインの手法は必ずしもうまくいっているとは限らない。問題が多かったのは第3話『サバト・ナイト・フィーバー』だ。物語の後半へ向けて活劇が展開されていくのだが、相変わらずのカットイン。こうすると一つ一つが記号的になり、何が起きているのか把握しづらくなる。また要である見せ場が消失してしまう。はっきり言うと、何が起きているのかよくわからない。
 いや、お話の流れで察することができるのだけど、断片的なイメージを羅列しただけでシーンそのものとして成立していない。一言で言うと、「つまんない」シーンになっている。
 後半の見せ場がカットイン手法でつまらなくしてしまっているから、全体の印象(後味)として弱くなってしまっている。特に第3話ラストはマイの正体が知られてしまう決定的な一場面が描かれるのに、ほとんどのシーンで何が起きているのかわからない。ああいった場面では、私を含めてみんな活劇それ自体が見たかったはずなのに。

 対して劇的に面白かったのは第6話『悪魔の城 ドラキュラ』だ。第6話が面白かった理由はごくシンプルで、カットインを少なく収めたこと。キャラクターが走り回り、暴れ回る場面を絵として表現している。
 やはりアニメは絵が動いている瞬間をきちんと描いたほうが良い。走り回っている絵を見ると、見ている側の気持ちが動くのだ。アニメーションにはそういう力がある。だから誰もがアニメーションに夢中になるのだ。
 暴力を振りかざす墨田仁子の動きもいいし、舞台劇場なのにセット裏を駆け回る絆播貢。あの走る場面とか絶対必要かというとそうじゃないのだけど、でもあえて走る場面を何度も見せることで見ている側の気持ちも動くし、その場面を見せること自体が面白さに繋がっている。
 作画も第6話で明らかに良くなっている。原画の絵の崩れを気にしない。思い切った動きが登場する。止め絵よりも、ああいった大胆な動きの方がアニメ的に生き生きしはじめるんだ。大袈裟に体を動かし、オバケも一杯出てくる。ああいったコミカルな動きが出てこそ、テレビシリーズの面白さが出てくる。(止め絵の美しさ?……押井世代はそんなものに価値を置いてない)
 そうそう、マイが黒板に名前を書くシーン。キャラクター達が耳を押さえて悶絶する時の絵だが、完全に押井守の絵コンテの絵になっている(第6話の絵コンテは押井守だ!)。あんな顔をして歯を剥き出しにする絵なんて、今時の演出家は誰もやらない。でもあえて描いてみせる。あの絵が出てくるのが嬉しかった。

 ところで、本作には様々なパロディが登場してくる。第3話ではカプコンのゲーム『ヴァンパイア』からモリガンの衣装が堂々と登場する。
 ということはカプコンが作品に協力しているのかな……と思いきやエンディングを見ても「作品協力」とは書かれていない。ということは……無許可だ!!
(『氷菓』の12話以降ではカプコンとSNKが作品協力に載っていた。きちんと許諾を求めた上で登場させている)
 なんて大胆。今時感覚から言って、あり得ないような作り方をしている。
 でも、本来そういうものかな……という気もした。
 『トップをねらえ!』という作品では、アニメ史上初めて「ポテトチップス」や「コーヒー」といった実在するお菓子が作中に登場してきた。こういった作品にありがちなこととして、なんとなくそれっぽい別の名前が出てくるものだ。「ポテトチップス」を「芋チップス」と変えたり、「コーヒー」を「コーシー」と変えたり……。それそのものが出てきたら企業側から怒られるのではないか、許諾を求めなければならないのではないか。制作側はそう考えたのだが、しかし実際に作中に登場させても、別に何の問題は起きなかった。
 『おそ松さん』にも色んな映画のパロディが登場してくるが、一度たりとも権利元に許可を求めたことはない。――それが元でお蔵入りになったエピソードがいくつかあるのだが。
 パロディは大胆に描くべきである。大人しくセオリー通りやったどころで面白くなるわけがない。ギャグはセオリーから逸脱すること、型を破ることにこそ面白さが浮かび上がってくる。大人しくやっていたところで面白くなるか! お蔵入りを恐れて大人しくやったところで面白くなるか。むしろお蔵入り上等でやってこそだ。
 しかし第6話の『悪魔の城ドラキュラ』では「コナミ」の名前に伏せ字が付いた。やはり権利の怪物の“ファック・コナミ”は恐れたようだ。かつての『悪魔城ドラキュラ』は名作だったが、今のコナミにはあれだけの作品を作る人材はいなくなってしまった。作品のほとんどが子会社制作で、権利料の徴収しかやらなくなってしまったからね……。

 それに『ぶらどらぶ』は確かに引用物が多い。寺山修司の詩にブラム・ストーカーの小説、長谷川伸……といった作家たちは没後50年以上確実に過ぎているからもうどこにも権利はないだろう。押井守の感覚では、そういった過去作品と近代作品は並列感覚なのだろう。昔の作品だから、今の作品だから、の区別を持たない作家なのかも知れない。

 大胆にパロディとして引用してくるのが押井守自作品。第2話では『イノセンス』のパロディとして絆播貢が人形になってしまうシーンがいくつか登場する。
 「餃子の将軍」では『パトレイバー』から松井孝弘刑事と片岡。
 凄いのは第4話『サラマンダーの夜』の後半。完全に『パトレイバー2』だ。レイアウトから台詞まで、完全に『パトレイバー2』を完コピしている。絵コンテを見ると……やはり押井守! 完全なるセルフパロディである。
 その司令室の対話。怪物を前にして撃墜許可を勧める部下に対して、上官は「撃墜して怪獣が市街地に落下した場合は民間に甚大な被害が及ぶかもしれん」……と意外と真面目な対話をしている。
 日本は自衛隊に対する世間的評価が異常に厳しい。もしも目の前の怪獣を倒さずスルーして民間への被害が出れば自衛隊は非難される。しかし市街地上空で撃墜して怪物が民家に落下したら自衛隊は非難される。どちらにしても世間から非難される。「仕方ない事態」ということを大多数の人は了解してくれない。日本人は常にリスクがゼロであることのみを望み、公的機関がそれを達成してくれないと怒り狂うという国民性があるのだ(これをワガママと言う)。
 自衛官的には自分の手で下したものが民間に被害が出ることを恐れている。その攻撃がこちら側に向いてくれれば“正当防衛”として反撃が可能になる。自衛隊は明らかな脅威があっても(例えば中国漁船がタックルしてきても)、こちら側から攻撃してはならないルールがあるのだ。しかしそれを待っていると撃墜されてしまう。
 そこで上官が「それしかありますまい」……とちょっとギャグっぽい節回しだけど、重々しく撃墜命令を出す。……という流れを作っている。
 カット割りから台詞まで完全に『パトレイバー2』で笑いを誘う場面である一方、真面目にやるところは案外真面目。そうやって真面目にやっていることが奇妙に写り、笑いになっている。そういう一場面だった。

 それで舞台となっている街はほぼ壊滅するのだけど、次エピソードでは復活する。さらっとなかったことになる。「餃子の将軍」にしても第3話で爆発炎上したのに、第5話では復活している。
 爆発炎上しても次エピソードではデフォルトに戻ってしまう。そういうところで見る側に安心感を与えている。こういったところも、昔からあるギャグ物の有り様を再現している。
(『さよなら絶望先生』という作品では炎上したら、その次では舞台が変わる……となかなか細かいことをやっていたが。それはそれで笑いとして面白かった)

 今さらだが各エピソードについても掘り下げていこう。
 ザックリ言って、第2話から第5話まではマイのお話だ。
 第2話『愛の夜間飛行』では、血液性格分類には科学的根拠はない。と、しつつも飲んだ血によってマイの性格がコロコロ変わる場面が描かれている。A型やB型の血が混じって、その性格どおりのキャラクターに変質する。マイというキャラクターには実は「軸」となるものがない……ということがここで表現されてしまう。
(飲んだ血によって性格が変わる……というのは面白い発想だ。日本人は血液型によって性格が決められると考えているわけだから、飲む血によって性格が変わるというのは、日本人にとってもっとも納得しやすい描き方だ。それにこれまでにない吸血鬼の特性を提唱できている。でもほんの少し……『サンサーラナーガ』を思い出してしまった)
 マイは不可解な存在。内面が存在しない――ある種アニメキャラらしいアニメキャラとして描かれている。それはかつて、『うる星やつら』を描いていた当時、押井守が「ラムが何者なのかわからなくなった」と語っていたことにも引っ掛かってくる。これは40年越しの押井守による回答なのかも知れない。
 マイが一番いい加減な存在で、いかようにも変容しうるキャラクターとして提示されている。

 3話『サバト・ナイト・フィーバー』では吸血鬼の特性について掘り下げられる。“通俗的なヴァンパイア”というのは映画世界の虚構にすぎない。ブラム・ストーカーの生み出したヴァンパイアは性的妄想の産物に過ぎず、それを参照として映画には創造性なるものはない。ブラム・ストーカーが参照にした民間伝承にしても、それは「腐敗した死体やその周辺を徘徊する清掃動物のイメージから連想された死という普遍的現象を合理化するための地域的表現に過ぎん」と語られるとおりである。
 死んだ人が墓場から復活して家に戻ってくる……そんなことあるのか? と思われるのだが、かつては本当にあった。心肺停止して、「死んだ!」と思われて埋葬した後、何かしらで蘇生して墓から出てきてしまう……ということが時々あったようだ(今でも心肺停止後に蘇生するケースは時々ある)。その現象が当時の人にしてみれば何が起きたかわからない、恐い現象だったし、それを説明するために民間伝承なるものを生み出し、共有することで納得していた。
 作中でマイを使った検証が始まる。「鏡に映るか?」「写真に写るか?」「十字架は平気か?」「流水は飛び越えられるか?」「紫外線に弱いか?」……などだが、まあいい加減なもので、検証では写真に写らなかったのに、他の多くのシーンでは映ってる(何度も映画撮影で、映っている場面が描かれている)。紫外線に弱い、としつつも他の多くのシーンでは普通に天日の下を歩いている。自分たちの作り出したルールにそこまで徹するつもりはない……ということの表明だろうか。
 とにかくもここでかつてある映画のイメージや民間伝承として峻別された、独自のヴァンパイアイメージの確立を目指している。

 第5話『父ちゃんが来た』は絆播貢とマイの父親が登場し、それぞれの由来が示される場面。これも掘り下げのエピソードで、これ以上に語ることが特にない。絆播貢の父ちゃん、考古学者だったね、ということくらい。
 とろこで、第5話の最後、ジルド・礼の棺を回収に運送屋がやってくるのだが、『デスストランディング』のポーター。サムは北米大陸を繋げた後、日本にまでやってきたようである。

 そうしたエピソードを経て、第6話でメインキャラだけが集まる夜学部が始まり、いよいよこの作品にとっての「本番」が始まる。第1話から第5話まで描かれてきたマイのエピソードは一旦終了。ギャグ物としての本番が始まる。作品が劇的に面白くなるのはここからだ。
 マイは最終局面で作品を引っかき回す“最終兵器”――Ultima Ratioへとポジションを変えて、それ以外の場面では各キャラクターたちがバランス良く登場し、暴れ回る作品になっている。ここに来て、作品が俄然面白くなる。

 さて、残る7話から12話の感想だが……。「難しい」が率直な感想だった。1度目は台詞を聞いていてだんだん疲れてきた。2回目の視聴で、やっとこさ面白さが掴めてくる……そんな感じだった。
 1度目の視聴の時、やたらと疲れてくるのは、台詞の背景にあるものがあまりにも複雑だから。それに難解。「字幕」がないのは致命的で、一度目の視聴の時は何を言っているのか聞き取れず、いまいちおかしみが捉えづらい、声優の喋りのリズムを楽しみきれない。台詞を聞こう聞こうということに必死になってしまう。
 普通、ギャグ物は1回目の勢いと鮮度が重要で、1回見て笑えなかったら、その後何回見ても笑えない……というものだけど『ぶらどらぶ』はその逆を行っている。台詞がわかってくるとじわじわと面白さがわかってくるのだが……。しかし普通の人は1度の視聴で断念、回れ右をしてしまうので、この段階で面白さを捉えきれず去って行った人も多いのではないだろうか。
 とにかくも、あれだけ台詞が難解なのに、字幕がないのはキツい。

 『ぶらどらぶ』は第5話までが「設定説明」で、第6話から本領を発揮する。押井守監督が好き放題始めるフェーズに入っていく。第6話で「演劇」を、第7話で「映画」を撮る話になる。それ以外のほとんどのエピソードが元ネタとなっている映画があり、その映画のパロディという構成になっている(第6話のみがゲームからのパロディだ)。
 ただ、その引用物が異様なほど多岐にわたる。映画の名作から、古典映画まで。最近のヒット映画の話がほとんど出てこない。『イノセンス』の登場キャラクターのように、次から次へと引用とオマージュが飛び出してくる(一介の女子校生がなぜそんなに映画知識持っているんだよ……と突っ込むどころでもあるが)。それが話の腰をことごとく折っており、初見だとその語りの面白さがいまいち伝わってこない。
 映画の引用が多くなってくると、必然として渡部マキの存在感が大きくなってくる。雲天那美や紺野カオルは次第に背景に引っ込んでいく。映画を語る役として重要ということもあるが、映画好きの押井守にとって自分の言葉を託せるのは渡部マキ……ということになってくるのだろう。次第に血祭血比呂と渡部マキが語りの中心となっていく。絆播貢やマイすらも次第に出番が少なくなっていく。

 押井守監督は、創作にとって大事なのは「創造」よりも「選択」することのほうだと語る。1本の創作物の中で実際に「創造」されたものはごく一部でしかない。それ以外のほとんどの要素は同ジャンルの過去作品からの引用と合成物である。漫画や映画は過去に表現されたものから引用してほとんどのシーンを構成しているわけだし、なんだったら積極的に「創造」することもなく、過去に作られた引用物をうまく編集するだけでそこそこの作品を1本仕上げることもできる(むしろ「創造」している創作なんてものには滅多にお目にかかれない)。
 例えば『ドラゴンクエスト』はそれまでにあった様々なRPGを遊びやすい形に編集しただけに過ぎない。その編集があまりにも見事だったから、以降、RPGのスタンダードになったのだ(『ドラクエ』以前のRPGはどれもシステムがバラバラで、「RPG」というジャンル自体が混沌としていた)。
 私もいろんな創作に触れてきたが、1本まるごと全てゼロから創造してみせた……なんて作品はお目にかかったことがない。それができるのは神様だけの仕事である。

 押井守監督は「編集」することに自覚的な作家で、だから意図的に自身の引用物を明示し明確にしながらお話を進めていく。寺山修司の詩を引用する時でも、わざわざ引用元を示すのも、そういう試み。『ぶらどらぶ』が大量の引用物で示して見せたのはなんだったのか……というと吸血鬼映画と怪物映画への愛。

 どのエピソードも意味なく出したアイデアではなく、背景となる吸血鬼映画あるいは怪物映画が存在している(もちろん古典名作映画も含まれる)。第9話のつげ義春『ネジ式』のパロディは例外として、ヴァンパイア、フランケン、半魚人と、並べてみるとモンスター映画の定番が勢揃いし、それぞれに独自の飛躍が込められていることに気付く。そこにこそ『ぶらどらぶ』のおかしみがあるのだが……。

 ただやっていることがあまりにも高尚。ギャグなのに。構成に込められた意図や、そのおかしみを一度でうまく味わえないような作品になっている。私も最初の視聴は「いまいちだな……」と感じたのだが、その後じわじわとわかってきて、2度目の視聴でやっと面白さが見えてきた。『おそ松さん』とははっきりとアプローチ法が違う作品だ。
 それがわかってきて、次第にキャラクターの良さや、あの世界観への愛着が生まれてくるのを感じた。かつて『うる星やつら』を見ていた時のような愛着だ。
 でもそこに至るまでが難しい。シンプルな直感だけで「面白い!」とは言い切れない造りになっている。それが難点でもあるのだが、でもその先にこそ『ぶらどらぶ』の作品としての魅力がわかってくるのも確か。だからちょっと「難しい作品」というのが感じたところだった。

 ところで、最終話の話。
 最終話12話は『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』が引用された。この作品が引用されたということは、この後、絆播貢たちのコミュニティがカタストロフを迎えることを示唆している。現状は学校という場所にいて、無限にマイに血を供給できるが、それが可能なのは今だけ。
 それにおそらく、マイは『御先祖様万々歳!』のような詐欺師である可能性がある。これまでのエピソードで語られたマイのイメージは全て嘘。血を得るための一芝居。12話で語られたことも、本当はあるが、嘘もある。催眠にかかったフリをして周りの同情を買うための一芝居を演じ、実は……。
 でも『ぶらどらぶ』はコメディ作品なので、そこまでは描かない。
 結局の所、押井監督による『うる星やつら』のラムのイメージは、『御先祖様万々歳!』のような麿子のイメージに帰結してしまうのだ。

 ところで、『ぶらどらぶ』に対して一つ苦言。
 プロモーションに力を入れなさすぎ。押井守監督の最新作の発表はそれなりに大々的に発表されたが、その後、ずーっと何も告知なし。私が普段見ているサイトにも、続報がずーっと何もなかった。
 ある時、ふと「そういえば『ぶらどらぶ』っていつどこで配信なんだろう?」と検索してみると、なんとYouTubeですでに第1話が公開されていた! しかもスタッフインタビュー、声優インタビューもほとんど公開済みになっていた! いったいいつの間に!!
 どこのメディアでも取り上げられず、どこのコミュニティでも話題になっていない。公開されていることにまったく気がつかなかった。インタビューなども全部観たのだけど、まだ放送・配信されていない話数の話をしていて、何の話をしているかまったくわからず……。ああいうのは、配信していく過程で1本1本公開して、その話数と紐付けるものなのだけど、そのように公開されていない。作品本編がないのに、その作品について語ったものだけがある……という奇妙な状態になっていた(しかもインタビュー映像がネタバレになっていた)。
 あれだと、本編とおまけ映像との相乗効果が全く見込めないんだ。プロモーションの足並みが揃わなすぎ。計画性が全くない。おまけにおそらく各メディアに向けて情報を送っていないから、誰も告知に気付かない(初期の頃は各メディアに告知情報を送っていたが、後半は明らかに送っていない)。
 作品本編の公開日についても、積極的に情報を探しておかないといつ公開だったのかわからないくらい。あれはもはや「見てもらおう」という意思があるのかどうかすらも怪しい。もしかしたら、今もって「『ぶらどらぶ』っていつ公開?」みたいに思っている人もいるんじゃないだろうか。
 どうも『ぶらどらぶ』は作品の発表に至る前に、プロモーションに費やす予算が尽きたか、やる気をなくしたか。作品を売る手法として、これはちょっとどうかな……と感じた部分だった。


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