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映画感想 ファインディング・ドリー

この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

 『ドリーの神隠し』……ではなく『ファインディング・ドリー』。“魚を主人公にする”という、誰も見たことも聞いたことのない個性的なアイデアを描いて世界的大ヒットとなった『ファインディング・ニモ』の続編だ。
 『ファインディング・ドリー』では前作においては「相棒」役であったドリーを主人公に、その家族と再会を描く。テーマにブレがなくて良い。

 しかし今作の課題は「海の世界」と向き合うのではなく、「人間社会」に入っていくこと。とある海洋研究所の中にいるはずだという、ドリーの家族を探しに行く物語となっている。

 ドリーについてだが、健忘症を通り越して、もはや記憶障害というべき記憶力のなさ。最初は、あまりにも物語の重要事すら記憶しないから、物語として成立しないのでは、物語がうまく進みすぎるとご都合主義になるのではないか……と懸念したけれども、そうはならず。むしろ自分の記憶力と戦おうとする姿が、次第に感動的にすら見えてくる。このあたり、ピクサーの語り手としての強さが活きてくる。

 人間の施設に入り込んでいき、まず起きる問題は、魚を水槽から水槽へ、いかにして移動するか。そこでお助けキャラとして現れるのが、擬態できるタコ。このタコの助けを借りて、少しずつ水槽間移動をする。
 ……と、ここまでは良いアイデアだと思うが、引っ掛かるのはその描写。ひとりでに乳母車が動き始めるなど、どう見ても奇妙な現象が起きているのに、周りにいる人間たちがまったく気にしない。出来の悪いステルスゲームのような状況が延々続いてしまっている。
 ニモたちが噴水を利用して水槽から池に移るシーンも同じく。誰からも目撃されない。いくら何でもそれは……。

 最終的にドリーは両親と再会できるが……場所的にはふりだしに戻っている。
 でもこれは昔からよくあるストーリー。『青い鳥』のテンプレートだ。ここの再会シーンは意外にも感動的に作られて素晴らしい。

 この感動を台無しにするのが、その次のシーン。タコがトラックを運転してしまう、というトンデモシーンが展開する。
 あれはただただあり得ない。これまで奇想天外なシーンがいくつもあったが、まだ許せた。まだ「偶然たまたま目撃されなかったのかな」で済まされた。でもあの最後のシーンは越えてはいけない、作品が持っているリアリティラインの向こう側へ飛んでしまった。
 おそらくは映画の最後の最後、もう一押し盛り上げようと頑張ったのだろう。でも頑張る方向性を明らかに間違えている。結果的に、人間側は結構な損害を出したはずなのだが、そのフォローもなし。あのトラック運転手、クビになっていなければいいが……。
 その直前まではなかなか良かったのだが……。トラックの天井から脱出。人間たちがトラックを開けると中身はからっぽ! ……くらいのラストでもよかったのに。どちらにせよ、トラック運転手はクビになるが。

 見終えた後、ふと気づくが、両親の目線からしてみれば、いなくなったと思った子供が数十年後、成長して戻ってくる。両親の目線からすれば「神隠し」話。両親目線ではどんな物語が展開していたのか、そっちのほうも見てみたかったかもしれない。


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