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2022年夏アニメ感想 リコリス・リコイル

 リコリス・リコイル――それは人知れず犯罪を未然に防ぎ、東京の治安を守る秘密組織である。

 おそらく今季もっとも話題にされたオリジナルアニメーション『リコリス・リコイル』。監督はアニメーターとしてすでに一定地位を築いていた足立慎吾。『WORKING』や『ソードアート・オンライン』などのキャラクターデザイン、作画監督で知られているアニメーターだ。しかし本作においてはアニメーターとしては関わらず、絵コンテと演出に徹底した。
 足立慎吾監督をアシストしたアニメーターたちは山本由美子、鈴木豪、竹内由香里、晶貴孝二の4人である。彼らのフィルモグラフィーを掘り下げると、A-1pictures作品の『ソードアート・オンライン』や『ヒプノシスマイク』といった作品が出てくる。すでに足立慎吾とは長いキャリアを築いてきたメンバーである。
 ストーリー原案にはアサウラ。2011年に夜間の割引弁当を奪い合って不毛な闘争を繰り広げるアニメ『ベン・トー』の原作者として知られている。実はガンマニアという側面もあり、プロデューサーから今回の作品に抜擢された。
 キャラクターデザインには漫画家のいみぎむる。『この美術部には問題がある』で知られる作家である。本業漫画家でアニメーションのキャラクターデザインは初参加。アニメーションのキャラクターデザインは、すべてのアニメーターの共有認識となる絵を描き起こさねばならないし、映像に起こした際の仕上げまで想定したデザインにもしなければならない。本業でないとなかなか参加の難しいパートで、通常、漫画家が参加する場合は「キャラクター原案」であって、キャラクターデザインはアニメに精通するスタッフが行うものだが、いみぎむるがアニメのキャラクターデザインまでを引き受けた。

 アニメーター・足立慎吾の初監督を飾る作品に、異色ともいえるメンバーが集まった作品。そこから生まれた物語はなんともいえないお馴染み感と、独創が同居する不思議な作品だった。

 まず物語を見ていこう。


 世界でもっとも治安の高さを誇る日本、その主要都市である東京。その裏側には犯罪を未然に防ぎ、世間の目に触れさせないようにする秘密組織があった。その名をリコリス・リコイル。通称「リコリス」。
 それを運営する組織がDA――Direct Attackである。DAは孤児を引き取り、特別な教育を受けさせ、特殊武装集団として育て上げた。その構成員のほとんどは女性、それも10代の少女で、女子校生に扮装し、市中に潜伏し、誰からも悟られることなく任務を完遂しているのだった。
 ところがある春――。
 リコリスのメンバーは銃取引の現場に突入していた。しかしメンバーの1人が人質に取られて、膠着状態に陥る。そのうえ、本部との無線が繋がらなくなり、指示を受けることもできなくなる。
 現場に取り残されてしまった。今すぐ行動しないと、人質に取られたメンバーが危ない……。
 そんな最中、井ノ上たきなが1人現場に突撃し、銃を乱射。取引現場の犯人全員殺害するが、人質を救い出す。
 しかしこの井ノ上たきなの行動が重大な命令違反とされて、左遷されてしまうことになる。その左遷先が「喫茶リコリコ」。表向きには和風カフェだが、実はそれを隠れ蓑としたDAの支部である。そこに、リコリスきっての凄腕・錦木千束が勤めていた。井ノ上たきなはしばらく錦木千束とコンビを組み、指導を受けるように指示を受ける。
 しかしその錦木千束はリコリスとは思えないくらい明るくおおらかな性格で……。本当にこの人が凄腕のリコリス? 疑いを持ちながら、井ノ上たきなは鏑木千束との生活を始めるのだった。


 という導入部から『リコリス・リコイル』の物語は始まる。

 映像面から作品を見ていこう。

 カット割りの多くはキャラクターのバストショットからクローズアップだ。ざーっと映像をキャプションしていくと、似たようなカット割りの画面が多くなる。カメラを引いて空間を見せるようなカットは少なく、あったとしてもあまり正確にパースが作られていない。
 街を歩く場面でも大通りは避けられ、主人公2人とすれ違うモブキャラはほとんどいない。引きで風景を見せる場面はいくつかあるが、たいていは繰り返し使用されるBANKカットである。東京とは思えないくらい、人とすれ違うことのない風景ばかりだ。

 こういう画面構成から推測できるのは、さほど予算は出ていない……ということだ。画角を広く取ったところで、そこまでゴージャスな画面構成を作れるわけではない。アニメの場合、街のシーンを描いたところでその街のディテール、歩いている人はすべて手書きとなる。画角を広く取れば取るほどに作業が大変になっていく。そこまでの時間とお金をかける余裕がない。
 すると「選択と集中」が大事になってくる。予算が出ていないところで無理をして映像を作るわけには行かない。予算に見合った映像を作る……ということが監督に課せられた第一の使命である。
 『リコリス・リコイル』の場合だと、物語の中心は錦木千束と井ノ上たきなを中心とする数人であるから、このキャラクター達に視線が集中するように画面を作っていったほうがいい。
 この選択は堅実といえて、キャラクターの作画は非常に高品質。全体を通して見ても、絵が崩れているカットはほとんどない。絵の上手い人が描いていることがすぐにわかる。
 ほとんどのカットは上半身しか描かれていないわけだが、それでも「止め絵に口パク」に陥ることはなく、上半身だけでもしっかり演技して、キャラクターが表現されている。

 アニメを見ていても多いのは、こんな感じの顔だけを切り取った構図。サムネイルを並べていると、いったいどの話数のどのカットのクローズアップなのかわかりづらい。キャラクターの全身が見えるような構図は、アニメを通して見ていてもほとんどない。
 ここから、「あ、さては足立慎吾監督、キャラクターから構図を考えて、キャラクターの次に背景を作っているな」……と私は推測する。ただその代わりに、キャラクターのカットは非常に高品質。丁寧に描かれている。
 ちなみに上の画像は第1話の井ノ上たきな。初期の頃の井ノ上たきなは、表情が固かった。このキャラクターらしい表情が描けている。

 錦木千束が少し身をかがめて井ノ上たきなの手を握っている場面。同カット内で、錦木千束が体を起こし、井ノ上たきなが少しのけぞっている。これは要するに2人のキャラクターの顔を同一カット内に入れて見せることを目的としているが、カットの外になっている2人の立ち位置、姿勢の変化がきちんと意識されているので、自然に感じられる。

 もう一つ、明らかにこだわって作られているのが「喫茶リコリコ」の風景。色ガラスが幾何学的にはめ込まれて鮮やかさが表現されていると同時に、白とブラウンにまとめられた内装に落ち着いた雰囲気が出ている。しかも奥に向かって中二階、二階と多層的に作られている。どこを切り取っても画になるように作られている。全体が和モダンのイメージにまとめられていて、可愛い女の子がおだやかに過ごす場所として相応しい空間になっている

 喫茶リコリコの立地は少し奥詰まった場所……と設定されている。この設定であれば空間の広さも意識しなくてもいいし、人をたくさん描く必要がない。もしも大通りに設定してしまうと、「なんで人が通らないの?」という疑問になってしまう。後で発生してしまう手間も意識されて設定されている。
 喫茶リコリコを構図の中心において、奥に崩壊した電波塔が見えている……という構図が象徴的だ。この構図がすでに後半戦に向けた伏線にもなっている。

 画面が狭く、周囲の環境がほとんど描かれることはない……。
 この画面構成が効果を発揮しているもう一つの点が、「余計なモノが目に入りづらくなっている」ということだ。
 というのもこの作品、設定的にかなり無理をしている。まずこんな10代の女の子が首都圏の治安を守っている……という設定からして「そんなわけあるか」だ。そんな設定を、あくまでも虚構のものとして成立させる必要がある。
 その一つの手法が、いっそ周りの風景を見せない。錦木千束と井ノ上たきなの2人にクローズアップさせ続ける。そしてこの2人を通した風景のみを見せる。本来あるべきノイズを排除して、「そういう世界観」というところのみを見せる。
 この作品を見ていて疑問に感じるのは、錦木千束と井ノ上たきなはあまり場所を選ばず、かなり物騒な対話を、声も抑えずにしていることが多い。銃や犯罪に関する話を平然としている。あんな声量で対話していたら、すれ違う誰かに話を聞かれるはずだ。リコリスの存在は一般人からは秘密であるはずなのに、いいのか?
 しかしどの空間も狭く、周りの人がほとんど描かれることがない……。あえて空間を“閉鎖的”に感じるように描かれている。あたかも、周囲の社会が存在していないかのような描かれ方だ。そういう描き方を取ることで、リコリスという無理設定を強引に押し通している。
 もしも画角を広く、すれ違う人も一杯……という環境を作ってしまうと、むしろ世界観の広がりがノイズとなって「おいおい」という感じになってしまう。この嘘設定を信じられなくなる。
 というこれは、おそらくは「予算がなくて……」という内的事情によるものだろう。だがそういう事情すらも味方に付けて映像を作っている。

 第3話、クルミちゃんが押し入れから飛び出す場面。画像の1枚目は部屋の光が体の正面に当たっている。
 画像2枚目は飛び出す瞬間。両脚を前に突きだし、体は押し入れの中に戻ってしまっているので、上半身に影が落ちている。こういうところで動きの1枚1枚をきちんと絵として作り込んでいることがわかる。ただ、手前に突き出した脚の立体感はもっと表現して欲しかったところ。

 余談。普段のクルミちゃんは少し目蓋が落ちかけ。しかしみんなと集まってボードゲーム大会……というときは目が大きく開いている。クルミちゃんが楽しんでボードゲーム大会に参加していることがわかる表情だ。
 あとクルミちゃん可愛いよね、という話をしたかった。私のお気に入りキャラなんだ。

 クルミちゃんの設定で不思議なのは、押し入れの中を拠点にしているのだが、この押し入れ、右も左も開くようになっている。いったいどういう場所にこの押し入れはあるのだろうか? この押し入れの位置が、見ていてよくわからなかった。

 走っている2人の背中。真後ろからの走りは脚の動き、手の動きを描くのが難しい。後ろに突きだしたときの、腕の付け根から肘までの立体感、手首の付き方など、難しいポイントは多いがかなり正確に作画されている。肩甲骨・背中の筋肉の動きが色トレス線で表現されていて、こちらもしっかり描写されている。妥協のない画作りということがわかる。

 反射速度を測定するテスト。恐ろしいまでの速度を発揮する錦木千束。スローにするとわかるが、中コマが描かれていない。この速度感はアニメでしか表現できない(もしも実写で表現したら、その時点でギャグになってしまう)。ほとんど目で追えないくらいの速度だが、止めて見ると1枚1枚しっかり描かれている。ほとんど見えない絵でも妥協していない。

 錦木千束が井ノ上たきなを持ち上げて……。

 グルグル回る様子を、お互いの主観で描写している。錦木千束には強い光が当たっているが、井ノ上たきなには影が落ちている。これだけでも心情描写になっている。
 もしも実写でこんなシーンをやったら、過剰演技か過剰演出になってしまう。しかしこういうカットでもポンと成立してしまうのがアニメの強味。それに、アニメの不思議なところで、こんなふうに画面全体で動きを表現すると、不思議と見ている側の気持ちも動く。これが実写とアニメの違いで、実写での動きの表現は人はあまり意識して見ないが、アニメにすると意識して見るようになる。しかもそこから一歩進んで、何気ない所作でも人の心を動かす――これがアニメの強味だ。
 そして良いアニメ演出とは見ている人の気持ちも動くようなもののことだ。今まさに井ノ上たきなの気持ちが動こうとしているその直前の心情を、動きで表現した見事なカットだ。

 惜しいのが錦木千束の特殊能力である「弾丸避け」。この動き方だと錦木千束が弾丸避けをしているのではなく、相手が勝手に外しているように見えてしまう。
 錦木千束は相手の動きから斜線を予測して弾丸を避けることができる……という話だが、それが映像で表現できているか……というと疑問。ここはもう一歩、飛躍した表現での弾丸避けを表現して欲しかった。それこそ、アニメでしか表現できない動きの見せ方……というものがあったのではないか、という気がする。

 『リコリス・リコイル』の秀逸なところ……といえばやはりシナリオ。
 まず大前提として設定に無理がある……という話は後回しにして。
 第1話冒頭、井ノ上たきなが左遷されることとなる事件から物語は始まる。映画でよくありがちなプロローグを派手に飾るだけのアクションシーン……かと思いきや、このエピソードがシリーズ全体を貫く縦軸のストーリーとなっていく。一つの大きな事件があり、その事件の狭間で錦木千束と井ノ上たきなの物語がある……。一つの事件の中にこれだけの心情の変化があった……という表現の物語となっている。
 第1話が始まった最初は、井ノ上たきなは冷静沈着、理性的論理的合理的な人間として描かれる。表情に乏しく、情緒に欠ける。第4話で明らかになるが、「私服」というものもない。プライベートとしての「私」がない。「リコリスとしての私」がアイデンティティの源泉であって、それ以外のところで自分というものがない。井ノ上たきなはそんな人間として描かれていた。

 しかし「現場判断」と考えて行動したことが責任問題となり、左遷されてしまう。ここで井ノ上たきなとしてのアイデンティティに揺らぎが生じる。もとより「リコリスとしての私」以外にアイデンティティの根拠を持ち得ない女の子であったから、そのアイデンティティを喪ったために不安定な状態になってしまう。1話~3話までの井ノ上たきなの行動原理はずっと「リコリスに戻ること」であった。喫茶リコリコで成果を上げればリコリスに戻れるかも知れない……その想いだけで活動に専念していた。

井ノ上「私は……あの人不安ですよ」

 リコリスきっての凄腕……と聞いて会うことになった錦木千束はリコリスとは思えないおおらかな人格。その活動内容も、幼稚園、日本語学校、ヤクザ事務所を巡り歩くだけで、リコリスとしての活動をしているようにすら見えない。井ノ上たきなは次第に錦木千束への不信感を募らせていく。
 それも、間もなく錦木千束の戦いぶり……間近で撃たれてもすべて避けてしまう脅威の「弾丸避け」を目撃して、意識を変えるわけだが……。
 が、井ノ上たきなが錦木千束に信頼を置くようになったのは、この事件が切っ掛けではなかった。

 第3話、井ノ上たきなは錦木千束のライセンス更新試験について行くことになる。DAの楠木と会って直接対話できれば、左遷を取り消してもらえるかも知れない。その望みを託して久しぶりのDAを尋ねる。
 しかしすでに井ノ上たきなの後任はいて、本部は歓迎ムードではない。それどころか、元・僚友たちの冷たい視線に晒されるだけだった。
(リコリスたちの冷徹な様子から、どうやらリコリスたちも情緒に問題があるらしく、しかもみんな同じように「リコリスであること」をアイデンティティの源泉にしているらしい……という状況が見えてくる)
 DA指揮官・楠木は相手にしてくれないし、僚友達の信頼は完全に喪っている。本部復帰は絶望的かも知れない。そんな井ノ上たきなに錦木千束は言う。

錦木「私は君と会えて嬉しい! 嬉しい、嬉しい! 誰かの期待に応えるために悲しくなるなんてつまんないって。居場所はある。お店のみんなとの時間を試してみない? それでもここがよければ戻ってきたらいい。遅くない。まだ途中だよ。チャンスは必ずある。その時、したいことを選べばいい」
井ノ上「したいこと?」
錦木「そう。私はいつでもやりたいこと最優先。まあ、それで失敗も多いけれど」

 井ノ上たきなの精神的覚醒が起きたのは、この後。錦木千束の情緒を表現する場面では画面全体が動いたが、井ノ上たきなの情緒を表現する場面ではむしろ画面は止まっている。背景の動きだけで感情を表現された。

 その後、DA内での模擬戦を通して、井ノ上たきなは本部復帰を諦めて、錦木千束を相棒として認め、ともに過ごすことを望むようになっていく。

 井ノ上たきなの物語はここで一旦一区切り付いているのだが、まだ井ノ上たきなの物語は続く。
 第4話「パンツ事変」……じゃなかった。井ノ上たきなが男物のパンツを履いていることに気付いた錦木千束は、井ノ上たきなの下着を買うために街へ。するとどうやら私服すら持っていないことに気付いて、井ノ上たきなのための服を選んであげることになる。
 井ノ上たきなは「リコリスであること」以外の自意識を持たなかった少女だった。「私」というものがない。そこで「自分らしい服」を身にまとうことで、ようやく「私」としての「色」があることに気付き始める。ここでようやく井ノ上たきなは井ノ上たきなとしての人格を見出すのだった。
 そんな時に傍らにいたのが錦木千束……。井ノ上たきなにとって、錦木千束が次第に特別な存在へと格上げしていく。

 第5話から話の色彩は変わっていく。
 第5話、錦木千束と井ノ上たきなはとある人物を護衛するように命令を受ける。その任務中、錦木千束が実は人工心臓でどうにか生きていた……ということが明らかにされる。井ノ上たきなの物語から錦木千束の物語へ――この流れ方が自然だし、ドラマチックに作られている。ここまでに「井ノ上たきなへの錦木千束の想い」が経験値的に蓄積されてきたところで、「錦木千束の喪失」を予感させる。物語の心情は井ノ上たきなに同情的になるように作られている。それにポップな風合いの物語が次第にダークな側面を見せていく、そのグラデーションの掛け方も巧みだ。

 この先の展開だが、これを書いている時点でまだ9話までしか公開されていないので、私は結末を知らない。だがここまでの物語作りは非常に良い。楽しい雰囲気を装いながら、その背景にあるものを少しずつ明らかにするように描かれている。このバランス感覚が非常に巧みなので、見ていて飽きることなく、ずっと楽しい。単調に思える瞬間がまったくない。第9話まで見終えて、もう一週したいと思わせるくらいの作品になっている。
(私のお気に入りエピソードは第8話前半。喫茶リコリコの経営不振を回復するために、井ノ上たきなはウンチ💩型ケーキを考案する。毎回、こういうポップなお話を挟み込んでくるところが楽しい)
 それにキャラクターの心情への寄り添い方。キャラクターの心情を丁寧に丁寧に掘り下げて、見る側の共感を誘うように作られている。ここが非常に良い。
 最初はまともな情緒すらなかったはずの井ノ上たきなに、様々な表情が生まれていく。やはり象徴的だったのは第6話の最後、錦木千束にじゃんけんで勝った瞬間の、嬉しそうなはしゃぎっぷり。あの瞬間の絵も良かったし、芝居も良かった。最初の頃は井ノ上たきながあんな表情をするなんて想像もしていなかった。井ノ上たきなの心の解放を絵として表現された、クリティカルな瞬間だった。

 井ノ上たきなと錦木千束は次第に強い関係性で結ばれていくようになる。友情とも違うし、恋人という関係性でもない。性的ではなく心情としての結びつき。「相棒」として結びついていく。
(不思議なところだが、どうやらミカと吉松シンジとの間には同性愛関係があったようだ。ミカと吉松シンジの2人が、錦木千束について「娘」と表現するのは興味深い。その娘である錦木千束は井ノ上たきなとの結束を深めていく……というところで対象的な描写になっている)
 しかし第5話で錦木千束は人工心臓で短い命を刹那的に生きているだけ……という事実を知り、井ノ上たきなの心情が変化していく。別離が意識され、想いが強くなっていく。それが第9話のデートシーンで表現されている。錦木千束と井ノ上たきなとの関係性があそこで集約されていくように描かれている。
 第9話の時点ですでにドラマとしてのある地点に到達している。この先の物語がどうなるか私はまだ知らないが、すでに私にとっての「特別な1本」だ。充分に見応えある人間ドラマが表現されているといえる。

 ただし、だ。『リコリス・リコイル』の設定には無理がある。
 10代の少女達が東京の治安を密かに守っているという。しかもそれはみんな孤児であるというが……いやいや孤児ってどんだけいるんだ。そんな孤児を引き取って、訓練を施しているというが、それが社会問題化しないはずがない。それに10代少女の身体能力、判断能力では作中で描かれているような危機に対処するなんて不可能だ。ひょっとしてあの女の子達はみんななにかしらの「改造手術」でも受けているんじゃないか、いやいっそ、そういう設定だった方がしっくりくる。それくらいに無理がある。

 アニメの世界なんて所詮虚構。アニメのヒット作の中には、戦車に乗ることがスポーツになっていて、そのスポーツになぜか女の子達が夢中になっている……みたいな無茶な作品も存在している。凶悪な鉛玉をバンバンぶつけ合っているのに、死人どころか怪我人すら出ない……(いったいどのガルパンの話をしているのだろうか)。実写だったらリアルな質感それ自体がノイズになって受け入れがたいお話になるところだったが、アニメという虚構という前提があるから受け入れることができる。
 アニメは現実世界とは違う。アニメの世界は絵に描いたものに過ぎないし、アニメキャラクターは現実に存在する人間ではなく、「アニメキャラクター」という存在である。超人的な存在として描かれる錦木千束も、あれはアニメキャラクターだ。リコリスもアニメキャラクターだから、設定的に無理があるものも成立しうるものになっている。
 しかしアニメという世界観にしてもアニメキャラクターにしても、それを物語として語る限り、「実在する」という感覚は絶対必要となる。これがなければ、「説得力」として通らなくなる。「虚構」を語るためには本当らしく見せるためのディテールが必要なのじゃ。
 この説得力の作り方に成功しているか――というとやや難しい。『リコリス・リコイル』には無茶な描写が多い。
 すでに書いたように、錦木千束と井ノ上たきなは公衆の面前で平然と物騒な話をしているが、なぜか誰にも聞かれることはない。あんな目立つ制服を着ているのに、「あの子達はどこの学校の子だろうか」……と誰からも疑問をもたれない、なんておかしい。制服マニアならば絶対にそこから何か気付くはずだ。少女達は常に危険な任務に当たっているが、そこでなんの精神障害を負わないのはおかしい。戦闘シーンにしても、錦木千束の超人的弾避けの描写はうまいとは思えない。ああいったシーンは描写それ自体に説得力を持たせなければならないが、そのようには見えない。敵が勝手に外しているように見えてしまう。
(第5話では護衛任務中に護衛対象を1人にしてしまう……というとんでもない行動をやらかしている。案の定、その隙に攻撃されてしまう。あれではキャラクター達が間抜けに見えてしまう)
 『リコリス・リコイル』を見ているとどのシーンも画角が狭く、周囲に人が横切らないように作られている。これは予算節約にちょうどいい見せ方だし、画角が狭くなっているぶん、自然と錦木千束と井ノ上たきなの2人の心情に意識が集中するようになっていく。錦木千束と井ノ上たきなの心情を描くこと自体は非常にうまくいっている。しかしその周囲は……というとなんとも言いがたい。
 やはり10代の細い腕で凶悪犯を一方的に圧倒していく……という描写には無理がある。いや、あれでは逆襲されちゃうだろう。日本にあんな凶悪犯罪が頻発しているとは思えないし、それを制服を着た女の子達が戦って倒す……という設定にも無理がある。
 某『ガルパン』では思い切って、1つの設定に合わせて社会全体を虚構として作り上げてしまった。もう無理矢理も無理矢理だ。全力で振り切っている。一方の『リコリス・リコイル』は所詮虚構とはいえ、女の子達がリアルな社会と少しずつコミットする、という設定である。そこで、「いや、そうはならんやろ」という突っ込みになってしまう。

 『リコリス・リコイル』はこの問題をすべて片付けている……とは言えない。最初から最後まで、「いや、それは無理じゃないか」……という印象がつきまとってしまっている。そこが最後まで惜しいところだった。

 とはいえ――。主人公の2人である錦木千束と井ノ上たきなの心情に迫っていく……というコンセプトはしっかり貫き通している。ここは100点満点の出来。ただ虚構とリアルのバランスだけは最後まで引っ掛かりとして残ってしまっている。虚構の作りとしては非常に惜しい。最初の監督作としては反省点を一つ残して……という感じになってしまった。だがそれは成長の余地でもあるので、1作目をここまで優秀な話題作に育て上げた足立慎吾監督の次回作に期待である。


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