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2022年秋アニメ感想 うる星やつら

 アニメ『うる星やつら』は私のようなおじさん世代になると「懐かしい作品」だ。
 うる星やつらが少年サンデーに連載していたのは1978年から1987年。当時絶大な人気を誇り、高橋留美子初期の代表作となった。高橋留美子は『うる星やつら』のあとも『らんま2/1』や『犬夜叉』といった作品で代表作を刷新し続け、その傍ら短編集などを発表して独自の世界観を深掘りしていった凄い作家だ。メジャーな舞台で、ここまでたくさんの作品をヒットさせまくった作家はそうそういない。
 「昔の漫画に興味はない」と考えている若者も、『うる星やつら』は無視できない作品のはずだ。というのも、いま漫画・アニメ界隈に氾濫している、1人の男の子の周りにたくさんの女の子があらゆる世界から集まってきて……というハーレム作品の形式は『うる星やつら』から作られた。もしも高橋留美子がこの物語形式に「使用料」を徴収したら、一晩で大富豪になれるだろう。『うる星やつら』は40年前の漫画だが、「大昔の忘れられた作品」ではなく、多くの漫画が今もってこの作品の影響下にある。

 その『うる星やつら』がアニメ化したのは1981年のこと。当時スタジオぴえろ所属のチーフディレクターだった押井守が初期シリーズの構築を支えた。
 『うる星やつら』はアニメ化が決まる以前から原作人気が高く、ファンから注目される1作だったが、初期の頃はその期待に応えることはできなかった。というのもアニメスタッフは同スタジオの別作品『ニルスのふしぎな旅』に多く割かれていて、『うる星やつら』が立ち上がった時は少数のメンバーのみで作らねばならなかった。そうしたことから初期アニメ『うる星やつら』は非難囂々。スタジオぴえろにはカミソリ入りの手紙も送られてきたという。
 劇場版『ニルスのふしぎな旅』が1982年に制作完了し、それに伴いアニメーターが『うる星やつら』に回されるようになり、ようやくクオリティも安定し評価も上向きになっていく。

 するとアニメ版『うる星やつら』は独自の展開を模索し始める。当時はそこまで「原作忠実」という意識は作り手の間にはなく、脚本家、演出家、アニメーターがそれぞれで暴走を始める。その最たるものはアニメオリジナルキャラクター「メガネ」。千葉繁が演じる人気キャラクター・メガネの存在は、当時のアニメを知らない人でも断片的に知られているキャラクターだが、実際には原作に登場しない(厳密に言うと、原型的なキャラクターは存在している)。原作には登場しないものの、あまりにも魅力的なキャラクターだったのであっという間に人気になり、様々なエピソードで牽引役となり、劇場版でも物語の中心的な語り手として目立った活躍をするようになった。
 原作にないオリジナルキャラクター、オリジナルストーリー……アニメ版『うる星やつら』は当時の若い脚本家や演出家の修業の場であり実験場にもなって、ありとあらゆるスタイルがその中から生まれていった。特にチーフディレクターの押井守は『うる星やつら』の制作を通じて自身の作家性に気付き、傑作『ビューティフルドリーマー』を制作する。その後の押井守はご存じの通り『天使のたまご』や『迷宮物件』『パトレイバー』シリーズを制作し、世界的に知られるアニメ監督になっていく。
(アニメーターも暴走気味で、背景モブに『うる星やつら』とは関係ないキャラクターが勝手に書き込まれたりしていた)
 今では「原作無視」と怒られそうな話だが、『うる星やつら』という原作をあくまでも「素材」とみなして好き放題できる土壌があったからこそ、そこから色んな作家達が育っていった……ともいえる。この時代だからこそできた自由さというやつだ。

 1980年代『うる星やつら』の評価は、こういった当時の脚本家・演出家が好き放題・勝手放題にやっていたことによって生まれたものだった。当時のマンガ・アニメユーザーもアニメ版制作者が好き勝手やっていたことを理解していて、むしろそれを楽しんでいて、そのうえで「アニメはアニメで」と評価していた。『うる星やつら』は原作とアニメ版とで評価はまったく別だった……といってもいい。
 今は「原作原理主義」の時代。少しでも原作と違うように描かれると叩かれる。そう思うと、あの時代にはまだ自由があった。いい時代だった……。

 あれから40年が経ち、再び『うる星やつら』がアニメ化する。その話を聞いてまず懸念に感じたのは、40年前のアニメ版の評価を覆せるか。さすがに40年も経つと『うる星やつら』という作品自体が忘れられている。原作版を知らず、アニメ版だけしか知らない……という人も普通にいるだろう。
 古い作品はなにかと理想化されやすい。昔の作品を10代の頃に見た……という人はなかなか危うい。というのも、10代の頃に見たものが面白い……というのは当たり前の話だ。10代の感性が鋭い時に見たもの、というのはどんなものでもキラキラしやすい。そういった「輝いた思い出」が10年経ち20年経ち、思い出が理想化していき、「思い出補正」と呼ばれるものがかかっていく。1980年代『うる星やつら』の初期のクオリティがボロボロだったことも忘れられるし、メガネがオリジナルキャラクターだったことも忘れられるし、当時の作家達が原作無視で暴れ回ったからよくわからない作品、ハズレ作品も一杯あったことも忘れられる。という以前にアニメ版をオリジナルだと思っている人も多かろう。ぜんぶ「思い出補正」できらめきだけが強くなっていく。
 そうした思い出を参照したものと現代の作品を比較すると、思い出の方が強くなるのは当たり前の話。なにしろその思い出の作品というのは頭の中で理想化された、実際の作品とはすでに異なる作品なのだから。
(昔大好きだったアニメをビデオなんかで見るとガッカリすることが多い。思い出の中にある「昔好きだった作品」は実際の作品とは別モノなのだ。昔はビデオ化もなかったから思い出の中で醸成されやすかったけれど、現代は古い作品もお手軽に見られるようになったから、「思い出が思い出に過ぎなかった」ことにすぐに気付いてしまう。「なんだこんなもんだったのか……」と。そういう経験の少ない人が、自分の思い出補正に振り回されて評論するようになりやすい)

 『うる星やつら』が再びアニメ化すると聞いたとき、やっぱり昔の『うる星やつら』を見たおじさんたちが面倒くさい「思い出との比較」なんかをやりはじめて面倒くさいんだろうな……という気がしていた。アニメコミュニティでどんなやりとりがなされているか、私は興味がないのでぜんぜん触れてないが、いろいろあるんだろう。「昔のアニメ版はこうだった」とか「昔のほうが良かった」とか……。

 2022年10月。あの伝説の漫画『うる星やつら』が再アニメ化する。もちろん40年前に制作されたアニメとは関連はなく、完全なるリブート作品。1980年代の『うる星やつら』はその時代のクリエイターが好き勝手暴れ回った作品だったが、2022年版は原作に忠実に作られる。時代観も現代の世相に合わせてスマートフォンが……出てこない。時代設定も完全に当時のまま。かつての『うる星やつら』と全く違うコンセプトで制作される。
 さてその内容だが――。
 まず確認できたのが「ラム」というキャラクターが古びていないこと。キャラクターデザインは現代風に刷新されてはいるが、それも原作のイメージをほんのちょっと今風に変えただけ、目・鼻・口・輪郭線のバランスとちょっと再調整しただけ。40年前に原作やアニメを見ていたユーザーが、あの頃に見ていたラムのイメージそのまま地続きで見られる。最初にキャラクターを見たとき「原作と変わってないじゃん」とすら思ったくらい。

2022年版は顔のバランス感を少し手入れしただけでほぼ原作のまま。それでも現代に通用するキャラクターになっている。それだけ元々のデザインがよかった、という話。

 それでもラムは相変わらず可愛い。作品のアイコン的な存在感を持っている。昔の作品はメイクやファッションがその時代の流行に合わせられているので、そこで古さを感じるものだけど、ラムのキャラクターだけは時代感をポンと無視して、現代のアニメシーンに紛れ込んでいたとしてもぜんぜん気にならない。それくらいの普遍性を持っていたキャラクターなのだと、2022年版を見て気付く。

あれ? オッパイが小さい? ラムの巨乳イメージは後のアニメ版で作られたもので、原作版はさほど大きくない。こういうところも原作準拠。

 私が2022年版のラムで気に入っているポイントは髪の色。40年前のアニメカラーでは表現できないカラーだ。ハイライトに発光を入れていて、それが作品の中で艶やかな輝きを放っている。髪の色のおかげで、40年前よりも作品の中で目立った存在になってくれている。
 上坂すみれの声もいい。平野文ラムのイメージとちゃんと連なっている。声だけ聞いていると「声優が変わった」ということすら意識せずに済む。

 髪色がやや発光しているように見える。このおかげで、現世の少女とは別存在……という印象を旧アニメ版よりも強めている。

 キャラクターはシンプルであったほうがよい。そのほうがよりキャラクターとしての強さが現れてくる――というのが私の持論。
 キャラクターは最小の要素で、パッと見た瞬間なんのキャラクターであるかわかるものであったほうがよい。キャラクターの要素を複雑にすればするほど、個性は薄まるし、別のキャラクターとの見分けが難しくなる。最小要素で表現できるキャラクターほどそれは独自の個性を持っている……といえる。
(その最高のお手本はもちろん初音ミク)
 ラムは間違いなくその要件を満たしていた。40年前のキャラクターだけどその間に色んなキャラクターが生み出されてきたはずなのに、どこかの別のキャラクターに混同されることはなく、ラムはラムだ。しかも時代が変わっても相変わらず可愛いと思える。ラムがそれだけの存在感をすでに勝ち得ていた……ということに再アニメ化によって気付かされる。

 2022年版『うる星やつら』が放送されるようになってから変わったこと……といえばラムの二次創作が山のように作られたことだ。その以前は、昔を懐かしみたいおじさんクリエイターが時々描くもの……若者は「ああ、昔のキャラだね。知ってるよ」というくらいの薄い反応でしかなかった。
 今は若いクリエイターが積極的にラムを描いてTwitterやpixivで公開している(私がフォローしているイラストレーターもたくさんのラムを量産している)。ラムはあっという間に「今」のキャラクターになった。若い世代にそうさせるくらいのキャラクターとしての強さにはあった、ということを作品が証明した。

 しかしこうやって40年前の作品を再び見ていると、ちょっと引っ掛かるところにも気付く。あの時代には気にもしなかったけれど、私の感覚が当時と変わり、今の時代の視点になると違和感となって感じられるポイントだ。

 まず画作りについて。
 空間の表現が曖昧。キャラ同士の距離感や空間表現が頻繁におかしくなる。
 これはもともとギャグ漫画だから、そのコマにおけるキャラクターの位置関係の方が重視されているため。ギャグ漫画はその瞬間瞬間が面白いことが大事だから、コマ構成はシンプルであったほうが良い。対話シーンは2人のキャラクターの顔をポンポンと置く程度のものでもいい。
 たぶん、漫画のコマの印象をそのままアニメに持ってきたのだと思うけど、それだとキャラ同士の空間が不安定になりやすい。

 例えば第1話のような構図。画面右に描かれている黒服の立ち位置が不明。
 漫画ではよくある構図で、漫画で読めば違和感はさほどないのだけど、アニメのように背景と色彩が入ってくると急に立ち位置の怪しさが違和感になってくる。

 同じく第1話。
 ラムの父登場シーンで、巨大さを強調したカット。巨大さが強調されているから、他のカットとの整合性などはあえて無視されている。
 ここで気になるのは、テーブルの高さと諸星あたるの膝の高さ。足元まで書き込んでみると、テーブルの高さと諸星あたるの背の高さは合わないだろう。こういう空間的な整合性の合わないカットが出てくると、違和感になる。
(パースやデッサンの狂いは誰でもわかるような話ではないが、違和感は感じるはずだ)
 こういう空間構成のおかしい構図が1つ2つではなく、ずーっと続く。初期のアニメーターにスタミナがあった頃ならともかく、お話しが進んでくるとどんどんパースが曖昧になって、キャラのサイズや背景との整合性が狂ってくる。これが見ていてどうしても引っ掛かってしまう。

 橋の幅や奥行き感も引っ掛かるが、この一連のアクションはおかしい。橋の欄干にもたれかかっている諸星あたるにタックルしても、2コマ目のような動きにはならない。こういう整合性の合わない作劇を無理矢理やっている……というところも引っ掛かる。
 漫画であればたぶん成立する。というのも、漫画は抽象度のコントロールに幅がきくメディアだ。背景を抜いてキャラクターだけをポンポンと並べても成立するし、その間で立体空間がおかしい芝居があっても抽象度が高いから成立する。
 ところがアニメになると背景が入って抽象度は落ちる。そこで漫画と同じように作劇を作るとどこか無理矢理感が出る。そういう無理矢理さが出ないように、映像化するためにそれなりの「翻訳」が必要になってくる。その翻訳の工夫をせず、原作の絵の流れをアニメに持ち込んだからどこかおかしくなる。

 『うる星やつら』のような構図の作り方は、『おそ松さん』であればうまくいく。何が違うかというと、キャラクターの抽象度。『おそ松さん』のキャラクターは抽象度が高いので、シンプルな構成の画であってもそこに疑問を持つことはない。むしろ『おそ松さん』のようなキャラクターであればよりシンプルに構図を作った方がお話しは伝わりやすい。
 しかし『うる星やつら』は『おそ松さん』よりももう少し頭身が高く、現実的な背景を持っている。すると構図の抽象度はもう少し下げて描かなければならない。空間のパースももうすこし正確に捉えて、キャラの立ち位置を明快にして描いた方が、見ている人の気持ちは作品世界に入りやすい。
 もちろん「リアルに描けば良い」という話ではない。この抽象度に合わせた作劇が必要なのである。リアルである必要はないが、納得感は必要。『うる星やつら』のアニメが描いているギャグは、この抽象度だとバランスが上手く取れていない。
 とはいえ、抽象度と作劇の関係性はさじ加減が非常に難しい。客観的に見ている立場であれば抽象度と作劇の乖離が起きている……と簡単に指摘できるが、制作している側はなかなか難しい。

 作劇上の引っ掛かりは他にもある。第3話、面堂終太郎が空からパラシュートを広げて下りてくる。

 諸星あたるを探して教室の外に出たラムと、面堂終太郎が偶然ぶつかる。すると、パラシュートが“たわみ”始める。

 この時のパラシュートの動きが不自然。地面に着地しない限り、パラシュートは広がり続けるはず。
 たぶん、ラムと接触したために面堂終太郎もパラシュートも浮遊状態になったためだと思われるが……見る側がそう解釈しなければならない、というシーンの作りに疑問がある。

 そこからしばらく風に流されて、パラシュートは都合良く野球の金網の裏手まで落ちてくる(前のカットの背景奥に描かれていた場所)。
 これはパラシュートを跳ね上げて「ダーリンいた!」という場面を作るためのものだが、作為的。こういう作為が見えてしまうシーンが来てしまうと、無理矢理なものを感じる。無理矢理だと感じると、作品への没入感が減退してしまう。
 もちろんリアルにせよ……というわけではない。「納得感」が大事で、この作劇だと納得することができない。
 漫画だとこの作劇は成立する。なぜなら背景を抜いて描写できるから、キャラクターが別の空間にポンと飛んじゃっても読者は意識しない。漫画は都合良く抽象度をコントロールできるから、無理矢理でも成立する。でもアニメはカッチリとした空間ができてしまうから成立しづらい。そこでアニメにする場合は「翻訳」が必要になるわけだが、その工夫が弱い。
(原作を忠実に再現すればいいのではなく、そのあいだに「翻訳」がなければならない)

 第3話のあるシーン。やはり漫画的な構成をアニメに持ち込んだカットだが、不安定極まりない。欄干が低いし、校舎の高さもあやふや。
 別のカットでは諸星あたるやラムのいる校舎のすぐ側に別の校舎が迫ってきている。どうやらパースの知識のないアニメーターが描いたカットらしい。

 もちろん漫画的な構図がうまく描けている場面もある。例えばこちら。奥に面堂終太郎とラムの対立が描かれていて、手前に諸星あたると三宅しのぶの対立が描かれている。奥から手前へと、二つの対立が一つの構図の中に収まって、順番に作劇が展開している。背景が書き割りっぽいが、カットの構成がよくできていて気にならない。

 今回の『うる星やつら』はこういうところだらけ。引っ掛かりが多い。シーンを作るにしてももっと“自然な流れ”を作るべきだがそれがうまく行っていない。お話しそのものは面白い。もともと原作漫画が秀逸で、それをなぞっているから、そこで間違いが起こることはない。しかし作劇がいろんなところで失敗をしでかしているから、そこで評価はどんどんマイナスになっていってしまっている。

 次の引っ掛かりどころは――これは今の時代にアニメ化されたからやっと気付いたことだが、キャラクターたちが「物語」を持っていない。キャラクターが“その機能”しか持っていない。
 どういうことかとうと、諸星あたるは美女を見ると「お姉さーん」と飛び込んでいく。それがなぜ、とか、どういう由来で……という背景物語がない。
 それに対して、ラムが電撃を喰らわせる……という夫婦漫才が『うる星やつら』の笑いの基本なのだけど、改めて見ると、どうしてラムは諸星あたるばかりに電撃を放つのか。恋敵である三宅しのぶには電撃を喰らわせる……なんてことはない(そもそも恋敵として見ていない……という説もあるが)。これが「なぜなんだろう?」と改めて見ると不思議に感じられてしまう。

 これはどういうことかというと、諸星あたるは美女を見ると「お姉さーん」と飛び込んでいくという「定義付け」で作られている。なぜ? とか、どういう背景物語があって……という設計がない。
 これに対してラムはそんな諸星あたるに電撃を喰らわせる……という定義付けで作られている。だから諸星あたるに電撃を喰らわせるが、他のキャラクターに電撃攻撃することはない。
 つまり、このキャラクターはこういう行動を取る……という定義付けだけで作動してしまっている。それ以外の根拠を持ち得ない。改めて気付くが『うる星やつら』は「物語」の作品ではなく、ギャグ漫画だったんだ。だからどんなエピソードが展開しても、そこにドラマが生まれることはない。

 また『おそ松さん』を比較に出してくるが、おそ松さんであればキャラクターの抽象度が高いから、キャラクターの背景なんてまったくなくても問題ない。どうしてそんなキャラクターになったのか……という定義付けなんてやらなくても成立しうる。むしろ『おそ松さん』のような作品形式だと、キャラクターの背景物語なんてものは邪魔になってしまう。その時々でデタラメに変更したほうがより面白くなる。それも抽象度が高いからだ。

 一方の『うる星やつら』は『おそ松さん』よりももう少し頭身を持って、空間表現もある作品だ。そういう作品がただ最小要素の「設定」だけを持っていて、その設定通りに作動する物語を見ると、どうにも単調に見えてしまう。
 現代の漫画では、もう少しキャラごとに「背景物語」を持つものだ。その背景物語がそのキャラクターの行動原理になっていく。そこで物語はもっと複雑に、魅力的になっていく。そういう現代の漫画と比較すると、40年前の漫画の設計はこんなに単調だったのか……と気付かされる。今だったら『うる星やつら』のような構造は漫画連載を勝ち取れないだろう。

 『うる星やつら』はキャラクターに最小要素の「設定」しか持っていない。そのキャラクターだけでお話しを作ろうとしても、同じお話しの繰り返しになってしまう。そこでどうしているかというと、どんどん新しいキャラクターが追加されていく。新しいキャラクターが追加され、そのキャラクターとどのような関係性を結ぶか……というお話しの作り方になっている。つまり「物語」なるものは描いていない。
 次々に新しいキャラクターが出てくるのだけど、やはりどのキャラクターも最小要素の「設定」しか持っていない。諸星あたるはどんな美女に対しても「お姉さーん」とまったく同じリアクションで飛びついていく(この性格だから物語が作動しやすい)。でもその相手の美女が一癖も二癖もあるから、意想外の方向にお話しが転がっていく。そうやってお話しが少しずつ変化していく……というフォーマットがただあるだけだった。
 というのは、いま時代に再び見たから気付いたこと。当時はそういうのはぜんぜん気付かなかった。いっそ気がつかないままの方がよかったかも……。

 『うる星やつら』には物語がない。キャラクターが設定だけで作動するお話しで、そのうえに空間表現が曖昧……。これが組み合わせとしては悪く、より視聴体験を悪いものにしてしまっている。

 第3の引っ掛かりは、2022年版『うる星やつら』には作り手のエゴが見えないこと。
 というのも原作だけではなく旧アニメ版にも忠実に作られすぎている。諸星あたるもラムも40年前のアニメと較べてもイメージが崩れないように描かれている。それは非常に優等生的で良いところではあるのだけど、2022年版ならではの新しさがない。
 これまでのアニメ化になかったイメージ……というものが今回のアニメの中で生み出されていない。それは果たして創造的な作品であるといえるのだろうか。いっそ「公式二次創作」というものではないだろうか。

例えばラムの飛翔音。これも旧アニメをベースに作られている。新時代のクリエイターの解釈がそこにない。

 2022年版『うる星やつら』には「サトシ」というキャラクターが出てくるのだが、このサトシが風貌といい声といい、千葉繁メガネにそっくり。これが中途半端に寄せているせいで、どうにも「偽物感」が漂ってしまう。もともと原作にもいたキャラクターではあったのだけど、旧アニメ版のユーザーに対する配慮が強すぎる。

 旧アニメとまったく違う! それでもこっちのほうが良い! ……そう言わせるくらいの新しいイメージがどこかにあるべきだろう。そう言わせるものを作り出すことがクリエイターの本分だ。

2022年版にも良いところはある。こういうグラフィカルな見せ方は旧アニメでは表現し得なかったもの。だた、これが『おそ松さん』という先行作品の中に似たような見せ方があったため、この作品独自のもの、とはいえない。

 旧アニメの時代にはメガネ・パーマ・チビ・カクガリという原作にいないはずのキャラクターをいきなり登場させて、それがファンにも認められ、劇場版でも当たり前に登場する常連キャラクターになっていった。それは旧アニメのスタッフが強いイメージを持っていたからだ。
 現状だと原作と旧アニメ版のイメージを優等生的になぞりました……というだけの作品に見えてしまう。
 原作に忠実……というのがコンセプトだけど、しかしその範囲内でも「強いイメージ」を生み出せているか……というとかなり疑問。もともと原作が良いのだから、そこそこ作画ができる人がいればそれなりに売れる作品になるのは当然。ラムという普遍性を持ったキャラクターもいる。でもそれは「原作が面白いから面白くなった」というだけでアニメ独自の面白さがそこにあるとは言えない。
 原作に描かれている以上のことはなにもやっていない。現状だと優等生が作った作品……というだけあって、それ以上の評価にはならない。そういう意味で2022年版は「それなりの作品」以上にはならない。


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