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7月11日 クッパの本当の目的とは?

 クッパ様というのは『スーパーマリオ』シリーズの大王クッパ様のことです。

 『スーパマリオ』シリーズは毎回クッパがピーチ姫をさらう場面から始まり、それをマリオ(とルイージ)が救いに行くという展開が描かれている。
 定番の展開だけど、実は常々、クッパのやっていることに疑問を感じていた。
 まず第1にピーチ姫をさらう理由がよくわからない。明示されている場合もあれば、されない場合もある。理由が示される場合でも、「本当だろうか?」という疑問が感じるときもある。
 例えば『マリオオデッセイ』の場合は、ピーチ姫と結婚するためだったという。これも本当だろうか。まず言って種族が違いすぎる。怪物亀と人間だ。いくら多様性の時代だからといって、こんな極端なもの同士の結婚があり得るのか、またクッパは本気なのか、という疑問がある(あとピーチ姫のほうは全く同意していない)。
 おまけにクッパはおそらく既婚だ。シリーズには堂々と“息子”であるクッパJr.が登場している。隠し子とかそういう設定ですらない。姿を現さないクッパの妻がどうなったのかは不明だ。離婚しているのか死去しているのか。そんな話すら出てこないから、ひょっとするとまだクッパの妻は健在で、ピーチとの結婚は重婚である可能性もある。

 一つ考えたのは、「身代金」説。というのも、キノコ王国の金の産出国だ……多分。ステージ上のあっちこっちにコインが配置されているが、あれは金ではないだろうか。
 Wikipediaを見てみると、『スーパーマリオRPG』においてカラカラ砂漠から石油が出ている、という記述があるそうだ。シリーズ全体を通しても自然豊かで、おそらくはほとんど農業の必要がないくらいにいくらでも森で食料を得ることができ、また観光資源となる風景も非常に多い。金、石油、豊富な天然資源、その一国の女王をさらうには相応の理由があるように思える。
 だが疑問は、クッパは一度もそれらを身代金として要求していないし、シリーズと通して一度も利益も得ていない。
 Wikipediaには第1作目の動機について、クッパは魔法使いであり、ピーチはその魔法を解除する力を持っているから、と説明されている。クッパの魔法の力でキノコ王国の人々がつくしや岩に変えられてしまい――だから第1作目の『スーパーマリオ』にはつくしや岩に目が付いているというわけだ。

Wikipedia:クッパ

Wikipedia:キノコ王国

 もう一つの疑問が、「クッパは果たして本気だろうか?」という疑問だ。ピーチを誘拐して身代金や結婚を本気で考えているのか。
 なぜそんなふうに疑問を持つかというと、クッパがマリオを足止めしようと作られたステージというのがあまりにも……そう、あまりにも楽しすぎるからだ。あれは「足止めしてやろう」というより、むしろ「楽しませよう」としているように見える。
 しかもゲームが始まった最初のほうは、進みやすく、遊びやすく、またステージそれぞれの性質やルールがわかりやすく構築されている。それがステージが進むにつれ、次第に次第に難易度が上がっていき、ステージそのものが噛み応えがあり、乗り越えていく過程に達成感が得られるような作りになっている。
 こんなステージを、毎回、しかも相当な数で作られているわけである(あれらの創造主がクッパと想定して、の話)。あれらのステージは、本気でマリオを足止めするために作られているのか?  もちろん、本気と思われる場面はいくつもいくつもある。マリオはステージを乗り越える過程で、圧死し、針で串刺しになり、溶岩に落ちて何度も死んでいる。殺意は結構高い。私もシリーズと通して何百人ものマリオを死なせてしまっている。
 だがクッパは異様なほどフェアネスにこだわってステージを作っている。どんなステージであれ、「絶対クリア不能」なステージは作っていない。クリア可能に作っている。もしも本気で足止めするつもりだったら、「絶対クリア不能」のステージを作ったりするものじゃないか。それをクッパは絶対にやらず、禁じ手にしてフェアネスなステージにこだわり続けている。

 そうするとクッパの目論見は身代金や結婚、はたまた魔法の力とは無関係のように思える。なぜならクッパは最初の『スーパーマリオ』を含めて一度も成果を得ていない。成果を得ていないのに関わらず、クッパの創造物はシリーズを通して豪華になり、複雑になり、巨大になり続けている。
 あれだけの失敗を重ねていたら、そろそろ別の何かを始めようかと思うものだし、それに利益を得ていないはずだからステージの構造ももっと単純に、見た目にも貧しさが見えてくるはずだ。キノコ王国は豊かな国で産業になりそうなものがいくつもありそうだが、クッパ軍団にはそういう収穫物がありそうな気がしない。何で収益を得ているのか不明だ。だがそうはならず、クッパはシリーズを通してむしろ豪快に、豪奢になり続けている。あれだけの失敗を重ねているのに、精神的ダメージが全くない、というのも不思議な話だ。メンタルが強いというレベルの話ではない。

 表に出ている身代金や結婚、魔法の力という動機はひょっとするとフェイクではないか。ここにピタリとはまる、納得いく答えは何だろうか――?

 そこで私がハッと思いついたのが、『スーパーマリオ=リアリティゲーム』説だ。
 『スーパーマリオ』シリーズはリアリティゲームである。挑戦者はアスリートのマリオ。マリオは走る、飛ぶだけではなくドライブ、テニス、水泳そのほか様々な分野で抜きん出た実力を発揮する万能のアスリートだ。
 そのマリオに、クッパ入魂ステージを挑戦してもらう。それはちょうど『SASUKE』のようなものだ。『SASUKE』のようなものだから、最初は優しく、ステージの性質やルールがわかるように構成され、次第に次第に難易度を上げていく、という丁寧な構築がなされている。
 それがパッケージになった『スーパーマリオ』こそが私たちがゲームショップで購入するゲームソフト『スーパーマリオ』というわけだ。
 クッパはゲームソフト『スーパーマリオ』を作るためにピーチをさらうという芝居を演じ、マリオに自作ステージの挑戦させ、それをパッケージにして世界中で販売する。そのマリオを操作するのは私たち。リアリティゲームを私たちが操作する、という理想的な形ではないか(「マリオを操作する」というここに魔力が代入されている可能性がある)。
 その『スーパーマリオ』を制作し販売することが目的だから、絶対クリア不可能なステージを作らず、丁寧にステージ構築をし、クッパは自ら悪役を演じ、最後には溶岩に転落するという大芝居を毎回演じている。毎回似たような芝居を繰り返すのは歌舞伎ようなものだ。自ら悪役を演じているからこそ、わざとらしいまでに派手な格好をして、大袈裟に溶岩への転落を披露してみせるのだ。完全なるプロレスのヒールである。
 するとシリーズを通して次第に次第にステージ構成が豪奢になっていく理由も見えてくる。『スーパーマリオ』シリーズは世界中で大ヒットしているので、その収益が毎回積み上がっているから、どんどん豪華なステージが作れるのだ。クッパ本人の格好も豪華に、悪役として威勢よくなっていく理由もおそらくここだ。
 クッパが何で収益を得ているのか、それは『スーパーマリオ』というリアリティゲームであり、それをパッケージにして世界中で売ることで得ているのである。

 と、こういう発想をすれば謎めいたクッパの目的やクッパの収益、クッパのやっていることへの疑問は解消される。
(事実として、いまNOAの社長はバウザー=クッパである。その以前はドンキーコングだったが)
 もちろん、こんな考えは公式でもなんでもない邪道の話だが。信じるか信じないかは貴方次第、というやつだ。

 ただ、こういう話を代入すると、もう別の疑問が湧き上がってくる。
 それは「マリオとは何者なのか?」
 この疑問を出す前からマリオが何者なのか、シリーズを通しての謎だった。
 『スーパーマリオ』の説明書には、「マリオ×3」とは「マリオが3人」いる状態であると説明している。……マリオが3人いる、だと? マリオは1人ではない?
 確かにその通りだ。なぜならマリオはステージ中、何人も死んでいる。圧死したり、針刺しで死んだり、溶岩に飛び込んで死んでいる。あの死が本当のものだとすると、マリオが1人であるわけがない。
 最近のマリオは1人である。『マリオ64』あたりから「何人ものマリオ」ではなく、「たった1人のマリオ」として描かれるようになった。マリオが複数人いるというのはその以前の、古い時代での話だ。
 この謎はうまく解けないが……考え方の1つは「マリオは個人名ではなく称号のようなもの」だ。マリオを冠する名前の持ち主は、実はキノコ王国に何人もいる。マリオはマリオでも、実は別人である、という考え方だ。
 もう1つはマリオクローン説。マリオは何人も複製されている。といっても、これは根拠になりそうなシーンがゲーム中一度も出て来ていないので、自分で書いていて正しいとは思えない(キノコ王国にそれらの技術を示すシーンが一度も出てきていない)。
 マリオが何者なのか、私にはよくわからない。どう解釈しても、今のところ納得いきそうな答えが見つかりそうにない。だからこの疑問は保留とする。

 疑問がもう一つ。ピーチ姫やキノコ王国はクッパの目論見に同意しているのか? という疑問。ピーチ姫はクッパと共謀した狂言誘拐をやっているのだろうか。クッパが『スーパーマリオ』というパッケージタイトルを作るにあたり、ピーチ姫やキノコ王国は利益を得ているのか?
(もしも共謀しているすると保険金だけでも結構儲けられる)
 おそらく利益は得ていないと思われる。
 というのもキノコ王国はもともと豊かな国で、収益を出せる分野が多く、クッパに頼る必要がない。それに『マリオ64』に登場してくるピーチ城だが、その後の『マリオオデッセイ』でもさほど大きく変わっていない。一方のクッパは大きく変遷していった……豪華な方向に変遷していったのに対し、ピーチ城や姫の格好に大きな変化はない。これは表に出していないかクッパと共謀関係ではないかのどちらかだが、私は後者のほうだと考える。
 クッパはあれだけ豪華になっていったのだから、同じようにピーチ姫も豪華になっていかねばならないはず。だがそうはなっていない。シリーズを通して毎回いろんなところを探索しまくっているが、その収益をどこかに隠している痕跡やそれそのもの(隠し財宝)に行き着いた試しが一度もない。ということはそんな金、もともとないのだと考える。
 だからクッパとピーチ姫は共謀関係にはない。ピーチ姫やキノコ王国は毎回クッパの一方的な目論見に協力させられて迷惑しているほうだと考える。
(ただ双方怪我などしないように、無駄な抵抗はしないという知恵は長いシリーズのうちに身につけているのかも知れない。というのもピーチ姫は一度も脱出を試みたことがなく、助けに来るのを大人しく待っている)
 もしも隠し財宝がどこかにある、なんていったら主人公としてのイメージが崩れる。

 まだ疑問が残される。
 というのもマリオがあまりにも律儀にクッパの作ったステージに参加していることだ。『SASUKE』のように構築されているステージだが、マリオからしてみれば、別にそれに参加する義理立てはない。クッパにとって意味はあるが、マリオにとっては意味がない。ステージの諸々を無視して、その横をするっとすり抜けて、いきなりクッパ大王に対峙したっていいはずだ。だがマリオはそうはしない。なぜか?
 理由は様々考えられるが、クッパが作り出したゲームに参加しないとステージ……つまりその土地を取り戻すことができないから、じゃないだろうか。毎回ステージの最後にフラグを取ってゲームクリアとなっている。あれは「この土地は取り戻した!」という意味ではないだろうか。クッパが提示したゲームルールの中にフラッグを取り戻すと土地を取り戻せる、というものがあり、だからクッパが作り出したステージに律儀に参加している。
 もう一つの理由は……マリオ自身がステージを駆け回ることを楽しんでいるからじゃないだろうか。マリオが「ハッハァ!」と飛び回っている姿は楽しそうに見えるし、私たちも操作していて楽しい。クッパが提示するゲームに対し「しょーがねーなー」といいながらもマリオは実は楽しんでいるのではないだろうか。でなければあんなに楽しげに、生き生きと駆け回ったりもしない。そしてそういう気分にさせるために、クッパは手の込んだステージを作り上げている。

 『スーパーマリオ』がクッパの作り出したリアリティゲームである、という説はこれまでのシリーズで描かれてきた謎に一つの解釈を当てることができる。だが一方でその考えを代入するとまた別の謎も生まれる。謎の全てを解明できる答えが見つかるのは、もうちょっと先のようである。









 ……と、今回こんな不思議な話をしたのは実は『スーパーマリオ』に関する新説を披露しましょう、という動機ではない。本当のテーマは別。
 だいたい、「ステージ構成があまりにも楽しい」というのはありとあらゆるゲームにも当てはまる話だ。別に『スーパーマリオ』に限った話ではない。
 なぜこんな話をしたかというと、一つには思考実験。「こういうふうに考えてみたらどうだろう?」という仮定を提示するためのもの。「これが正しいに違いない!!」という勢いで私は書いていない。そもそも本家公式の設定でもなんでもないし。本家公式に書かれているものとは違う答えを考えてみよう、というのが思考実験で、その(楽しみを)提示するのが目的。
 もう一つの動機は、実はアクションゲームそのものを再解釈した作品を制作する予定だった。先に書いたように、「ゲームのステージ構成があまりにも楽しく作られている」というのは全てのゲームにおいて普遍的な話で、しかし疑問としてそれはなぜか? 誰がそのように作っているのか? これを課題として提示する作品を制作する予定だった。それを考えている過程で、「スーパーマリオ=リアリティゲーム」説が生まれ、その説を自分のオリジナル作品に導入する予定だった。順序が逆だったというわけである。
(だいたいチュートリアルステージなんてものは奇妙奇天烈なもので、敵である悪の大魔王がいて主人公を妨害、足止めのためにステージを構築しているとしたら、普通、最初は優しく作ろうなど思わないものだ。なんでチュートリアルなんてものが作られるのか、というところから考える必要があった)

 と、こういう話をブログに載せてしまう理由はもうおわかりでしょう、その作品の制作は中止、頓挫しちゃったわけですね。その作品の根底となる思想を発表する場所がなくなってしまったので、こういった場所で披露した、というわけです。
 私が構想していた作品の中では、「主人公が何人もいる」謎、理由も説明されておりました。全てのものにちゃんとした理由と一貫した連なりがある……そういう作品の構想があったわけだ。

 それではなぜ作品の制作が頓挫したのか? 理由は面白くないから。これが究極理由。構想を組み立てていったのだけど、ある段階で、「これあまり面白くないぞ」というところに行き着いた。制作する前に、「面白くならないぞ」というところに行き着いてしまった。だから制作中止を決めたというわけだ。
 制作されればゲームそのものを再解釈、ある種の思想面のアップデートが計れる作品かな、と考えていた。ゲームの多くはなぜ敵に触れるだけでダメージになるのか、なぜ最初は優しく作られているのか、ステージ構成があまりにも楽しい理由は何なのか、ステージギミックとは何のことか……等々。その全てに“理由”を付けた作品で、その作品に触れれば「あ、そうか」という気づきが与えられると考えていた。ゲームに対する見方が変わるんじゃないか、と。
 だが問題は面白くなりそうかどうかが全てで、面白くなりそうにないから制作しない、という判断を取った。

 今回、私の書いた「スーパーマリオ=リアリティゲーム」説には「敵に触れたらダメージになる理由」などは示されていない。それは私が制作する予定だった作品の中で語るつもりだった。
 でもそれは語る必要もないでしょう。大した理由でもないし、ね。


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