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11月17日 シェアハウスについてぼんやり考える

 いつかやってみたいな……と考えていること。

 田舎の広い土地を買って、大きなお屋敷を作って、そこで本当に仲良くなれた数人とシェアハウスに近い形式で暮らせるようになればいいな……とか考えている。

 シェアハウスの定義は「一つの住居を複数人で共同で暮らす賃貸物件」ということなので、私が考えている生活形態とはちょっと違う。一つの住居に、「血縁関係者」以外の人々と一緒に暮らすこと。なおかつプライベート空間もしっかり持っているので、「共有部分のある長屋」のほうがイメージが近い。シェアハウスではなく「コロニー」の発想に近いんじゃないかな。
 それを、「見知らぬ誰か」ではなく、「そこで初めて会った人達」でもなく、仕事や趣味を通して間違いなくいい関係になれた人達と暮らす。「知っている人」「仲良くなれた人」を前提とする。
 すでに結婚しているなら、数家族が共有スペースを持ちながら暮らす……みたいな考え方でも良い。3家族くらいが、生活や成長を共有して暮らすのもいいだろう。子供の面倒をひと組の親、あるいは母親だけが面倒を見る形式ではなく、いろんな大人達が同時に密に面倒を見る。子供の成長過程を考えると、この形式の方が合理的だろう。

 なぜシェアハウスに近い形式である必要があるのか。まず単独で生活するより、複数人で社会を作った方が何かと有意義だから。一人で暮らしていると、病気になった時など難儀する。
 誰にとっても得意・不得意というものがあって、不得意な物にぶちあたると、無理して事に当たるか、放置するか……ということになってしまう。例えば料理が不得意な人は、偏った食事を摂る傾向があり、栄養が偏ってしまう。だったらグループの中でも料理が好き・得意な人に委ねたほうが良い。生活の中でも「得意な物」というものは必ずあるのだから、その得意を生活の中でも活かしたほうがよい。
 できるなら、数人でお金を出しあって「家政婦」を常駐させたい。イギリスの貴族階級では住み込みのハウスキーパーというものが必ずいる。イギリスではハウスキーバーを重宝していて、信頼を置ける人にワンフロアを与えて家の管理をさせている。イギリスのセレブ階級のワンフロアだから、とんでもないスペースだし、それだけ権限も与えているということになる。これに倣って、家政婦を住み込みでいてもらって、家の管理を任せるという手もある。
(「召使いを置く」という話をすると「前時代的だ」とか「奴隷制度だ。人権問題に絡んでくる」とか言ってくる人は絶対いると思うが、「本場の召使い」というのは、一般家庭よりもはるかに大きな居住スペースを与えられて、しかもめっちゃ高給。だからプライドを持って仕事をしている。本場セレブ社会の召使いを再現する……というのは流石に無理だけど、当然ながら住居と給料は与えるので「奴隷制」ではない)

 もう一つの理由は、年を取るほど孤独に陥りやすいという実態があるから。私の住む街でも老人の一人住まいは多い。老人になると若い頃のような接点となる社会がないから、孤独に陥りやすい。体力も落ちてくると家からなかなか出なくもなってくる。すると一日誰とも交流を取らない……という生活になりやすい。
 そこは現代的な住居問題が絡んでいて、「家」って「街の中の孤島」になりやすいんだ。年を取れば取るほど家から出なくなるし、「家」という領域があるから周りの人もそこに入ろうとしない。「家」が一つの聖域となって、むしろ逆に周辺の社会から遮断しはじめてしまう。それで最終的には「最近見ないな……と思っていたらお亡くなりになっていた」ということになる。
 これ、本当に私の住んでいる街で起きてることだよ。

 日本人は「同居する相手は血縁関係者でなければならない」……という意識に強く囚われている傾向があるんだ。「家族単位」でなければならない、あるいは「一族単位」でなければならない……そう考えている人は多い。「家」というものの性質をかなり限定的に考えている。
 そこには「信用」の問題が絡んでいる。つまり、血縁関係者以外は、本当に信用することができない。血縁関係者であれば信用できる……みたいに思っている。「他人」に対する不安感が強いから……というのがある。
 でも私はそういうの別に良いじゃないか、と考える。というか、血縁関係者であってもあまり信用してない。私も家族仲うまくいってないからね。一緒に暮らしたいと思えたのなら、別に血縁関係者でなければならない理由もないし、結婚相手でなければならない理由もないし。まったくの他人でも、本当に気があうなら、これからもやっていけるな、と思ったら一緒に住むパートナーにしてもいいかな、とか考える。

 もう一つ、考えていることは、現代的なコミュニティにも限界を感じていて……。「街」というのは不特定多数の他人と暮らすことだけど、この街の形がうまくいっているように感じない。私は隣に誰が住んでいるのかよく知らない。隣の人も私のことなど知らないはずだ。
 私の住む街は非常に静かで、目立ったトラブルもない。一方で、誰もお互いのことを知らない。
 交流もしない。交流もしないかわりにトラブルもない。だから非常に静かだ。どこの街でもやたらと静かな理由がこれ。「関わりたくない・関わられたくない」その結果で作られている平穏さが日本の街の正体……という気がしている。
 さっきも書いたように、「家」って「街の中の孤島」になりやすいんだ。家が小さな聖域になって、社会との交流を全遮断してしまう。そういう街の中の孤島が一杯ある状態が現代の街。だから自分の住んでいる場所について「俺の街だ」みたいな印象がない。隣近所とも遮断されているなら、地域とも遮断されている。
 かといって、今から地域との交流を作れるほどの何かができるか……というと、そういうものにも信用が置けない。どこの街でも(私の住んでいる街でも)町興しなんて失敗してるんだもの。「家」と「地域」を再び結びつけてコミュニティが作れるとは、到底思えないし、イメージもできない。
 そもそもみんなそういう地域との交流とか「面倒くせー」とか思ってるんでしょ。なんでそんなもんに付き合わされるんだ……ってさ。「関係ねーよ」って。そうなるに決まってるんだよ。それが現代人だから。

 現代の家族の問題もこれで、昔は子育てといったらコミュニティ全体で行うものだったけれども、今は子育ての責任はひと組の親、あるいは母親一人の責任にされてしまう。すると子供の成長過程もどこか歪な物になりやすい。どうしてそうなるか、というと「家」がコミュニティと遮断しているから。それを望んだ結果、そうなった。誰もが問題だとは思っているけど、現代は家が「街の中の孤島」状態になっているから、問題が起きたとき誰の手も借りられない。みんな諦めちゃってる。
 どうせ遮断するなら、仲よくなれた数人と遮断された、「小さなコミュニティ」を作ってそこを守る生活に切り替えた方がいいかもな……とか思うわけ。「仲良くなれた数家族」でもいい。それだけの単位で「村」を作って、その関係性を大事にする……というのも生き方としては有りかな……とか思うんだ。

 で、お屋敷の中に図書室を作って、全員の本・ビデオ・ゲーム・おもちゃを共有する。これがいわゆる「シェアハウス」とは違う発想。持っている知識と経験は共有する。私も本やらゲームやら一杯持っているけど、一人で持っててもしょーがねーな……って思っている。
 かといって手放す気はない。本なんかは、いつ「そういえばあれに書いていたはずだ」と再び見返して引用するかわからない。手放す気はないし、一応作家なので手放すのは愚の骨頂。本を手放すということは知識を手放すと同義なので。
(ゲームライブラリーの中には、必ず歴代ゲーム機をずらっと並べて、「プレイスペース」も作りたい)
 かといって、死蔵するのも無駄。そういう時、一緒に暮らしている誰かの糧になればいい。だから共有する図書スペースを作る。本当に大事な物、他人の手に触れられたくない物は、プライベートスペースで保管すればよい。
 不特定多数の誰かと共有する気は全くないけれど、本当に仲良くなれた相手になら、共有してもいい。知識も経験も共有する。図書室を作れば、そういう有意義な共同生活になるはずだ。

 あとは飼っている猫ちゃんワンちゃんも共有する。猫も猫同士で交流ができて……猫は馴染む馴染まないがあるか……。どうしても他猫と馴染めない猫は、プライベートスペースで大人しくしてもらっててもいいけども。それも猫の性格によるって話だね。ワンコはわりと馴染んでくれると思うけど。
 いろんな家庭で過ごしていた猫たちが集まって団子を作ってくれたらいいなぁ。

 最終的には作ったお屋敷は老人ホームにする。
 理由は何度も書いたように家が「街の中の孤島」になる問題があるから。老人になった時の孤独を防ぐ一番有効な手になる。
 その後、全員死んだら住居を破壊してもいいし、また新しい若い世代が住めばいいし……。それは管理者が全員死んだ後なので、勝手にすればいい。

 ここまで私が話した内容は、「シェアハウス」というものじゃないんだろうと思う。なんというべきなんだろう……。「コロニー」かな? 言葉の正確な定義はよくわからんけども。

 で、そういうものを何人くらいでやりたいのか……というと50人くらい。建てる建物の数は5棟。最小単位は5人。なので「村」を作ろうみたいな計画ですな。一軒家の「シェアハウス」じゃなくて、やっぱり「コロニー」の発想になっていく。
 50人くらいいて、本やゲームを共有し、ハウスキーパーを雇って運営するなら、うまく機能していくかな……とか考えている。50人単位で知識の共有をやったら、かなり幅広い・奥行き感のある思想を持てそうだし。50人単位で物を受け入れたり、出したりしていたら、経済としても成立しそうだし。
 現実の世界では50人の人が結束して暮らす……なんてことは実現していない。現実の村でも50人いても、そこまで結びついていない。でも本当の仲良くなれた同士で結びついて共同生活を送れば、現実的にあり得ないコミュニティが実現するかも知れない……。
  まあそれも「できたらいいよね」という話だけど。

 一番の問題は、私にはそんなお金もなければ、仲のいい友人なんぞ1人もいない……って話かな。

 それに、私は「一人で暮らしたい」欲求が猛烈にあって……。
 お屋敷を作って、一人で静かに過ごしたい。
 でもそれじゃ家の管理どうする? 一人で一つのお屋敷を管理しきれるか?
 私は部屋に少しでも埃がちらついていると、すげーイヤな気になる。掃除は欠かせない。でも毎日全ての部屋の掃除を一人できるか。もしも家政婦を雇うとしても一人で雇い続けられるか?
 ……そう考えるとお屋敷の中に何人も住まわせて、共同生活をしたほうがいいという発想になる。

 まっ、どっちにしろ私は貯金10万円も持ってないから、ただの夢話でしかないけどね。


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