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4月18日 晩年の黒澤明について……

 私は一時、黒澤明監督作品を初期作品からずーっと順番に見ていた頃がある(でも全作見たわけではない)。黒澤明作品はどれも素晴らしく、ハズレが1本もない。どれも際だったテーマを持っていて、なるほどこれは「巨匠」と呼ばれるだけの力強さはある。
 しかし作品がカラー時代に、『どですかでん』に入ったとき……あれ? 借りてくる作品を間違えたか? これ、黒澤明作品だよ……なぁ? となった。
 これまでの作品、いや前作である『赤ひげ』と比較してもまるっきり別作品。作風が違いすぎる。続けて作品を見ると「あれ? 間違えた?」と思うくらいに変わっていた。
 変わっただけではない――つまらなくなった。『赤ひげ』まで重厚さとエンターテインメントが見事に合わさった傑作だらけだったのに、『どですかでん』に入った瞬間、もはや違う人の作品じゃないかというくらいに陳腐でチープでまとまりのない駄作映画になっていた。
 こういった感慨はある程度黒澤明作品に触れている人ならわかると思う。『赤ひげ』から『どですかでん』の間に黒澤明はもう別の人間になってしまっていた。それこそ別の誰かに入れ替わったんじゃないかと思うくらいに。

 『天才 勝新太郎』という本の中に、映画『影武者』降板の顛末が描かれていた。
 『影武者』はもともと勝新太郎主演と発表されていた作品だった。ところが撮影に入って間もなく、監督と主演の間に何かしらの諍いが起き、勝新太郎は降りてしまった……。
 この時なにがあったのか? 関係者もあまり深く掘り下げなかったので、「謎の事件」とされていた。  『天才 勝新太郎』という本の中でその顛末が描かれていた。

 かいつまんで話すとこうだ。

 勝新太郎は、撮影中ホームビデオを回していた。ホームビデオで撮影するのは勝新太郎のその当時の趣味で、撮影の現場やカメラが回っていないときの役者の顔をひたすら撮っていた。当時は「メイキング映像」といったものも少なかったから、舞台裏の風景は一般的には見られないものだったし、勝新太郎もそういった風景を残すこと自体を面白がっていた。だから『影武者』の現場でもホームビデオを回し、黒澤明の様子を撮っていた。
 すると、
「やめてください。僕はビデオカメラは嫌いです。僕の現場に持ち込まないでくれませんか?」
 と突然に怒り出す。
 しかし現場にはNHKのビデオも回っている。なぜ勝新太郎のビデオは駄目なのかわからない。これを切っ掛けに言い争いになり、勝新太郎は衣装を脱いでキャンピングカーに戻ってしまう。
 その後、黒澤明がすぐにやってきて
「降りてもらいます!」
「なんだと!」

 これでエピソードは終わりだった。
 あれ? もっとなにかあるんじゃ? ……でもこれだけで主演交代だった。
 ここに至るまでに確かにいろいろあったのだけど……黒澤明の能力を不審に思う場面があったのだけど、直接的な言い争いはこれだけ。しかも撮影を巡る話でもなく、創作に関する話ではなく、それとはまったく関係ない口喧嘩で降ろされたのだった。
 あの喧嘩の直後、勝新太郎も「明日になったら元通りになるだろう」と軽く考えていたようだ。なにしろ、本当にしょーもない口喧嘩。勝新太郎の演技(能力)に問題があるわけじゃない。けれど、黒澤明は即座にやってきて「降りてもらいます!」と。勝新太郎もその瞬間、やる気をなくした。
 『影武者』主演交代劇にどんなお話があったのだろうか……と長年思っていたが、まさかこんなしょーもない話だったとは……。

 『黒澤明VSハリウッド 『トラトラトラ!』その謎のすべて』という本がある。この本を読むと黒澤明の狂気ぶりが見えてくる。
 まず主演に演技経験のない素人を使い、その主演が撮影現場に入ってくるたびにラッパを吹き、全員で整列して敬礼をする。演技経験のない素人を起用するわけだから、こうやって気分を盛り上げさせよう……という狙いだった。しかしこれを毎回やるのだから、スタッフも共演者もうんざり。
 さらに黒澤明は日米合作映画を制作している最中で「こんな映画を作っていると、誰かから狙われるかも知れない」と思い込むようになり、撮影中ヘルメット着用、スタッフにもヘルメットを勧めた。その上で撮影所のセキュリティについて不安を持つようになり、夜中に忍び込んで窓をたたき割り、「セキュリティがなってない!」とクレームをつけ始める。
 撮影中でも突如、白い壁が気に入らないと言い始め、「壁を一度黒く塗って、その上から白を塗れ」と指示をしはじめる。確かにそうすれば壁に厚みが出るが、しかし撮影上は白い壁は白にしか映らない。まったく意味がない、というか意味不明な指示ばかりで、スタッフもウンザリし始める。実際、撮影進行が不能になるくらい、スタッフと対立するようになってしまっていた。
 そんな意味不明な指示をやりまくっているうちにスケジュールはどんどん遅れ、制作費は無駄に膨れ上がって……その結果、黒澤明は降板された(確かそこそこに日数をかけて数カットしか撮らなかったんじゃないかな)。ハリウッドのプロデューサーも巨匠・黒澤明に幻滅していた。

 『トラトラトラ!』の撮影裏話を読んでいて感じたのは、黒澤明の狂気ぶり。どんなに公平な目で見ても、あれは狂っているとしかいいようがない。黒澤明はどこかの段階で、はっきりとおかしくなっていた。
 でも世間的評価は相変わらず「巨匠」のまま。「巨匠」「天皇」としての地位がどんどん上がる一方で、作品はつまらなくなっていった。つまらなくなっていっているのに、「巨匠」の冠がついているから、作品がつまらなくなっていっていることに誰も気がつかない。つまんない映画を撮っているのに、「さすが巨匠だ!」とみんなもてはやす。すると黒澤明もどんどんおかしくなっていっていく。世間全体が「教祖」と「信者」の関係になっていた。

 勝新太郎は『影武者』の試写を見て「つまんない映画」とバッサリ。あの口喧嘩があったからそう言ったのではなく、公正な目で見てもつまんなかったからそう判断しただけだった。

 『影武者』の撮影現場でも、黒澤明はおかしくなったまんまだったんだな……。と『天才 勝新太郎』という本を読んで感じたことだった。その後もずっと正気に戻らず、訳のわからない状態になったまま、訳のわからない映画を作り続け、晩年はいまいちな映画監督で終わってしまった。  あの時代に、ちゃんとした精神医療があればよかったのに……。しかし不幸なことは黒澤明に「巨匠」という冠がついてしまっていた。だから病気であることを公表できなかった。黒澤明は「癲癇」だったわけだけど、それすら「巨匠」の冠に傷がついちゃうから、関係者がひた隠しにしていた。もはや巨匠故の不幸だったのかも知れない……。


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