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2020年4月10日 抽象度と解像度の関係

 前回、『とらつぐみとかいうクソ絵師の絵を見ながらあれこれ言う』を書き終えてからしばらくたち、あれをヒントにちょっと思いついたことがあったので、メモ程度に書き残しておくことにする。
 あくまでもメモなので、テキトーなものです。大したことは書きません。今回の話で何か体系化しようというつもりもありません。書きっ放しで、すぐに忘れるつもりです。

抽象度と解像度の関係 テンプレート

 上のグラフの見方。
 [抽象度低→抽象度高]
 抽象度の高い状態が漫画絵。抽象度の低い状態が実写画像。グラフの上へ行くほど描写が戯画化、カリカチュア、漫画になっていき、下へ向かうほどリアルに、写実的になっていく傾向を示している。

 [解像度低→解像度高]
 文字通りの解像度を示している。左へ行くほどファミコン時代のようなドット絵になっていき、右へ向かうほどに高精細な、最近のゲームのような絵になっていく……という傾向を示している。
 漫画やアニメで考える場合、キャラクター、背景の線の多さを現す。例えば線がめちゃくちゃ多いけど、キャラクターは目の大きな美少女キャラ……というのは「解像度高め」の「抽象度高め」の絵ということになる。

 突然の思い付きで、別に何か体系立てした何かを示す気はまったくないし、この図を取り上げるのは今回だけになりそうだけど、何となく思いついたのでメモっぽく書きますね。

 こういうのを考えた切っ掛けは『ファイナルファンタジー7 リメイク』の映像を見ていたから。あのゲーム、私はまだ購入しておらず映像を見ているだけの立場だけど、様変わりした様子に随分驚いている。
 どうして『ファイナルファンタジー7 リメイク』があそこまで豪奢に、エピソードをもりもり盛り上げて作り替えられたかというと、1997年当時と解像度。抽象度の基準が変わってしまったから。現在では世界観の描き方ももっと詳細に奥深く描けるようになったし、人物も奥深く描けるようになった。1997年当時ならあの『ファイナルファンタジー7』の描き方は間違いなく「正解」なのだけど、現代の水準では絶対「不正解」。現代の技術ではもっともっと高精細に、なにもかもが描けるのに、それぞれの描写が当時のままだとむしろ違和感になってしまう。いやショボさとして目立ってしまう。1997年の時代は抽象度がまだまだ高かった時代だから、ゲームの中に描かれていない部分についてはユーザーが想像で補う、キャラクターの描き方も「人形劇」的なところがあって、ちょっとしたニュアンスで感情やメッセージを伝えるような作り方になっていた。
 でも現代のようなリアルな頭身を持ったキャラクターで同じことをやってしまったら違和感だらけだ。だから抽象度が低く、解像度が高くなった映像に合わせて、あらゆるものを克明に描かなければならなくなる。エピソードをどんどん盛って、キャラクターの描写は細かく、表情の動きやセリフのタイミングも細かく演出で決めて、ドラマの流れもきっちり作って映画的に劇的に作っていかないと、釣り合いが取れなくなる。だから『リメイク』はあんなふうに途方もないスケールになってしまう。

 『ファイナルファンタジー7』に限らず、リメイクゲームを制作するというのはちょっと難しいところがある。というのも、単純に映像の解像度を上げると良くなるかというと、そうならない場合が結構ある。むしろ「粗」となって悪目立ちしてしまう。当時は解像度が低かったから気にならかったというか、解像度が低かったからこそ想像でいろんなものがイメージできたのだけれど、解像度を上げるとむしろショボく見えるというか……。
 ゲームの難しいところは、新しいゲームハードが出てしまうと、その以前のゲームや映像が途端に過去のものに感じられてしまうことだ。ゲームユーザーの欲求としては、新しいゲームハードが出ると、そのハードに対応した新しいバージョンが遊びたいと思うもの。しかし、そこで旧ハードと同じものが出ても思ったほど面白くない。「これだけ?」「こんなもの?」と物足りなさとなって浮かび上がってくる。新しいゲームハードでリメイクを出す場合、そのままではなく、何かしらで膨らまさなければならない。その膨らまさなければならないものとは何か……? を考えるのが難しい。

 さて、『ファイナルファンタジー7 リメイク』は抽象度をとことん低く、解像度を徹底的に上げるというやり方でリメイクをしてみせたのだが、まったく違うアプローチをしたゲームがある。それが『ゼルダの伝説 夢を見る島』だ。
 このゲームのオリジナルであるゲームボーイ版『夢を見る島』は私はプレイしていないのだけど、最新switch版『夢を見る島』は旧バージョンとあまり変わっていないという話を聞いた。いやいや、変わったところは一杯ある。ボタン配置が見直されたし、ミニゲームも見直されたし、各ダンジョンの構成も変わっているし、小さな変更箇所は一杯ある。
 いやいや、そういう話ではなく、現代の映像に向けて、ドラマの作りが刷新されたかどうか。各キャラクターの描写がより細かく、奥深くなったとか、新しいエピソードが盛り込まれたとか……。ゲームボーイ版とは違うエンディングが描かれたとか。switch版に向けた「変更箇所」をまとめたサイトなんか読んでみたけど、そういうところでの新要素、追加要素はどうやらないようだ。(もしもあったらゴメンね。知らなかったんだ)
 ということは『ゼルダの伝説 夢を見る島』は解像度は上がったが、抽象度はその場所から一切動かさなかった。抽象度を動かさないでもリメイクができる、というもしかしたらお手本かも知れない(元のゲームの出来が良かった……ということかも知れないが)。

 ゲームのシナリオには2種類の作法がある。それは「主人公が喋る」ゲームと、「主人公が喋らない」ゲームだ。私は長らく、「どっちが正解かはない」と考えていた。主人公が喋るゲームも正解だし、喋らないゲームも正解。要はその作品のコンセプトと合致しているかどうか。作り手がその作品で何をしたいかで決める。
 と、思っていたのだが、最近はだいぶ考えが変わってきた。
 というのも、「こんなに色々作り込んでいるのに、主人公だけ喋らないのは変じゃない?」と感じることが増えてきた。
 最近のゲームは世界観がしっかり作り込まれていて、キャラクターも奥深く描かれ、ドラマシーンではカメラワークががちがちに入りキャラクターたちが立体的な演技をしながら、フルボイスで喋る。その中に、喋らないやつが一人だけいる――主人公だ。
 これ、なんか違和感ない? 違和感だと感じるのは私だけ?
 これも抽象度と解像度の関係が変わってきたから浮き上がってきた違和感だ。昔のゲームではこんな違和感、感じることはなかった。「これは、そういうもの」という約束事で見ることができた。でも現代は世界観、ドラマがしっかり作り込まれている。その中でまったく喋らない奴がいる……。何か奇妙な気がする。
 しかもまったく喋らないのに関わらず、なぜか登場するキャラクターたちはみんな主人公に対して謎の信頼を置くようになる。ストーリー中・ゲーム中、特に目立ったコミュニケーションを取る場面もなかったはずなのに、なぜ信頼されるようになっていったのか、が見えてこない。
 この辺りも昔は解像度が低かったから気にならなかった部分だが、最近のゲームになって違和感となって目立ってきたところだ。
 ゲームの話題ばかりをしてきたけれども、ゲームはテクノロジーの産物だから、こういう話題をしやすい。というのもアニメだと、ある一定以上抽象度が低くなることはないからだ。例えばproductionIGが描くような『イノセンス』や『人狼』のような一見してリアルなスタイルで描かれたアニメーションがあるが、所詮はベースカラーと影色に塗り分けられた「アニメの絵」だ。質感の限界がそこで止まる。
 抽象度の限界がある段階で止まるのは決して悪いことではない。抽象度の限界が止まるからこそ、リアルで考えるとあり得ないようなウソをそこに込めることができる。ウソで絵を描くことができるからこそ、絵画的な美しさに全振りできる。リアルだとむしろ違和感となって立ち上がってくる場面も、抽象度がぎりぎり低いところに立っていられるからこそ成立するものもある。押井守監督はそこをよく心得たうえで作品を制作している。
 むしろ怖いのはゲームの方で、マシンスペックの限界が一つ上がることに、抽象度、解像度の限界値がそのぶん上がってしまう。するとゲームを作る側もこの新しい限界値を目指して創造をしなければならなくなる。それで素晴らしいものがきっと作られることもあるだろうと思うが、しかしどこかで「割に合わなくなる」瞬間が出てくるかもしれない。
 最近の話ではないが、ゲームは「シュールの谷」問題にぶち当たっている。一見して実写のようなリアルな世界観なのに、見えない壁を前にその場走りしたり、ちょっとした段差が登れなかったり、瀕死の状態なのにドリンク一杯で回復したり……。ゲーム的な仕組みとリアルな画との噛み合わせが取れていない現象が起きている。リアルになればなるほど、シュールになっていく。こういうのも抽象度が高かった頃には感じなかった問題だ(ゲームの抽象度と映像の抽象度が合っていないとこうなる)。

 ゲームの抽象度、解像度の限界値の話をもう少し掘り下げると、次なるゲーム機PS5とXbox Series Xは8K解像度となる。8K、120フレーム、レイトレーシングだ。といっても、8Kと120フレームはどうやら両立しないものらしく、実際は4K解像度の範囲であればフルパフォーマンスで映像が出せるようだ。
 まあとりあえずゲーム機が8K120フレームの時代に入ってしまう。一方、映画は最大でも4K24フレームだ。ゲームが映画の解像度を越えてしまう。これはどういった未来を生み出すのだろう……と恐ろしくもあり、楽しみに感じている部分でもある。「体験」という部分でもゲームが映画を越えてくると、ゲームの価値観が一つそこで変わるかもしれない。

 思い付きで始めた話もそろそろ終わりだ。
 最後に書き残しておきたいのは、抽象度が高く、解像度が低い創作が決して「低級」というわけではない。抽象度低め、解像度高めの創作が無条件に「高級」になるわけではない。例えば『アンダーテイル』は非常に解像度の低いゲームで、抽象度も高い。しかしストーリーは極上に素晴らしかった。『アンダーテイル』は何度も「そう来たか!」「やられた!」と思わせてくれるゲームだった。
 また技術の高い低いも、抽象度・解像度の問題と合致するものでもない。絵のめちゃくちゃうまい人が、ものすごいシンプルな線と色で見事なアニメーションを作ったりもする。この例として相応しい作品は高畑勲監督『かぐや姫の物語』だ。『かぐや姫の物語』は途方もない技術と労力で、あのなにもかもをそぎ落としたかのような画を生み出してみせた。あれは誰にも真似できない作品だ。
 ということは、線がやたら一杯描いて解像度高めに見えるけど、技術としては低い、何も伝わってこない絵というものも一方で存在する。まあ、頑張ったんだね……って感じの絵。
 結局は作り手がどの地点を目指して作品を作るか。ただひたすらに解像度の高いゲームを目指して作るだけが答えではない。それは「愚直」というものだ。むしろ抽象度を上げて、解像度を抑えた中でこそ実現するドラマというものも絶対にある。抽象度を上げた画の中でリッチさを目指すという方向性もあるだろう。そうした目指すビジョンがきちんと見えていないと、作品は駄目になる。抽象度と解像度の問題は、作り手が目指しているものが見えているかどうか、の話だ。

抽象度と解像度の関係

 とりあえず思いつくタイトルをバーッと上げて配置してみたけれども……。たくさん書いていれば相対化できるかなとか思ったが……。
 後で思ったが「レベル」を定義すべきだったな……。「レベル1の解像度はこれくらい」と。画面の密度やポリゴン数を掛け合わせて、レベル1の解像度はこれくらい、レベル2ならこれくらい……と。多分、そういうカッチリした定義付けは可能だ。
 一方の抽象度は何を根拠に設定すべきだろう? 『けいおん!』は抽象度の高い作品だが、ただ一つ、演奏シーンの異様なディテールで抽象度を下げてしまっている。『響けユーフォニアム』は『けいおん!』と同じスタッフだが物語の抽象度が下がり、画面の解像度も大きく上がっている。どちらかといえば『響けユーフォニアム』のほうがバランスが良い。『けいおん!』は演奏シーンだけ密度が上がってしまっている。こういうバランスを欠いた作品は、どこに位置づけするべきだろう?
 この辺りは私では無理だ。仕事が忙しくて、とてもじゃないが、時間を割くことができない。充分な資料を今すぐ用意できて、比較ができて、こういう作業を惜しまない暇人が後を引き継いでほしい。
 そういうわけで、あとヨロシク!

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