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何も言わなくていいよ

 ――昨日はちょっと言い過ぎたかもしれない。

 朝起きると彼女の姿がどこにもなかった。いつもなら「朝ごはんまだ?」と急かしてくるのに。まぁ、小さな子どもじゃないし、大丈夫だろう。

 夏の暑い日、自分しかいない部屋で、ぼんやりと考えていた。エアコンは付けていない。暑がりなお嬢様がいないから。元来、夏は暑いものなのだ。

 僕はあまり口数が多い方ではない。二人っきりなら普通に話せるけれど、三人以上になってしまうと、どうも言葉が出なくなる。たぶん会話の流れに飛び込むのが下手なのだ。相手と衝突事故を起こしたり、飛び込むところを間違えたりする。だからいつも、聞き役に回る。聞く方が得意だと言えば、聞こえはいいけれど。

 そんな思索にふけっていたら、じんわりと汗がにじんできた。暑い、だけど心地いい。自分にはこのくらいの温度がちょうどいい。でもあの子は違う。暑すぎればぐったりするし、寒すぎるのも苦手。心地よさにはうるさくて、自分好みの場所を目ざとく見つけては、我が物顔で陣取る。わがままな奴。

 ふと、コミュニケーションの”心地よさ”も、これに似ているなと思った。互いの意見をぶつけ合うとか、わずかな差異をごまかさずに、白黒つける。意思疎通はそういうもので、それが”心地いい”と感じる人もいる。あるいは沈黙が耐えられないのか、当たり障りのない話題を延々と続ける人も。

 質問が好きな人もいる。確かに相手に興味を持ち、質問するのは大切だ。コミュニケーションの基本。自分ばかり話していたら、嫌がられてしまう。でも、あんまり質問ばかりされても、面接か職務質問みたいで嫌だと思う。質問はときに、土足で踏み入るのと同義なのだから。

 僕の場合は、静かなのが好きだ。一言、二言しゃべったら、あとはもう、何も言わなくていい。たまに相手を視界に入れられたら、充分だと感じる。相手に触れるのも好きだ。身体の流れにそって、ゆっくりと指先を動かす。柔らかいところ、硬いところ、尖ったところ、湿ったところ。まんべんなく触れていく。僕にとってはこれが、心地いいコミュニケーション。

 あの子も僕に触れられると、まんざらでもない顔で、声をあげたりする。自分からおねだりすることも少なくない。かわいい奴だ。そうかと思えば、急に怒り出して、噛みつかれることもあるのだけど。

 夕方になっても帰ってこない。さすがに少し心配になってきた。そろそろ探しに行こうかと、玄関まで行くと――

 ”カシャ”

 何かを踏んだ。落ち葉のような乾いた音、でもそれにしては厚みがある。すじが多くて水分もあるのを、足裏で感じてしまった。セミの死骸だった。

「いま帰ったわ」

 下駄箱の上で、お嬢様が鳴いた。

 どこに行ってたんだ、でも無事でよかった。お腹が減っただろう、セミはお土産かな、それとも仕返しかな。いろんな気持ちが沸き起こったけれど。

「――おかえり」

 そう言って部屋に戻る。クーラーを全開にして、ご飯の用意をしないと。今日は缶詰を開けようか。いやその前に、足を洗いたい。風呂場へ向かう。

 お嬢様が足に頭突きをしてくる。わかってる。僕が悪かった。ごめんな。


撮影ワールド:夏空プロムナード -Summer Sky Promenade-
/だにゃえる さん

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