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大根と哲学

この記事にはセンシティブな表現が含まれています。ご注意ください。

 僕は大根が好きです。サラダにみそ汁、煮物におでん。薬味にもなるし、ステーキにすればメインディッシュへと早変わり。葉っぱから先っぽまで、余すところなく使えますから、買うときはいつでも丸々一本。買い物袋からはみ出したまま家路につきます。

 そんな万能野菜の大根ですが、いくら好きでも自分で育てているわけではありません。もちろん、その造形に惚れこんで部屋に飾ることもなければ、ダイコンの研究だってしていません。僕はただ、「大根を食べるのが好き」というだけ。大根料理に興味はありますが、誰かに作ってもらえるのなら。そっちの方が断然いいと思っています。

 同じように、哲学が好きとは言っても、色んな好きがあることでしょう。哲学書を読むのが好き、哲学の歴史が好き、哲学者本人が好き。〇〇主義について議論を交わすのが好きとか。哲学好きのなかには、聞き馴染みのない専門用語を並べて、わざわざ小難しく語るのが好きな人だっていますから。どんなカタチの好きであったとしても、それは個人の自由でしょう。

 ところで、大根を切ると稀に、黒い筋や点々が出てくることがあります。これはダイコンバーティシリウム黒点病という病気で、口にしても健康上の問題はないものの、食感や味は落ちてしまうそうです。

 もし大根を栽培していたら。こういう病気についても、詳しく知りたいと考えるでしょう。でも一般消費者なら、食べられるかどうかと、見分け方がわかれば充分で。聞き慣れない病名なんて、きっと「どうでもいい」はず。

 相手の立場や状況、会話の流れによって「必要な情報を、必要な分だけ」提供すること。快適なコミュニケーションには、これが大切だと思います。情報量が多すぎれば、相手は受け止めきれないし、少なくても物足りない。脈絡なく、的外れな話をしても、相手を困惑させてしまうだけですよね。

 「自分の話を聞いてほしい」という欲求は、おそらく誰もが持っていて。そしてそれは、話を聞いてくれる相手だって同じはず。だから、自分ばかり話すのではなく、ときどき相手に質問を投げかけては、「お互いに」欲求を満たせるようにする。それが理想的なコミュニケーションだと思うのです。

 お互いに心地よくなれるコミュニケーションは、セックスと似ています。気持ちが通じ合えば、肉体だけでなく、心まで満たされる素晴らしいもの。逆に言うと、独りよがりな自分語りは、ただの「自慰行為」に過ぎません。しかも、自己完結できずに、あえて衆人環視のなか行われるわけですから、見せつけられる方はいい迷惑。そんなものは拒絶されても仕方ない。

 そういう意味では、この記事だって独りよがりの自慰行為みたいなもの。誰かの役に立ちたいというよりは、何を考えているかを開示しているだけ。ただ同時に、物事をよく考えたり、文章にしたりするプロセスとは、元来、孤独なものだと思うのです。

 哲学とは、物事を深く考えることや、その本質を見極めようとすること。きっかけとなる出来事は、「他者との関わり」の中で得られるものですが、それを突き詰めて、深めていくのは、「自分自身の内側」での話ですよね。

 それはまるで光を浴びて深く根をおろす、大根のようにも思えるのです。


撮影ワールド:Japan Street 0․346 /NEET ENGINEER さん

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