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これを恋と呼ぶのだろう⑦

 「もう朝!起きなさい!!!」

 母親の怒鳴り声のせいで、気分は最悪だ。もう少し優しい起こし方はできないものか。それでなくとも、気が重いというのに――。

 私の心配事は、志望校に入ることができるかどうかでも、模試でいい結果を残すことができるかどうかでも、今日の授業をきちんと理解できるかどうかでもなかった。何を悩んでいるのかと言えば、ずばり人間関係だ。昨日友達になった――いや、友達と認めてもらえているのかも怪しいが――彼女達とどう接すれば正解なのか、そればかりが頭の中をぐるぐる回っていた。朝ごはんを食べているときも、着替えているときも、家を出て予備校に向かって歩いているときも、絶えず彼女達と遭遇したときのシミュレーションを頭の中で行い、何が最善の策なのか、何度も何度も自分に問いかけた。

 今日はいつもよりも遅く起きたせいで、予備校に着くもの遅くなってしまった。教室に入ると、席はほとんど埋まった状態で、私が席を選ぶ余地はほとんどない。どこか空いている席はないかと教室を見渡してみると、窓際の前から5番目の席に空白があった。誰かに取られてしまう前に早く座らなければならないと思い、急いでその席についた。先生と適度な距離を取れる絶妙なポジションの席を確保できて、私は完全に浮かれていた。今まで抱えていた不安が嘘のように頭から飛んで行き、彼女たちのことはすっかり忘れていた。

 だが、それも束の間のことで、私はすぐに現実に引き戻されることとなった。今日は他クラスとの合同の特別補講ということもあり、いつもより席に余裕がない。私は隣の人との間隔が少し気になり、ちらりと横を見た。その瞬間のことだった。幸か不幸か、私は隣の隣の席に陽菜ちゃんがいることに気づいてしまった。

 仲良くなりたいのならば、ここで挨拶をしておく必要があるが、隣の見ず知らずの人を挟んで、彼女に声を掛ける勇気がなかなか湧いてこない。その上、彼女がこちらを向く気配もまるでない。声が届かず、挨拶が返って来なかったら、恥ずかしいにもほどがある。そもそも、彼女は私に声を掛けられて嬉しいと思うのだろうか。「ぼっちだったくせに、人気者の私に声を掛けてくるなんて、調子に乗りすぎ」と思われてしまったらと考え出したら、声を掛けていいものなのかも、よくわからなくなってきた。

 ―キーンコーンカーンコーン―

 結局、彼女に声を掛けられないまま、授業開始の合図が鳴ってしまった。幸いにも、彼女はきっとまだ私に気づいていない。とりあえず、今は授業に集中しなければ――。

 私は現実逃避の手段として、授業を利用した。彼女への不安を閉じ込めるために、先生の話を無理矢理頭の中に詰め込んだ。だが、彼女は私の予想をはるかに上回る存在感を放っていた。全神経を研ぎ澄ませて授業に集中しようと試みたが、彼女がすぐそばにいるこの状況で、そんなことができるはずもない。視界に入るか入らないかの彼女の存在は、時間が経過するにつれ、無視できないものとなっていた。

 「”It's no use expecting her to help you.” この英文を日本語に訳したいわけなんですけれども――」

 授業時間も残りわずかとなった頃、なぜか急に先生の言葉がスッと耳に入って来た。

 「まず、”It's no use doing"は、『なになにをしても無駄』と言う意味になります。そして、”expect A to do”で、『Aがなになにすることを期待する』と言う意味になります。そうするとこの英文の日本語訳は――」

 「彼女が助けてくれると期待しても無駄」

 私は先生が答えを言うのと同時に、音として認識できるかできないかくらいの微かな声で呟いた。口にした言葉は、まるで自分に向けられた言葉のように感じた。

 思い返せば、彼女と関わるときにはいつも、私は受け身だった。彼女がトイレで初めて声を掛けてくれたときも、一緒にお弁当を食べようと誘ってくれたときも、そして今も――。いつも、彼女が声を掛けてくれるのを期待して待っているだけだった。いつも私は彼女に甘えてばかりで、自分から手を差し伸べようとしたことはあっただろうか。人間関係というものは、ギブアンドテイクの関係で成り立つものだ。いつまでも私がこの状態であれば、彼女に見捨てられても仕方がないだろう。今こそ勇気を持って彼女に声を掛けるしかない――。

 ―キーンコーンカーンコーン―

 私が決心したのと同時に、授業終わりの合図が鳴り響いた。それは、まるで試合開始の合図のような緊張感を持っていた。彼女の方をチラリと見たが、未だ彼女は私に気づいていないようだ。気づかれない程度に軽く咳払いをして、声を出す準備を整えた。

 「あっ、陽菜ちゃん!おはよう」

 緊張のあまり、控えめな声しか出なかったが、できる限りの明るい声を出して挨拶をした。

 「あ―っ!いわちゃん、こんな近くにいたの!?全然気づかなかった!もっと早く気づけばよかったー!あ、おはよう」

 「うん、おはよう。私も授業中に気づいてさ、びっくりした」

 彼女が、こんなにも心の浮き立つ反応をしてくれるとは思ってもみなかった。彼女に受け入れてもらえた安堵の気持ちとともに、自然と笑みがこぼれて止まらなくなった。少しの勇気を持つだけで、世界がこんなにもガラリと変わるなんて知らなかった。今まで悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。世界は、私が思っているよりも、私に対して優しいのかもしれない――。

 今日は午前中で授業が終わったせいもあってか、予備校での時間はあっという間に過ぎ去った。相変わらずぎこちなさの残る会話だったが、昨日よりも彼女と多くの話をすることができた。わずかだが、彼女の距離が縮まった気がして、心の奥がじわっと温かくなった。舞ちゃんと美波ちゃんには悪いが、何よりも一番嬉しかったのは、陽菜ちゃんと二人きりで話すことができたということだ。雛鳥が一番最初に見たものを親だと認識するのと同じなのだろうか。私は、舞ちゃんや美波ちゃんを差し置いて、陽菜ちゃんと一番に仲良くなりたいと思った。彼女のことだけを、もっと知りたいと思った。

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