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見えないが見える

 きらびやかで幻想的な世界が、私の目の前に広がる。だが、どうやらこの景色は他の人たちには見えていないらしい。同じ空間にいるというのに、この綺麗な世界を目にすることができないなんて、「少しかわいそうだ」とすら思えてくる。むしろ「かわいそう」なのは私のはずなのに――。

 

 私は、いつも眼鏡を掛けている。仕事のときも、遊ぶときも、家でスマホを見ているときも、お風呂に入るときでさえ、ずっと掛けっぱなしだ。「家にいるときくらい外せばいいのに」と自分でも思うくらいだが、いかんせん見えないのだ。眼鏡なしでは生活できないほどに、私の視力は下がってしまった。

 振り返ってみると、私は中学校に入ったあたりから、急激に目が悪くなった。それまでの私は、視力検査の度に「やった!またAだった!」なんて浮かれながら、自慢して回っていた。自分の視力は下がらないと信じて疑わなかったのだ。自分が眼鏡を掛けることになろうとは想像もしていなかった。なのに、今はこんなありさまだ。なんとも無様なものだ。

 今ではすっかり、眼鏡なしで物がはっきりと見えるという世界がどんなものであったか、きれいさっぱり忘れてしまって、思い出せずにいる。物がぼやけて見える世界にすっかり慣れてしまったが、今でもはっきりと見えないことに苛立つ瞬間もまだまだ多い。

 できることなら、視力だけ子どもの頃に戻りたいが、目が悪いからこそ出会うことのできた感動もあった。


 ある日、車に乗って夜の街を走った。「走った」と言っても、私はただ助手席に座っていただけだったのだが......。その日は、目に疲労感が溜まっていたため、眼鏡を外そうと思った。周りが見えなくとも、車と運転手が勝手に運んでくれるのだから、気楽なものだ。

 疲れた目をギュッと瞑りながら、眼鏡を外した。疲労感にうんざりして、頭を抱えた。目を酷使したがために、日に日に視力が落ちてきている気がする。そんな焦りを胸に抱えながら、ゆっくりと目を開いた。

 すると、そこには目を奪われるような幻想的な光景が広がっていた。何の変哲もないつまらない街並みが、キラキラと輝いて見えたのだ。一瞬、夜景の綺麗な街へと飛ばされたのかと思った。しかし、再び眼鏡を掛けてみると、そこには確かに、私の知っている平凡な街並みが広がっていた。この差が信じられず、もう一度眼鏡を外してみると、やはりキラキラ輝いている。

 この現象の正体は、私の低すぎる視力にあった。信号機や街灯、店の明かりがぼやけてイルミネーションのように見えたのだ。外気は暑いというのに、クリスマスシーズンにタイムワープしたような感覚に陥った。平凡すぎる光景に対して、まさか感動して目を奪われるとは思いもしなかった。なんとも不思議な気分だ。

 だが、私がいるこの空間の中で、この幻想的な景色を見ているのは、私だけだろう。みんなは世界がはっきりと見えているだろうから。この美しい世界を見ることできないというのが、なんだか気の毒な気がして、「わあ、き綺麗」と口に出した。そして、自分がどんな景色を見ているのかを伝えた。

 しかし、返ってきたのは、無関心で冷めた言葉ばかりだった。心の底から失望したが、見えないものには興味がないのだろう。生き物とはきっとそういうものなのだと思う。

 これは、ハリーポッターがマグルの前で魔法が使えることを隠しているのと同じように、人には隠しておくべきことだったのかもしれない。これは眼鏡を外したときだけ現れる、魔法の景色だ。だから、いくら「普通」の人間に主張したところで、理解などしてもらえないだろう。

 私は、自分の視力と引き換えに、魔法の世界に立ち入ることができるようになった。それは、心が震える貴重な体験だ。視力が低いのも、けして悪いことばかりではないのかもしれないと、少しだけ思った。

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