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これを恋と呼ぶのだろう⑥

 彼女を待たせてはならない――。これといって彼女が「急げ」という圧力をかけてきたわけでもないが、早く支度をしなければ見放されるのではないかという恐怖で頭の中が支配されていた。私は空回りする手を忙しなく動かして、食べかけのお弁当をバッグの中へと強引に押し込んだ。

 「大丈夫?」

 「うん。ごめん待たせちゃって・・・」

 「大丈夫。行こう!」

 私は彼女の背中を追って、自分の席を後にした。急いで片づけたお弁当箱は、ぐしゃぐしゃになった風呂敷とともに、だらしなくバッグからはみ出ている。なんだか自分を見ているような気分で、目を背けたくなった。そんな自分がこれから新しい世界へ飛び込むのだと考えると気が重かったが、彼女が一緒にいてくれるなら、大丈夫かもしれないとも思っていた。前を歩く彼女の背中は、決して大きなものではなかったが、遭難した山の中で突如として現れたレスキュー隊のような、そんな頼もしさを感じた。彼女といるだけで、なんだか救われた気がした。

 「ごめん、お待たせー!」

 「全然平気!」

 「大丈夫だよー」

 少し大きめの声でそう言った彼女は、手を振りながら満面の笑みを浮かべていた。どうやら目的地に着いたようだ。彼女の視線の先には、ぱっちりとした目を大きく見開きながらチラチラと私を見る女の子と、仏のように優しい目をして微笑んでいる女の子が手を振っていた。対照的な二人であるが、どちらも私に敵意は持っていないように感じた。悪い人たちではなさそうで嬉しかったが、だからこそ私も、「悪い印象を与えないように気をつけなければならない」と体が強張ってしまった。

 「か・・・こんにちは・・・」

 肩に力が入りすぎて、初っ端から噛んでしまった。そんな間違え方があるのかと、自分でもわけがわからなかったが、どうやら焦りと緊張が先行すると、口の開き方もわからなくなってしまうらしい。第一印象が大切だというのに、またしても失敗してしまった自分に嫌気が差した。

 「こんにちは」

 二人が声をそろえて挨拶を返してくれた。顔から火が出そうだった私は、二人の顔をまともに見ることができずに、床とにらめっこしていたが、二人の挨拶のおかげで我に返ることができた。恐る恐る二人の顔を見てみたが、二人とも優しく微笑んでいる。少しくらい嫌悪の目や軽蔑の目を向けられてもおかしくはないと思ったが、そんな様子は一切見られない。会っていきなり醜態をさらしてしまったどうしようもない私に対して、一切嫌な顔をせず相手をしてくれたことに、深い感謝の気持ちと申し訳ない気持ちが雪崩を起こし、自分を殴りたい衝動に駆られた。

 「この子、岩岡さん。私と同じ高校だったんだ」

 再び自分の世界に入り込んで周りが見えなくなってしまった私を、元の世界に連れ戻してくれたのは、私をこの場所へ連れて来てくれた彼女の声だった。

 「岩岡玲です。よろしくお願いします」

 「よろしくお願いします」

 今度は、最初から最後まで噛まないで挨拶ができた。リベンジの機会を与えてくれた彼女に感謝しなければならない。

 「私、花岡美波です。よろしくお願いします!」

 「よろしくお願いします」

 「長門舞です。よろしくお願いします」

 「よろしくお願いします」

 私の後に続くように、彼女の友達二人も自己紹介をしてきた。友達二人の名前を知ることはできたが、肝心の彼女の名前を私はまだ知らない。私が一番知りたかったのは彼女の名前だ。だが、自己紹介の波はそこで途切れ、沈黙が流れた。彼女はもう、自己紹介したつもりでいるのだろうか。それとも、もうすでに私が名前を知っているものだと思っているのだろうか。だが、私は彼女の名前を知らない。それが事実だ。どうしても彼女の名前を知りたかったが、彼女が私の名前を知ってくれている以上、私が彼女の名前を知らないというのは失礼なのではないかと思い、自分から名前を聞きに行くことができなかった。

 「そういえば、私自己紹介してなかった!関戸陽菜です。よろしくね!」

 「よ、よろしく!」

 私が彼女の名前を聞くべきか、聞かないでいるべきかを葛藤していると、彼女がヘラヘラした口調で自己紹介をしてきた。どうやら、全く心配をする必要はなかったようだ。取り越し苦労ばかりで嫌になったが、自分の抱いていた不安が現実にならなくてよかったと、ほっとした。

 「どこに座る?」

 「どうしよ・・・」

 「それじゃあ、私はここ!」

 迷っていた私に、関戸さんがまたしても助け舟を出してくれた。私は助けられてばかりだ。申し訳ない気持ちが塊となって、喉の奥に詰まっているような感じがした。

 「ここでいいや」

 「私はこっちで!」

 「じゃあ、ここで・・・」

 関戸さんに続くように、それぞれが自分に一番近い席を選び、ゆっくりと腰かけた。ようやく落ち着くことができると思ったが、急に自分のお弁当のことを思い出した。ここで堂々とお弁当箱を開け、いきなり食べかけのお弁当が現れたら、皆どう思うだろうか。頭のおかしな人だと思われるだろうか。それとも食欲を我慢できなかった食いしん坊だと思われるだろうか――。いずれにせよ、そんな印象を与えるのは嫌だ。どうにかして、自分のお弁当から皆の視線を逸らしたかった。

 ――よし!今だ!!!

 皆が各々のお弁当を取り出して、自分のお弁当に夢中になっている。私は皆の視線が逸れているうちに、模試でも経験したことのないような、とてつもない集中力を発揮し、素早くお弁当を広げた。そして、こちらに視線が向いていないか、再度確認した。誰にも気づかれていないようで安心した。

 誰が言ったのか認識できなかったが、誰かの小さな「いただきます」の声が聞こえ、それを合図に皆も同じように小さな「いただきます」を言い、それぞれお弁当を食べ始めた。安心したのも束の間、心配な出来事というのは次から次へとやって来る。次の心配事は何かというと、沈黙だ。口に物を入れているのだから、話さない時間ができても不自然なことではないはずだが、私はこの沈黙の時間が気まずくて仕方がなかった。何か話さなければならない。でも、何を話したらいいのだろうか――。

 「ねえ、岩岡さんのことなんて呼べばいい?」

 沈黙を破ったのは、関戸さんだった。

 「なんでもいいよ。苗字でも名前でも、好きなように呼んでもらって大丈夫」

 「そういえば、高校時代『いわちゃん』って呼ばれてなかった?」

 「うん、そうだけど、なんで知ってるの?面識なかったのに」

 「吹部の子たちから聞いたから」

 「あー、そうなんだ」

 「じゃあ、『いわちゃん』って呼んでいい?」

 「うん、いいよ」

 「いわちゃん」「いわちゃん」「いわちゃん」

 初対面のはずの皆が、私にことをあだ名で呼んでくれている。ちょっと照れくさかったが、皆の仲間になれた気がして、抑えが効かないくらいに笑みがこぼれてきた。

 「みんなは何かあだ名とかあるの?なんて呼んだらいい?」

 「うーん、みんな普通に名前で呼んでるよね?」

 「うん、そうだね」

 「じゃあ、私も名前で呼んでいい?」

 「いいよ」

 「陽菜ちゃん、美波ちゃん、舞ちゃん!」

 「うん!ふふふっ」

 私だけがあだ名なのは申し訳ない気がしたが、皆にあだ名を付けられるほどの勇気はなかった。空気を乱す発言をして浮くのは嫌だった。

 「私もいわちゃんと同じ高校だったんだよ」

 そう口にしたのは舞ちゃんだった。

 「うん、なんか見かけたことあるって思ってた」

 私の言葉に嘘はなかったが、どこで見かけたのかすらわからないくらい薄い記憶しかなかった。

 「何部だった?」

 「バスケ部だった。いわちゃんは空手部だったよね?」

 「うん、そうだよ。えー、舞ちゃんはバスケ部だったんだ」

 舞ちゃんがバスケ部と聞いて意外だと思った。バスケ部というのは、気が強く怖い人たちの集団という偏見を持っていたからだ。一方、舞ちゃんは穏やかで優しい雰囲気を纏っていて、私がバスケ部に抱いている悪いイメージからは大きくかけ離れている。それにしても、陽菜ちゃんも舞ちゃんも、なぜ私のことを知ってくれているのだろうか。私だけが二人のことを知らないということに、罪悪感を感じた。

 「美波ちゃんはどこの高校だったの?」

 同じ高校の話ばかりをしてしまい、美波ちゃんが話に入れないのは駄目だと思い、話題を美波ちゃんに振った。

 「山高だった!」

 「山高か……」

 「まあ、ここらへんだとなかなか聞かないよね……」

 「そうだね……」

 想定外の答えが返ってきたために、私はそれ以外の返しが思いつかなかった。山高と言われても、知り合いもいなければ、名前を聞いたこともない。もっと気の利いたことを言えればよかったのだが、考えても考えても言葉が出てこなかった。他の二人はすでに美波ちゃんの高校について聞いていたのだろう。特に何も口を挟んでこなかった。気まずい空気が流れてしまった。完全に私の失態だ。

 それからいくつか話題が変わっていったが、相変わらず気まずい空気が流れている気がする。この空気を打破するための話題についていろいろと考えてみたものの、また同じ失敗をしてしまうのではないかという恐怖で、結局何もできなかった。

 「それじゃあ」

 「うん、じゃあ」

 試練のようなお昼の時間が過ぎ、自分の席へと戻っていった。半分うわの空の状態で5限、6限を過ごし、気がつけばもう寝る時間になっていた。私は布団の中で、今日起きた出来事について思い返してみた。陽菜ちゃんも、舞ちゃんも、美波ちゃんも、皆、優しい人達だった。だが、私がいい空気を台無しにしてしまった。どう返せば正解だったのか、未だに答えを導き出せない。だが、あのとき会話が終わらないように別の話題をすぐに提供できれば、惨事は至らなかったのではないだろうか。そもそも、私は何も口を出さず、黙っていた方がよかったのかもしれない。明日からがまた不安だ。明日も皆は私と仲良くしてくれるのだろうか。もしチャンスを貰えるなら、再び失態を犯すことのないように、気をつけなければならない。皆ともっと仲良くなりたい――。


―続く―

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