【心を揺さぶる名言2】死んだ奴は負けだ(映画「麻雀放浪記」より)
阿佐田哲也さんの原作小説よりも先に、映画の「麻雀放浪記」を観た。
あれはいつのことだったろうか。
大学時代に麻雀に取りつかれていたころかしら。30年近く前。はっきりした記憶はない。
大学時代の自分は、麻雀雑誌に連載されていた西原理恵子さんの「まあじゃんほうろうき」の大ファンだった。西原さんは「この題名にしておけば、本物の麻雀放浪記だとだまされて読むかも」などと言っていたが、本家の麻雀放浪記にはないほどの破天荒ぶりがこちらにもあって、西原の世界が広がっていた。
まあ、それはまたの機会に。
西原さんきっかけで、阿佐田哲也さんの「麻雀放浪記」に触れた。
1部から4部まで出されている「麻雀放浪記」はこれ以上ないほどの名作だ。文章に「麻雀牌」が出てくるということが理由かなんかで、格が足りないとして直木賞を受賞できなかったとの逸話がある。麻雀小説という範疇に収まらず、はるか高い次元のエンターテインメント小説で、これほどの作品に巡り合ったことはいまだにない。
阿佐田哲也は麻雀小説を書くときにペンネームで、徹夜でマージャンをやったときに「朝だ、徹夜だ」から取ったと言われている。
後に本名の色川武大で書いた「離婚」で直木賞を取るが、これはいわゆる「芥川賞」的な作品ではないかと個人的には思っている。もちろん、「離婚」も名作なのだが、「麻雀放浪記」に賞を出せなかった当時の選考者たちの保守性を残念に思う。
さて、映画「麻雀放浪記」。
とんでもなく豪華なキャストで展開されている。
坊や哲に真田広之。ドサ健に鹿賀丈史。出目徳に高品格。加賀まりこ、大竹しのぶまで出演している。
※ここからネタバレになるので注意をしてください。
でも、分かんない人にはどうせ分かんないだろうから、細かい説明は省きます。
ドサ健が「死んだ奴は負けだ」とのセリフを語るシーンは、映画の最終盤。青天井ルールで、激烈な博打を打ち続けていく中で、出目徳が「うう、うう、窓、窓」とうめいて、バタンと頭をマージャン卓に伏せて息絶える。出目徳に駆け寄って、その様子を見る坊や哲、女衒の達。
ドサ健が、出目徳の手牌をサッと倒すと、サンピン待ちの九連宝燈ができ上っていた。
坊や哲が出目徳の右手から牌を取り、サンピンを卓に打ち付ける。九連宝燈を上がっている。
思わず女衒の達が「いい手を上がってるな」とポツリ。
すぐさま、ドサ健が「いや、死んだ奴は負けだ」と言って、死んだ出目徳の腹巻から金、指輪など金目のものをすべて卓に出し、「勝ちの割合で分けよう」と冷徹に言う。
「負けたやつは裸になるって決まってるんだ」と言って、身ぐるみはがして、裸の出目徳を自転車の霊きゅう車で、自宅の前に転がり落とす。
そこで、ドサ健「いい勝負だったなあ、おっさん。あんな博打は二度とできねえかもしれねえや。おっさんのこと、ずっと忘れねえよ」
女衒の達「あっしもおっさんのようなバイニンになって、おっさんのように死にますよ」
坊や哲は「おっさん」とだけ。
3人で帰っていく途中に、上州の虎と出会い、結局、出目徳がいなくなっただけで博打は続いていく。
この作品が描いている無常感が心の底から好きだ。
ばくち打ちはみんな、野の獣のように、自分のために生き、相手を食い殺す。この生き方を阿佐田哲也、色川武大は崇高で、尊いと考えていたと語っていた。
翻って今の自分。サラリーマンで小銭稼ぎを続け、社会に対して従順に生きている。こんな映画の世界の生き方は夢のまた夢。でも、出目徳のように博打を打ちながら野垂れ死ぬ、そんなことに憧れる自分もどこかにいる。
こんなことに共感してくれる人がどれくらいいるものか・・・。
2022年8月4日 トラジロウ