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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05   呉林俊(オ・イムジュン)(その4)

呉林俊──激情の詩人の生涯(その4)

林浩治

(その3)からのつづき

3)少年期


 1930年、来日した呉林俊の家族は、阪急電鉄春日野道駅近くの下町、工場の密集するバラック街に居住した。
その頃の朝鮮人たちは、日本に来ても白衣(びゃくえ)の民族衣装のままで、仕事も沖仲仕、屑屋、土方くらいしかなかった。父は沖仲仕だった。日本語は覚えられなかった。

 貧しく腕白だった林俊少年は、「鞍馬天狗」や阪東妻三郎の活劇に熱中し、弁士の台詞を覚えてうなるような少年で、チャンバラごっこでは切られ役だった。

嵐寛寿郎の鞍馬天狗(*詳細はページ末に)

 1934年頃、8歳の呉林俊は父母に連れられて故郷三千浦に一時帰郷した。日本のどんな貧弱な家庭よりみすぼらしく並ぶ集落の家々を目にした少年には、故郷の光景が浅ましく、日本の方がマシに思えた。

 林俊は日本で暮らし、朝鮮の歴史や文化、歴史、風習から遮断されて日本の大衆読物を読みあさり、日本文化にどっぷり漬かっていた。
 女剣戟に性的疼きを覚え、西条八十やサトウ・ハチロウの詩に魅入られた。この頃、場末の古本屋を覗いたあと盗みを疑われたことを記憶している。朝鮮人だからだった。
古本屋で見た『少年詩集』がどうしても欲しかった。貧しい暮らしのなか、母は50銭の金を工面してくれた。

 金泰生(キムテセン)、金石範(キムソクポム)、鄭承博(チョンスンバク)ら他の朝鮮人少年たちと同様に、呉林俊も働いて生活を助けた。とはいえ、親と暮らせなかった金泰生、母親だけだった金石範、殆ど一人暮らしだった鄭承博とは異なり両親の揃っていた呉林俊は、悪ガキどもとチャンバラごっごに興じたり、映画を観たり、読書に耽ったり余裕が感じられる。

 林俊少年が新聞配達を始めたのは12歳だった。1937年7月華北駐屯日本軍が総攻撃を開始し8月には北京入城した。
小学校6年生の呉林俊は神戸新聞の号外を配っていた。林俊少年ら「バラケツ」と呼ばれた不良少年たちは新聞配達で稼いでいた。新聞配達は月6円の収入だったが、号外が出ると割増になるので喜んだ。

その年(1937年)12月の南京(**詳細はページ末に)

 戦争の時代に小学生だった呉林俊はご多分に漏れず軍国少年だった。そして朝鮮人の息子に生まれたことを恥じた。朝鮮人は中学校はおろか三流工場の工員にすらなれなかった。人員募集の張り紙には「朝鮮人おことわり」の文言が付記されていたからだ。
 仕方なく本屋の店員になったが、すぐに罷免された。次は鍛冶屋の雑用や配達に明け暮れた。

 13歳の呉林俊少年は絵描きになりたいと夢見ていた。挿絵画家になるために「通信教育」を受けることにした。一般の朝鮮人家庭では「大金」である5円を母親からせびったのである。小包で届いた「講習録」をむさぼり読みさまざまな技法を学んだ。
しかし東京に出れば立身出世できるという妄想に挑戦できぬまま、今度は雑貨屋の店員として暗鬱な労働に身を沈めた。

(その5)へつづく
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*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。

◆参考文献

◆写真について
*嵐寛寿郎の鞍馬天狗
『御存知鞍馬天狗 宗十郎頭巾』(1936年、新興キネマ)。
新興キネマ(スタジオスチル)/ Shinkō Cinema - Japanese Movies, Fandom https://japanese-movies.fandom.com/wiki/File:Kanj%C5%ABr%C5%8D_Arashi_as_Kurama_Tengu_1936.jpg
パブリック・ドメイン
作成: 1936年1月1日

**その年(1937年)12月の南京
南京事件 中華門爆破の瞬間(1937年12月12日午後零時10分)
Sweeper tamonten - 支那事変写真全集<中>(朝日新聞、昭和13年発行)
パブリック・ドメイン
File:Attacking the Gate of China02.jpg
作成: 1937年12月12日


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