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「推し選手」という幻像を追いかけて

私には、「好き」な選手がいます。

もちろん皆んな好きだから阪神を応援しているのだけれど、特別に応援している選手... 今らしく言えば、「推し選手」になるのでしょうか。

きっかけはなんどもここで触れていますが、昨年の8月29日甲子園で行われた対DeNAベイスターズ戦。あの試合でスタメンマスクを被っていた彼こそ、のちに私の「推し選手」となる選手です。

序盤に俊足の選手を刺し、6回には0-0の均衡を破るタイムリーヒット。

守備では捕手としての冷静さを持ちつつも、打撃時には誰よりも「塁に出てやる」という熱い思いがテレビの画面越しに伝わってきたのを、今でも鮮明に覚えています。

まさか、数ヶ月後に野球少年のようなあどけない表情でリーグ優勝、日本一のマウンドに駆け寄る姿を見れるとは、夢にも思わなかったです。正確にいうと、その瞬間泣き崩れてしまったので生では見ていないんですけどね。

もちろん試合中の彼が一番好きだけれど、代打を出されてもベンチ前でチームメイトを鼓舞し続ける姿とか、非番の日でも抑えた後のハイタッチとかキャッチボール姿も大好きです。

「好き」って軽々しく使われがちな言葉ですが、私たちを幸福の極みへと導いてくれると同時に、苦悩の底へと沈めてしまう強烈な感情だと思うのです。

「好き」だから、わざわざテレビでも見れるのに、球場に足を運ぶ。
「好き」だから、例えシークレットであってもグッズを買う。
「好き」だから、他球団ファンの子に褒められるとすごく嬉しい。
「好き」だから、どんな成績の日も応援するし元気をもらえる。

けど、好きになればなるほど「好き」だけでは終われない。

「好き」だから、背負っているものと扱いが釣り合っていないと、誰よりも腹が立つ。
「好き」だから、味方が援護してくれないと全員敵のように見えてしまう。
「好き」だから、打席に立つ時楽しみよりも、凡退する不安が勝ってしまう。
「好き」だから、ダメだと分かっていてもつい盲目にその選手を見てしまう。

そんな苦しい気持ちが勝ってしまう時、ふと我に返ることがあります。

「私は一体彼の何を知っているんだろう?」

YouTubeやネットニュースでいつでも選手の名前を検索すれば、プロ入り前の高校時代や大学時代にまで遡ってまでいかにその人が魅力的なのかまとめた記事や動画がたくさん出てきます。

「〇〇選手は人格者」
「〇〇選手のおかげ」

まるでそれがすべてのように思えてきて、影の部分なんて存在しない完璧人間のように語られてしまう。私たちはプロ野球選手を特別な存在だと思い込みがちだけど、彼らだって同じ人間です。

不貞腐れることだって、イライラすることだって、自己中心的になってしまうことだって絶対あるはず。それを表に見せるか見せないか次第であって、私たちが球場やマスコミを通じて知っている選手たちは彼らのごく一部です。上澄みばかりすっくていては、本人に余計なお世話じゃないでしょうか。

今年は想像以上に全てが噛み合わない試合が続いています。「去年は・・・」という言葉は禁句だと思っているのであまり口にしないようにしていますが、グラウンドだけでなくベンチでの姿を見ていると何か重い空気を感じてしまうというか。

中継や球場で試合を見ていてちょっと違和感を覚えるようなことがあっても、どこかで思っちゃいけない、言っちゃいけない、と気持ちに蓋をしていた時期がありました。

元からすごくそういうものを感じ取ってしまう性格なので、自分を守るために感情を平板化させようとしていた気がします。感情的になるのはみっともないですから。

配球とかメカニックな部分は、「初回のインコース攻めが効いたね」「なんでツーストライクから一球外したんや」ぐらいのことしか言えないけれど、人間的な部分(?)って言おうと思えばどんどん言えてしまうので、自制していたところがあったのかもしれません。

あなたが応援している推し選手も、あなたの中での幻像にすぎないのです。

けど、だから応援することを辞めるのは違うと思います。そういうことが言いたいわけではありませんし、選手をアイドル化する気持ちも全くないです。むしろこの動きには否定的な考えでいるというか、弊害が大きすぎるように思っています。

結果でしか評価されない厳しい世界で日々戦っているのを知っているからこそ、「推し選手」という人間そのものを応援し、「自分の中にある幻像を追いかけている」ということは、忘れずにいたいと思うのです。

日々応援していて幸せだし、その幸せを誰かと共有したいし、彼も幸せだったらそれで大満足。

どんなに願っても時間は止められないから、

悔いだけはないように。

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