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TMの悲しい「あるある」

こんにちは。レビューアーの佐藤です。先日の記事「CATツールの罠 ~逆に作業効率が落ちる場合も!~」で、TM(翻訳メモリ)内の既存訳をそのまま再利用できるとは限らないという指摘をしました。そう聞いて驚いた人もいるかもしれません。「え?TMがあれば既存訳を再利用できて、翻訳の効率が上がるんじゃないの?」と。理屈上はそのとおりです。ただ、理屈どおりにいかないのが世の中です。

実のところ、TMとは、「それを使えば100%確実に翻訳の効率が上がるもの」ではありません。使い方によっては、余計な手間が増えたり、翻訳の質が下がったりする可能性もあります。そこで、TMの取り扱いで注意しなければならない点を、「あるある」ネタを交えて紹介したいと思います。

1. 既存訳の品質が悪い

TMに蓄積されている既存訳が、いつも素晴らしいものであるとは限りません。過去に担当した翻訳者の技量不足や、当時のプロジェクトの背景事情により(十分な参考資料や用語集がなかった、超特急案件だった等)、正しくない訳文がTMに登録され、そのままになっている場合もありえます。私自身も、他社から引き継いだ改訂翻訳の仕事で、「8割はTMから再利用できる」という話でいざTMを開いてみたら、誤訳や直訳が多くてとてもそのままでは再利用できなかった経験があります。

こういうTMに遭遇してしまった場合の対処はいろいろ考えられますが、翻訳者の態度として一番おすすめできないのは、「誰にも報告せず、ひっそりと誤訳を修正してあげる」ことです。TM内に既存訳がある場合は、それを再利用できるので新規翻訳よりも単価を割り引く、というのが技術翻訳業界の一般的な考え方です。そのため、たとえ既存訳を一から見直して修正してあげたとしても、翻訳料金は割引のままで、翻訳者の損になってしまいます。1か所や2か所ならいいかもしれませんが、たび重なれば大きな損失です。

支給されたTMの品質があまりにひどいときは、その旨をクライアントに報告し、プロジェクトの進め方を再確認することをおすすめします。場合によっては、単価の見直しや、そもそも古いTMを使わない、という判断になる可能性もあります。

2. TMの中身が古い

TMに登録されている訳が、最新のものでないこともあります。

TMの中身が古くなってしまう一番単純な原因は、「CATツールでの作業中(あるいは作業後)に、最新の翻訳をTMに反映し忘れる」ことです。これは一見すると単純な問題で、次のセグメントに進むたびにTMに登録しておけば済む話のように思われます。しかし、実際の運用では、その後に落とし穴があります。

CATツールで翻訳されたファイルは、その後、マニュアル、オンラインヘルプ、書籍、Webページ、アプリケーションなど、さまざまな最終コンテンツにまとめ上げる制作工程に回されます。通常は、この段階で、各分野の専門家(Subject Matter Expert=SME)によるレビューが入り、細かい修正が加えられます。問題はここです。いったんCATツールを離れた翻訳ファイルは、TMとは何の関連も持ちません。この段階で翻訳ファイルに修正を加えても、自動的にTMに反映されることはありません。そこで、TMの中身の方が最終的なコンテンツより古くなる、という現象が起きます。

校閲/校正段階での修正もTMにしっかりと反映させるには、次の2つの方法しかありません。

(A)CATツールと制作工程を切り離さない完全なシングルソースのシステムを構築する
(B)後で発生した修正をTMにも並行して反映させる工程を設ける

(A)を実現するのは技術的なハードルが高く、私は今のところ、これを完璧に実現しているプロジェクトを見たことがありません。一般的には(B)の方法がとられますが、別途コストがかかるため、(B)すら実践されないプロジェクトが大半です。そこで結果として、中身の古いTMがそこかしこに存在することになります。

支給されたTMの中身が明らかに古く、それを再利用しても良い成果物にならないと気付いた場合は、やはりクライアントに報告するのが賢明です。もしかしたら、別の最新TMがどこかから出てくる可能性もあります。

3. 英語と日本語が対応していない

この問題が起きる1つの原因は、過去の翻訳プロジェクトで、1つの英文が複数のセグメントに強制的に分けられていたせいです。たとえば次の図のような状態で翻訳が行われた場合、TMにどんなデータが登録されるかを考えてみてください。

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行4を見ると、原文は単に"icon."であるのに、訳文には「をクリックします。」とあります。厳密に対応していないのは一目瞭然ですが、CATツールの制約上、このような訳文ペアをTMに登録しなければならない状況はよくあります。このTMを単純に再利用したら問題が起きるのは、もうおわかりですよね?

もう1つの厄介な原因は、前の項で指摘した内容とも関係する話です。翻訳ファイルがCATツールを離れた後に、SMEの手によって、日本向けの特別編集が施される場合があります。原文にない日本向けの情報を追加したり、日本に当てはまらない情報を削除したりする処理です。このような大幅改変をTMに反映する必要は本来ない(すべきでない)のですが、毎年改訂されるパンフレットなどでは、「後年そのまま再利用したいので、改変版をTMに登録してほしい」と依頼されることがあります。これで、英語と日本語が対応していないTMのできあがりです。

日本向けに特別編集されたテキストをTMに登録することが後年の作業の効率化につながるかは、微妙なところです。TM内の英語と日本語が大きく乖離している場合、わざと編集したのか、それとも単純ミスなのか?と確認する必要が出てきます。特別編集をした当人がずっと担当し続けるか、特別編集をした事実や理由が後任者に伝承されていればいいのですが、そのような条件を整えるのは現実的に難しいと思います。いずれにしても、英日対応していないTMは問題の温床です。

TMの中身は玉石混交

他にも、TM中に雑多な分野の翻訳が混ざっていて最適な訳語がわからない、訳文に複数のバージョンがあってどれが最優先かわからないなど、TMにまつわる問題はいろいろあります。

ひとつ確実に言えるのは、TMの中身は玉石混交ということです。TMに常に正しい(最新の)翻訳が登録されているとは限りません。TM内の既存訳に問題があれば、その問題ごと再利用されます。このことを私たちはよく、「ゴミの再生産」と言います。

TMを有効に活用するには、まず「TMにゴミを入れないこと」、そして「TMから出てきたものがゴミでないかを確認すること」が大切です。そのためには、翻訳者だけでなく、プロジェクト管理者や、ファイルのエンジニアリング担当者の協力も必要です。TMが逆に翻訳効率を下げてしまう可能性を頭に入れ、適切な対応をするように心がけたいものです。


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