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散人きどり<2> 家のまわりのぶらぶら歩き~バビロン再訪#35 


散歩とは優れて都市的な行為であった


江戸時代においては「散歩は『はしたないことで、してはならぬ行儀であった』」という大佛次郎の説を川本三郎が紹介している。(「路地を歩く」 『老いの荷風』 白水社 2017)。
 
名所めぐりや物見遊山は江戸の最も盛んなレジャーであったが、同じ外出でも目的がないぶらぶら歩きの場合はそうではなかったようだ。身分制があり、勤勉が尊ばれた社会にあって、大の大人がさしたる用もなく外出することが戒められていたことは想像に難くない。
 
「散歩は西洋人が教えてくれた」。大佛次郎は書いている。
 
合目的や有用を求めて止まない近代が、それとは正反対の無為や無用も同時に生み出した。散歩は近代の産物でありながら、反近代的行為でもあるというところが面白い。
 
散歩が「不要不急」と言われてきたのは、目的、有用、効率、勤勉という近代的価値観とは無縁の暇つぶしにすぎないという意味でだ。
 
散歩を発見したのはベンヤミンが「遊民(フラヌール)」と呼んだ、都市のひま人たちだ。ボードレールも、夏目漱石の小説に登場する悩める主人公たちも、そして荷風散人も。
  
当事者としての目的、有用の立場を離れ、第三者としての眼差しと匿名性を獲得し、都市のひだの内部を自らの内面を探るように歩く。
 
散歩とは優れて都市的な行為であった。
 
アメリカ、フランスでの遊学から帰国した36歳の永井荷風が、さっそく明治近代によって失われつつある東京の姿を『日和下駄』(1914年・大正3年)に残そうとしたのも納得がいく。
 
堂々と暇つぶしが推奨されるコロナの時代とは、そのきっかけはどうあれ、いよいよ近代の終わりの始まりなのかもしれない。
 
「散人きどり<2>」では、<1>に続き、『日和下駄』で取り上げられた水、樹、夕陽をモチーフに、家のまわりをぶらぶらと歩いてみよう。
 

 

山の手の水は垂直性、緑を伴った癒しの空間


「東京市はかくの如く海と河と堀と溝と、(略)それら幾種類の水(略)を有する頗(すこぶる)変化に富んだ都会である」(『日和下駄』第六 水 附渡船)

 かつての東京は江戸の都市構造を受け継いだ文字通りの「水の都」であり、その象徴といえば、幸田露伴の『水の東京』(1902年・明治35年)に記されているように、昔も今も隅田川であり、そして荒川や小名木川など下町を流れる川だ。
 
山の手に水がないかといえば、そうでもなく、下町のような大河はなくとも、淀橋台、荏原台などの深い谷筋を流れる数々の川がある。
 
下町の川が一種の水平性、開放性だとしたら、山の手の川や水は、崖や坂と連続した垂直性であり、緑を伴った癒しの空間だ。
 
下の写真は清水窪弁財天の池。自然の湧き水が今でも絶えない、都内に残された希少なスポット。東京名湧水57のひとつに数えられており、今も残る洗足池の唯一の水源でもある。 
 

清水窪弁財天(大田区北千束一丁目)

 
池は小さく、現在の湧水の水量もさほどではなく、奥の滝も池の水をポンプで循環させているものだが、古(いにしえ)のこんこんと湧き出る水は霊験あらたかな場所として信仰を集めた。3方が崖に囲まれ、いくつかの社が祀られ、大きな木々で光が遮られて昼なお暗いこの場所は、今もそんな霊性を宿している。
 
縄文時代にはこの地まで海が迫っていた。縄文海進期といわれる時期だ。今やすっかり山の手の住宅街の赴きだが、氷河期の海面後退で削られてできた谷筋に氷河後に再び海面が上昇し、相当内陸に入ったこのあたりでもかつては海に繋がっていたのだ。
 
清水窪弁財天の湧き水が呑川支流となり、流れ込んだ先にあるのが洗足池だ。清水窪の小さな池が、湖面4万平方メートルを誇る都内有数の大きさの池へと姿を変える。 
 

洗足池(大田区南北千束ニ丁目)

  
午後の静かな湖面とたおやかなしだれ桜。花見禁止、飲食禁止など自粛ムードに支配された2020年の桜は、このような閑寂なイメージとして記憶に留められることになるのだろう。
 
晩年の勝海州はこの湖畔に別荘「洗足軒」を構え、この地を最期の場所と定めている。一説には江戸開城後、西郷南洲もここを訪れたとも言われている。湖面を望むように畔(ほとり)には勝海舟と妻民子の墓標がある。
 
こちらは呑川本流。呑川の上流部分はすべて暗渠化されて緑道になっているが、大井町線と目黒線をくぐった下流からは開渠となり、水の流れを見ることができる。 


呑川(大田区石川町二丁目)

  
味気ない切り立ったコンクリート護岸となり、水面も遠くなったとはいえ、水の流れがあり、鴨たちが羽を休め、いくつかの橋が架かり、ところどころに桜なども植えられた川沿いは、今なお心安らぐ風景だ。
 

川が下町の宝なら、大樹や老樹は山の手の宝



「山の手を蔽(おお)う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である」(『日和下駄』第三 樹)
 
川が下町の宝なら、大樹や老樹は山の手の宝だ。
 
碑文谷八幡の境内にある老樹にして大樹。ここは、いつもひんやりした空気が漂い、時間の進みが少しだけ遅い。
 

碑文谷八幡(目黒区碑文谷三丁目)

  
山の手散歩の恰好のナビゲーターはこの大樹による緑の森だ。住宅の屋根の向こうに見える緑の塊が、ここがどこであるか、あそこまではどのくらいかを教えてくれる。歩き疲れた身体にいっときの休息を与えてくれるのも、こうした老樹が残された寺社の境内だったりする。
 
都内とは思えない立派な竹林。すずめのお宿緑地公園内に残された竹林だ。ここ旧衾村(ふすまむら)は竹の子の産地として有名で、昭和初期までは生産されていたそうだ。同公園には江戸時代に年寄を務めた旧家も移築されており、江戸中期に建てられた住宅を見ることもできる。 
 

すずめのお宿緑地公園(目黒区碑文谷三丁目)

  
先に言及した暗渠化・緑道化された呑川の今の姿。立派な大樹が両側から迫り、緑深き憩いの場として親しまれるようになって久しい。桜吹雪、新緑、木漏れ陽、枯れ木、雪景色など折々に異なった風情を楽しめる。散歩、ウォーキング、ランニング、サイクリング、ボール遊びなど、この緑の空間がコロナ禍によるひとびとの無聊をどれだけ慰めてきたことか。 
 

呑川緑道(目黒区大岡山二丁目)

 

夕陽(せきよう)は一期一会の美


「東京における夕陽(せきよう)の美は若葉の五、六月と、晩秋の十月十一月の間を以て第一とする」(『日和下駄』第十一 夕陽 附富士眺望)
 
夕方からのぶらぶら歩きに興を添えるのは、なんといっても西方に広がる夕陽だ。ここは荷風散人にならって「ゆうひ」ではなく「せきよう」と呼んでみたい。
 
場所、季節、天候などによって千変万化するのが夕陽。さらには時を刻むにしたがって、文字通り刻一刻とその姿を変化させる。したがって、今の夕陽は、先ほどの夕陽にあらず、さらには後の夕陽にもあらず。今日の夕陽は昨日の夕陽にあらずして、はたまた明日の夕陽にもあらず。
 
色調、明るさ、光の拡散する様子、雲との関係、赤、紫、赤紫、黄、橙からさまざまな濃さのブルーのグラデーションの具合、忍び寄る闇とのせめぎ合い、建物への反射、逆光で沈む前景とのコントラストなど、夕陽はまさに一期一会の美の体験だ。 
 

品川区小山三丁目付近


「ここに夕陽(せきよう)の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である」、「関西の都会からは見たくも富士は見えない。ここにおいて江戸児(えどっこ)は水道の水と合せて富士の眺望を東都の誇(ほこり)となした」と荷風散人は前掲の夕陽の章で自慢した。
 
東京には冨士見坂と名づけられた坂は数多いが、今も実際に富士山が見える冨士見坂はほんの一握りだ。

トップ画像は、実際に富士山が見える東工大キャンパス内にある冨士見坂(目黒区大岡山二丁目)からの夕暮れの一瞬。すでに闇に沈んだ中央付近の建物の間にシルエットになった富士山が見える。

夕景のなかで覚える浮遊するような不思議な連帯感覚をヴァージニア・ウルフはこう書いた。

「黄昏どきもまた、闇と街灯によって浮ついた感じを与えるものだ。私たちはもはや自分自身ではなくなる。晴れた夕方の四時から六時くらいに家から外へ踏み出すとき、私たちは友人の知っている姿を脱ぎ捨て、無名のさまよい人たちの茫洋とした共和国軍に加わる」

コロナ禍のなか、幽閉された家から抜け出し、わたしたちは確かに「無名のさまよい人たちの共和国軍」に参加していた。




(★) この一節は『説教したがる男たち』(レベッカ・ソルニット著 ハーン小路恭子訳)のなかの「ウルフの闇」で引用されているもの。 元はVirginia Woolf のエッセイ "Street Haunting"に収録されている一節だそうだ。



*初出:東京カンテイサイト(2020年)
 
 



 

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