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開高健『新しい天体』 ~食のエクリチュールvol.1~

 食にまつわる書籍を紹介する“食のエクリチュール”シリーズ。    

 第1回は開高健の『新しい天体』(1974年)。 

  「新しい天体」とは「新らしい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである。」というブリア・ザヴァランの言葉から採られたもの。            

 その「新しい天体」を求めて主人公が日本中の御馳走を食べまくるいうのが本書のストーリー。ただし、それが単なるグルメ紀行に終わらずに一癖も二癖もある作品に仕上がっているのが開高健ならではのところ。             

 主人公は「相対的景気調査官」なる役職に任命されたひとりの役人。そのやや影の薄い人物が予算消化のために国費で御馳走を食べまくるという人を喰ったような設定がなんともおかしい。             

 上司の局長は「取材費は惜しまない。胃潰瘍になるくらい食べてくれ。」、「どんどん取材費を使ってくれ。贅沢な取材をしてくれ。」、「A級、超A級、超々A級の店へいってもらおうと思う。そうするとハカがいくと思う。」、「ダメだね。(中略)金の使いかた足りない。君はまじめすぎるようだね。」、「君は怠慢だよ。怠けている。」と報告のたびにハッパをかける。            

 最初の会議で意を決するように「『精神は嘘をつくが肉体は正直である。頭より舌である。』」と自らのノートに書き付けた主人公も、しかしながら、御馳走を食べれば食べるほど、逸品を味わえば味わうほど疲労感が高まっていく。              

 松阪で「和田金」の牛肉を堪能した夜、主人公は「湯からでて浴衣を羽織り、ベッドにころがり、灯を暗くして、タバコをくゆらせながら窓外の夜景を眺めていると、虚無がそこはかとなく漂いはじめる。このところ、しばしば気がついていることではあるが、御馳走のあとによく虚無が漂うのである。(中略)虚無はしばしば過剰な情熱の分泌物なのであり、この生に求めすぎるところのある人がおぼえるものなのだ」と虚無感にとらわれる。                  

 この虚無は、ひとり人工的に創り上げられる「過剰な完璧さ」ともいえる「和田金」の霜降り肉、あるいは景気調査と称して他人の金を無意味に蕩尽している自らの存在に由来しているばかりではないようだ。求めれば求めるほど空しさが漂い、極めれば極めるほど遠ざかってしまうという、食に限らず決して満たされることがない人間の欲望そのものに由来しているということなのだろう。                       

 虚無を報告する主人公に局長は「何としても予算の残りはきみに食いつぶしてもらわなければならないのさ。ニヒルも結構だ。それに耐えるのは一修行だ。」と叱咤し、その足で土佐に飛んで「徳月楼」のカツオのたたきを賞味することを指示するなど調査はエスカレートしていく。                    

 こうしてエスカレートしていく御馳走探求の行き着いた先は?それは本書を読んでのお楽しみとして、こうしたストーリー以上に読み応えがあるのは、なんといっても開高健ならではの卓抜な描写力で描かれる食と味覚の数々。                     

 十和田湖畔の民家ホテルで食する山菜の描写を堪能してみよう。少し長いが全文を引用する。                    

 「いずれも山菜だからしちくどく煮たり、味つけたりしない。せいぜい凝っておひたしである。淡白な、消えやすい、あえかな、匂いともいえないような匂い、味ともいえないような味を鉢にとどめておこうと、廊下をいそいで小走りに走るようにもってきたといいたくなるようなものがある。ヤマウドはみずみずしくて強健な茎をしているが、大豆のブツブツとのこっている、塩辛い田舎味噌をつけて噛むと、歯のあいだで清水がほとばしる。山の不屈の純潔が口いっぱいにほとばしる。そして峻烈の気迫をひそめたホロにがさがひろがっていく。あらゆる味のなかでもっともひめやかだがもっとも気品高いホロにがさがひろがっていく。舌が洗われる。ひきしめられる。小さいが鋭い弦楽器が凛と正面を直視して音楽を奏で、いきいきと二つ、三つ飛躍し、批評の言葉を考えるひまもあたえずにふいに消える。高貴なつつましやかさがその苦みにこめられているようである。」                                                          

 隠喩と直喩、和語と漢語、長文と短文、具象と抽象、作者ならでは卓抜な修辞になんど読んでもため息がでる。                      

 さらに、食と味覚の描写以上にコクのあるエクリチュールが楽しめるのがそれらを取り巻く人物の横顔。               

 官僚然としたなかにもなにやら影を秘めている上司の局長、神戸三の宮のタコ焼屋のおばさん、大阪ミナミのドテ焼屋のオヤジ、道頓堀『たこ梅』の当主、松江の古旅館の老女、釧路の飲み屋で出会う会長と呼ばれている人物、岡山の白桃作りの名人初平氏などなど、有名無名を問わず、いずれの人物も深くそしてどこか苦い余韻を残す人物として描かれる。作家の一筆書きとでもいうべき力量にため息の次は沈黙して遠くを見やる番だ。                    

 開高健おとくいの数々の小話が楽しめるのも本書の嬉しいところ。傑作であろう「協力と介入」や「パリのレモン絞り」のエピソードなど、触れば切れるような本質を垣間みせてくれる。

開高健記念館に掲げられているアルベール・カミュの言葉 ”Don't walk in front of me, I may not follow. Don't walk behind me, I may not lead. Walk beside me and be my friend.”

 
 開高健は食にまつわるもう一つの大作『最後の晩餐』に書いている。「食欲をウマイ、マズイの味覚からだけで観察するのはひどい過ちである。」と。また、本書では「食いしん坊が夢中になってうまいものの話をしていると、無邪気さと無残さと、それにまじって“鑑賞”とひとくちに呼ばれる観察眼、洞察力、素養などが明滅するものだが」とも書いている。              

 食という際限のない欲望をめぐる大いなる無邪気さと深い無残さを楽しみたまえ。Bon Appetit !

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