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非因采画来

【小説】非因采画来
広瀬喜六

 刀水の畔に茂った萱も秋風とともに白くなった。戸田井を回って小貝川から新利根川に抜けると、艀が並んで行き交うのがやっとだろうかと思われるくらいの川幅になる。この辺りに来ると台地もずいぶんと遠くなって、谷戸なんかがあるのも川からずいぶんと遠くのところになる。
 新利根川はそのくらいの川幅はあるのだけれど艀が通るのもままならない深さで、実際は用水となっている。新利根の流れはどちらに向かっているのかだろう。あまりにすとんとしたその流路はそれが人造のものであるとはっきりと人に悟らせるけれど、あまりに平坦のところにあるものだからほとんど流れていないように見えてくる。
 勢至堂の脇から南に向かうと小さな河岸場があって、その中に風垣に囲まれた一軒家がある。この一軒家にある謂われという物はとんとわからないけれど、小さなゴシック・リヴァイヴァル様式の館で幽寂のところだ。
門を開けて中に入ると言葉があなたの足元に流れてきた。
 「ようこそいらっしゃいました。当館は古今東西森羅万象において美的対象でありうるすべてのものを集めておりましてな。そういうことで、あまり首尾の一貫せぬ展示にございます。芥子粒の中におさまってしまうほどの小さな館にはございますが、ゆるりと楽しまれますように。」
 前庭は飛び石が数歩おきにおいてあって、ふわふわと言葉の上を飛び跳ねていくようになっているのがなんだか愉快でもあった。この辺りはわりあい濁っていないもので、底は浅くて良質の泥がうっすらとひろがっているようだった。言葉の間を吐息が滑るようにして泳いでいく。泥が少し巻き上げられて文字がふわりと揺れた。
 少し顔を上げると、ギャンブレル屋根になっているのがわかるファサードに2階の弓なりの出窓が見えた。出窓になっているがしっかりと暗幕が下りて中を伺うことはできない。

 “I mean,” said Miss Marple, puckering her brow a little as she counted the stitches in her knitting, “that so many people seem to me not to be either bad or good, but, you know, very silly.” Agatha Christie, “The 13 problems”

 高名なる老嬢の言に。
 純粋な合理性などというのは人間には所詮達成できないことだ。人間に感情があるなどといったことを考えるよりも、もっと簡単な言葉で言い表してしまうのがよいだろう。人間はたいがい、おつむが足りない。

 扉にはこんな具合に言葉が添えてある。扉を開くと床に敷き詰められたタイルがきれいにあっているようで、しかしずれているものだから隙間に吐息がたまっているのではないかと見えたが、案外きれいなものでなんだか嫌な気もした。

 展示室に入ると初めにあったのは扉だった。
 正確に言うと扉とは言えまい。扉というのは二つの空間を区切ると同時につなぐものでなくてはならない。扉というのはその機能と蝶番とドアノブと戸板とそのほかいろいろのものの、その集まりとしてみるほかない
 そういうわけだからここにあるのは戸板とドアノブと蝶番の集合体というほかなくて名前はまだない。
 ノブを掴んでひねるとごとりと廻った。
 錠が引っ込んだ。

  “私はドキリとしました。ドキリとしたらもう感動していました。深い感動です。この小さなドアのノブを見つめているだけで恐ろしくもなってまいります。”              赤瀬川原平『超芸術トマソン』

 ふわりと言葉が落ちてくる。
 展示室の床は柔らかな木ではってあってポトリと言葉が落ちても傷のつくものではないようだった。

 言葉は気が付くと私の胸のところまで来ていて、息をするにもひどいようだった。言葉が天井に達すると残っていた気配はふいと押し出されて私はもう言葉の中に浸かってしまった。しばらくは目が慣れなかったけれど、ぐいと目をつむって、それから開いてやると言葉が目に沁みないようになっていた。館は言葉に押されて膨らんでいる。

 「ここに展示されるもの。それは、“私である”という言辞が“私以外の何ものかでない”ということをしか示していない。“何ものかである”という言辞が“それ以外の何ものかでない”ということをしか示していない。そうでない展示の、何かを何かであると述べようとするすべてと異なるもの。」

 部屋はおおよそ真ん丸になっていてどこが四隅でどれが床なのかわからないようだった。足がついているのかついていないのかもあまりわからなかったけれど、とりあえず歩いてみた。
 歩いてゆくと外から見た出窓があって外が見えた。観音開きになっている窓を開けてやると言葉はぬるりと窓の外に流れ出した。流れ落ちるとふゆと庭の言葉にぶつかって、のんびりと一緒になっていく。さらとした泥が巻き上げられているなかを吐息が泳いでゆく。私もつられて吐息を吐き出すと刀水のある方へ泳いでいった。そのたびに文字が揺れて、日の光を浴びる。文字は光を受けてぼんやりと輝いている。
 しばらく窓の外を眺めていると

 とぷんっ

 といって静かになった。
 展示室の中に戻っていって“扉”の前に立つ。どちらが正しく前なのかはわからないけれど、それは二択なのだろう。
 “扉”のノブはまわった。
 “扉”は蝶番のあるのにしたがって開く。

 やはり戸板は空間を区切らなくては扉とはなれないのだったとあなたは知っている。あなたは手洗い場の鏡に窓から裏庭が見える。池の水は新利根川から引いているらしいとあなたに見えた。まだ年のいかない鯉が泳いでいる。
 あなたは若き日の王維に佳作を覚えている。

 “自有山泉入 非因采画来”  王維『題友人雲母障子』

 鏡に光が差すのではない。山泉に光が差している。筑波山はずいぶん遠いが借景に使えるらしい。

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