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子どもに「ダメ」と言うたび、ノーベル賞が遠退くとはいえ

Twitterで以前
「子どもにダメと言うことは、子どもの好奇心を中断させること。ノーベル賞への道を閉ざしてますよ」
というような内容のツイートを拝見しました。

「なるほど……私は息子にノーベル賞取らせたいから「ダメ」って言うの極力やめよ」って思ったんですね。

ノーベル賞取らせたいって…我ながらすごい親ですね。その字面だけみると、過度な期待で子どもを押しつぶしてしまいそうです。

この「ノーベル賞を取らせたい」ってのは、金とか名誉とかそういう話じゃなくて。

ノーベル賞を取るってことは「自分の好奇心を突き詰めて一生をかけて研究した内容が、人類の役に立つと世の中に認められた」ってことです。好きでがむしゃらにやってきたことが、人様の役に立つ。めちゃめちゃステキな生き方だと思います。(研究が好きじゃないのに結果を出してる人もいますけど)

もちろんノーベル賞じゃなくてもいいんです。

「自分が楽しんで継続したことが世の中の役に立つ」。そのよろこびを感じれる人生を息子に送ってほしいなあって思うんです。自己実現してほしいんですね。(これも過度な期待だなあ)

自己実現のために一番大切なのが好奇心。だから「ダメ」と言うのはやめよう、そうは思うのですが。

たとえば、コップに入れたジュースを息子が飲むとき。最近決まってコップに手を突っ込むんです。

ジュースの冷たい感触が楽しいのでしょう。手を突っ込んだことでジュースのかさは増え、自分の手はコップの中でいつもより大きく見えます。不思議な発見がたくさんあります。

そして手についたジュースをなめる、もしくは手をふりジュースを撒き散らすのですが、味を確認したくなる気持ちも手についたジュースを飛ばしてみたくなる気持ちもわからなくはありません。

で、も、ねー!!!

ジュースはもったいないし、椅子も床も壁もベチャベチャ、息子は全身ずぶぬれでお風呂に直行しないといけないんだよねーーー!!!!

こんなことを保育園でしても困る、人様の家ではもってのほか……「しつけを全くしていない!!」と思われても仕方ないレベル……

世間体と息子の好奇心の狭間で私はもがいています。

ただ「ジュースに手を突っ込む」も2パターンあることに最近気づきました。

①純粋に好奇心でジュースに手を入れたいとき
②私に反応してほしくて、悪いこととわかった上でわざとイタズラしてるとき

①のときは満足するまで多少様子を見ることにしました。取り上げるより、好きにさせた方が「ジュースに手をいれる」がすぐに終わるようです。

②の場合は「ジュースが勿体ないよ、飲まないならおしまいね」と言ってとりあげる、もしくは構ってオーラがすごい場合はコチョコチョ等で気を反らす作戦を取っています。

その時々で私の対応が違うことは問題な気もします。

ただ、やってることは同じでも息子の気持ちがそのときによって違うので、私の対応が変わるのも仕方ない気もします。

「息子のとった行動そのもの」ではなく「息子がなぜその行動をとったのか」という理由にできるだけ注目してあげたいと思っています。

しかし………こんな小さいこと1つ取っても私には正解がわかりません。

「ジュースに手を突っ込ませてて本当にいいのだろうか…」内心そう思います。

日々迷いながら息子と接していて、情けなく思います。親の私が迷うと、息子も迷ってしまうもんなあ。

育児、難しすぎます。人生で一番難しいかもしれない(結婚も難しかったけどね!!!!!)。

子どもに「ダメ」という度、ノーベル賞が遠退くとはいえ、すべてに「オッケー」を出すのも不可能な今日この頃、悩みは尽きません。

おわり

読んで頂いてありがとうございました! 息子のリンゴジュース代にします。よろしくお願いします。