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縁なき衆生は度し難し?【中編】

長き眠りの夢覚めて


いつの世 に長き眠りの 夢覚めて おどろくことの あらんとすらん

世の中を 夢と見る見る はかなくも なおおどろかぬ わが心かな

山家集

私はどういうわけか西行のこの歌に、何かしら惹きつけられるものがあった。だから、よく親しい人への便りなどで引き合いに出してきた。

私の勝手な解釈では、


長い間、あまりにも長い間、自分は無明の長夜むみょうのじょうやを過ごしてきた。いったいいつになったら(イベントにより)目を覚まし、仏の世界にアセンションできる日が来るのだろうか?


である。

どうも彼はそう願っていたような気がしてならない。

「長い間」というのは、今生こんじょうという短いスパンにとどまらず、前世も、さらにその前の生も・・・という輪廻転生りんねてんしょうを含んだ膨大な時間の厚みを指すのでは? と、私の勝手な解釈は続く。



想像もできなかったほどの「目覚め」が

「驚く」という表現が好きだ。

「目覚める」という意だが、
その日、文字通りの「驚き」を伴って、彼自身想像もできなかったような形での「目覚め」がやってくる。

それは、もうすでに彼という「個」の願いなんかではない。
全人類の積年の悲願・宿願が束になってその前にある。

もちろん、西行もそこにいる。
あなたも、私も、みんなそこにいる。

それを西行自身も「見えていた」のではないか?
そして、それを西行自身も「見ている」ことだろう。

私たち全員の本当のところ(意識)が息を凝らしてジーっとそれを待っている。夜が明けるのを待っている。うっすらと薄桃色に、薄紫色に明け初めるあけそめる世界の黎明れいめいを待っている。

そうではないですか?

黎明
長い闇夜を経て、私たちは待ちわびた夜明けを待っている


夢のまた夢 目覚めてもそこは迷いの世界

「夢」が出てくる。

よく言う「夢」ではない。
それは、「この世」のことを言っている。

たまゆらの生、無常を言っている。
煩悩、迷いの世界である。

そこでは、多くの者たちがひねもす世迷言よまいごとを吐き、俗事にかまけることにうつつを抜かしている。
毎度の風景。

かたわら、西行のように、発心(目を覚ま)したものもいる。しかし彼らの目覚めた世界も、周囲を見渡せば、また夢の世界。
(発心は、むしろ夢という現実うつつの世界では葛藤以外のなにものでもない。なまじこの夢の世界で目覚めるなどということなく、多くの衆生しゅじょうのように眠りこけて埋没していた方がどんなにか幸せなものか・・・)

このへんの心中が、二番目の歌「世の中を夢と見る見る・・・」にそのまま紙背しはいに吐露されている。
(この現実世界が、仮象のものマトリクスであることを分かったつもりでいる自分ではあるが、ついぞいまだにそこを抜け出て、目覚めることがない)

夢のまた夢。



無常を見る「恒常」の目

こうした和歌の含蓄、風情や余韻のある世界を、現代風な論理で解説するのは、はなはだ無粋な方法論なのかもしれないが、目覚めた者たちをなお奈落に突き落とすものは、その目覚めた世界が相変わらずの現実の世界である事実。

無常の世界
二元性の世界
「現実」という一見頑丈そうな衣を被った、実はとりとめのない夢の世界
昨日と同じように今日もあるかのように見せている嘘の世界
「白」と思ったものがほどなく「黒」に転じる世界
つかんだ砂粒がサーっと音を立ててこぼれ落ちる世界

そう、それはマトリクスの世界
天蓋てんがいおおいつくすそのベールは
それに気づいたものすら、逃がすことをしない。

西行法師が生きていた時代、
そのずっと以前から我が国に根付いていた「無常観」は、
このマトリクスを見抜いた慧眼けいがんであったと思う。
それを見ている眼は、無常を超えた恒常(仏)の世界からのものだ。

しかしながら、そのマトリクスを打ち破り、
その外へ脱出したものは少ない。
とりわけ、現代においてそれを可能にしたものはほぼ皆無に近いという。
それらは「聖人」「覚者(アセンデッドマスター)」と言われる。

法・愛・悟りを必要とする世界


なぜ悟らなくてはならない背景があるのか?

よく考えてみるとそれはおかしなことではないか?
不自然なことではないか?
なぜにそれほどごく僅少なものだけが、この無常の世界(3次元)を超えて恒常の世界へ”脱出”できるのだろうか?

そもそも、なぜに”脱出”しなくてはならないような世界があり、われわれは”そこ”に住んでいるのだろうか?
いやいや、釈迦やキリストの昔から、なぜに「法」や「愛」、それどころか「悟り」そのものが必要とされる地上なのか?

ダルマ」が必要なのは無法地帯においてのことだし、「愛」が光るのは暗闇の中だからではないのか?
老子の言うように、「大道」がすたれたからこそ「仁義」やらの道徳が叫ばれたのではないか?

「監獄惑星」そのものであることを認識する

そう、この世という三次元のマトリクスは「仕掛けられた罠」である。
「二元性の現実」など、本来存在しない。
というより、「現実」というものこそ二元性のものだから、それそのものからして存在しない。
本来、真相そのものの世界にいては、「真相」をえぐり出すような「哲学」など不要ではないか?
そのこと自体、この世が「仮想現実」「偽り」であることを露呈しているのではないか?

COBRAは言った。

地球が監獄惑星である」事実を認識するところから始まる。

端的に言おう。

「地の獄」この世は文字通りの地獄である。

それを認識できないで、何の「光」か?
何の「救い」か?
何の「アセンション」なのか?

こうした物言いは、とりわけ長い間宗教的、道徳的、倫理的に洗脳されてきた多くのものが認識しがたい真実である。

「美しい自然がある」「生きとし生きるものは愛らしいし美しい」「癒される空間がある」「愛する人がいる」・・・そうだろう。
しかし、それで「自分は天国に住んでいる」というのは、二元性を皆目理解していないものの夢想にすぎない。だから、連中はそこを突いてくるのだ。

いうまでもなく、私たちがそう感じている傍らでは、目を覆いたくなるような悲惨、知りたくもない現実の世界が厳然と存在している。
それが二元性のこの現実だ。
(覚えているだろう。311のあの日からしばらく、TVに流れる一切のエンターテインメントが自粛された。おびただしい死者が出ている傍らでのお笑いは悪魔の笑いになってしまう。お笑いが悪いのではない。それを悪にする二元性が悪いのだ。さらにいまの海外情勢はどうか? それは対岸の火事だろうか?)
人の楽しみや幸福、人生に、それは黙っていても水を注ぐ。
はなはだ不愉快な奴。
それが「二元性」という魔の手なのだ。

決して外界に出られない監獄の世界・・・アセンションとは、そのマトリクスの解体でもある

見て見ぬふりをするのもいい、しかし

これらの「負の世界」を見て見ぬふりをするのもいいだろう。
私もそうだ。
厭なものは見たくも触れたくもない。
大いに楽しみ笑いたい。
感動していたい。
それが本来の人生だ。

しかし、二元性の世界は、天使のほほえみをもたらす一方で、悪魔の所業を繰り広げる。
その現実だけはごまかせない。
ごまかしたくない。
しかもその「現実」は、決して自分が招致したものではない。

この異常性を「地獄」と呼んでどこがおかしいのだろうか?

地獄にいるから、「耳障りのいい」「美しい」「きれいな」「天国のような」世界に惹かれる。そこになにがしかを求めようとする。

逆である。

その足元の地獄を「美しい」「きれいな」「天国」にしなくてはならないのではないか?
いや、もはや私たち人類も、母なる大地も、鳥も獣も植物も、もうそんな二元性のゲームに翻弄されるのはまっぴらだ。
正気なものは誰しも叫ぶだろう。

「正気の沙汰ではない!!」

と。
地球を含めた5次元世界へのアセンションとは、足元の「地獄」を「天国」に変えることだ。そこに巣くった汚い虫けらを払いのけるためにも、奴らにふんだんに穢された地上・地表・地中を清めるためにも、地球彼女自らも身震いポールシフトするだろう。

私たちは、その「地獄」を過去のものにしようではないか?

数々の予言や神示にあるように、私たちも、この大地もいったんリセットされることになる。

西行法師の和歌から、その「発心」から、
私は以上のような「お話し」を聞いた。

それが、我田引水的に私の都合の良いように脚色・敷衍ふえんさせた話だろう?
と思われても構わない。
そうだろう。

しかし、(大概そうだが)実際何かを書く前に、恣意的にこう書こうという思いは私にはあまりない。

別段、自分にエンパスの素養があるわけではないと思うが、半ば自動書記的な感じで書き進めてしまう。

まあ、出口なおさんや、中山みきさん、岡本天明さんみたいに、ある日突然「天地はひっくり返るぞよ」のごとく「お筆先」が降りてきたらめっぽう怖いので、それはないと思うのだが・・・。

ともあれ、「いつの世に・・・」の句がずーっと喉の奥に引っかかっていた当人にとっては、ようやくこれで溜飲りゅういんが下がる思いがした。


西行法師。
僧の立場にあって、自らの煩悩を赤裸々に吐き出すその正直さ、無垢な魂に多くのものが共感したことは当然であった。

なぜなら、どんな人の心中にも潜在的に同じ思いが眠っているはずだから。

旅路を急ぐ西行法師
自らを「目覚めていない」とするのは「目覚めた」
境地からの目線  旅路をゆく西行法師 Wikipedia
=デイバッグのようなものを背負ってるのが今風?

西行法師について
名前はよく知っていても、あまりよくご存じのない方に向けて簡単に解説します。
平安末期の人で、ご先祖さんにはあの藤原鎌足がいる、やんごとない家系に生まれる。若いころから眉目秀麗で文武(特に和歌や馬術)に秀で、「北面の武士」としてエリートコースの将来を嘱望されていたが、突如22歳の若さで出家してしまう。その後、国家の権威が集まる有名な寺ではなく、晩年高野山のふもとに戻るまで、ほとんど山里で庵を結んだ。宗派は問わず。各所を歩き、和歌を通しての悟道を確立。とりわけ28歳の時分の東北地方の旅(歌枕)は、松尾芭蕉(「奥の細道」)に影響を与えたとされる。享年72歳。私のようなトーシロではなく、詳しくはしかるべき文献でね。

西行の生涯はどことなく「貴種流離譚きしゅりゅうりたん」を彷彿とされるものがあります。釈尊がそうであったように、要は尊い家柄に生まれ、何不自由なく暮らせる身分なのに、そこから一転、あるいは修行の、あるいは流浪の旅の人生を送る。
「発心(悟りの世界へ目覚めること)」のすさまじいばかりの動力をそこに感じますね。
「在家」すなわちわたしたち一般の「衆生」が仏門に入ることを「得度とくど」と言いますが、彼は「武士」「貴族」の身分からそうしたわけで、周囲の者たちの驚きはまた格別だったと想像できます。

世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ
(世を捨てて仏門に入ることは、悟りを得んがためで、実際は捨てたことにはならない。逆に一般の衆生ー縁なき衆生ーこそ実は世を捨てているのだ)

みなさまへ

みなさまお疲れ様でございます。
さて、今回(中編)にも表題の「縁なき衆生えんなきしゅじょう」はちらっと面影をみせるだけで終わってしまいました。
ただ、前回(前編)および今回と、(無理くり勘ぐれば)その伏線が、まるで伏流水ふくりゅうすいのごとく見え隠れしていることにお気づきでしょうか? え? お気づきでない? え? タイトル詐欺? しかし、「縁なき衆生」が何の「釣り」になると申せましょう? だれがそれに期待を寄せましょう?

縁なき衆生はし難いのか? つまり、縁がないものは救いがたいものなのか? それは、そもそも救われなくてはならないものなのか? もしそうであるのならば、一体だれがそれを救うのか? どのように救うのか? 自らは救われたのか? 
ご興味のある方は、次の完結編(後編)をお楽しみに。


東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。