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ぼくは小2のときに現代医療を見限りました。【東洋的考え方・生き方①】

爾来、半世紀以上「東洋医学」オンリーです。東洋医学の源は「哲学」であり、「生き方」であり、それは「無為自然」に近づく努力。学ぶよりもむしろ捨て去ること。命をつなぐものだけを食べること。


以前からどーしても、このお話は書いておかなくてはと思っていた。
というのも、読者の中には、病に苦しんでおられる方もいらっしゃると思うからである。
それに、少しでもお役に立てればと、かねがね思っていたからである。これからお話しするのは、そのためのささやかなヒントである。

これは実は、私自身が極めて病弱だった幼少のころ(小学2年生)、あることをきっかけに、自ら「玄米食」を取り入れ、それまで、患っていた婦人科以外のあらゆる厄介な病気ときれいさっぱりおさらばしたことが皮切りになっている。


病を「外敵」とみることが一番の病


病気はつらい。
そのつらさは、当人しかわからない。
だから、第三者に(たとえそれが親切心からであっても)とやかく言われても困惑するし、そもそもその助言がはなはだ見当違いなことである場合が多い。

これは、あくまでも「3次元的な意味での節理」とでもいうべき言葉かもしれないが、私には、その次元では間違いないと確信している信条がある。(なんで3次元的と断ったかというと、5次元以上の治癒方法もあるから)
それは、

あらゆる病は、自分で治すことができるばかりか、自分で治さない限り完治しない。


ということだ。

現代社会に生きているわれわれは、通常、なんらかの病にかかると、病院に行き、診てもらう。

すでにこのあたりから、私たちは胸に手を当てなければならない。

「なんで自分の病気を医者(他人)に診てもらわなくてはならないのだろう?」

この疑問をおかしく思われる方は、犬や猫を見ればおわかりになるだろう。
いや、ペットよりも野生の動物を見てみればさらによくわかるだろう。

君たちの方が知ってるよね?

彼らが、自発的に医者にかかるというところは見たことがない。
では、病気にかかった時、どーしてるのか?

  1. 黙っておとなしく寝ている

  2. 食べない

  3. (散歩などに連れて行くと)解毒作用のある野草を選んで食べる。


少なくとも野生のライオンが、獲物を捕らえ、食した後に「胃腸薬」を飲んでいたシーンは見たことがない。
しかも、連中は決して「食べ過ぎ」ない。
メタボなどいない。
腹はいつもペコペコでへっこんでいる。

ただし、ペットの場合は、人間の考えた科学的・栄養学的に”抽出された”フードを食べて、人工的に快適な環境で育っているから、野生のそれとは比較にならない。

「でも、われわれ人間様はもっと複雑な高等動物だから、そんな野性的な動物なんかのやり方が通用するわけがない」

と、あなたはお考えですか?

しかし、人間がどうしてそうあってはならないんでしょうか? どうして生来持っている「本能」を無視して、薬や外科医療に頼らなければならないのでしょうか? だれがそれを決め、だれがそれに従っているのでしょうか?


それを「悪い」というのなら、罹ったこうむった自分が悪い

しかも、われわれ人間は、何らかの病にかかると、それをまるで「外敵」のように扱う。

「○○菌のおかげで自分は○○という病にかかった」

という風に考える。

動物たちは、そんな風に考えていない(と思う。わたしは鳥語以外話せないが・・・?)

では、彼らの考えを代弁しよう。

「なんで自分は○○菌だかなんだか知らんが、そんなつまらん微生物ごときの生命圏にいるものにヤラレルほど弱いんだ! なんという劣った体質なんだろう?」

と考えている。
自分を責めている。

では、どーして自分を責めているか?
それは、そこに文字通りの自由があるから。
すなわち、自由=自分の意志で病を治すことが出来るということを知っているから。

つまり、どんなことであれ自分以外には責任がない。
だからこそ、自分が変えることが出来る。

という考え方。

だって、自分のことの責任が自分以外のどこにありますか?

逆に、自分を責めずに他者のせいにしている人間には自由がない。
そこには「自分ではどーしよーもない」という根性が底辺にあるからだ。

もし、医者があなたの病を治せなかったとしても、
それをもし「悪い」というならば、悪いのは医者ではなく、自分の「責任」や、もしくは「命」を他人にゆだねたあなたです。

道を歩いていて、石につまづいた。
石が悪いのではなく、その石に気づかなかった自分が悪いのです。

石が悪いとする考え方は、その石の所持者だった人が悪い、その人がどこかの国の人であれば、その国が悪い、挙句の果ては地球が悪い、宇宙が悪い・・・と際限がありません。

自分が病気になったらどこをどーしてもなにが何でも、だれが何と言おうが、たとえそれで死んでも、自分が悪い。だから自分で治す。

もう武士道ですね。
それが「東洋思想」です。

「○○のせい、○○のおかげでこうなった」
というのは(もともとは西洋になかったが、西洋に巣くって東洋に入ってきた)「唯物(自分を見失った)思想」です。

美しい蓮の花は汚泥の中で開花する

寒さのせいで風邪はひかない

ということは、自分で病気にかかったわけですから、自分で治せないわけがないし、自分以外治せる人はいないのではないですか?

風邪をひいた身内の方に、

「寒くしていたからねー、かわいそうに、暖かくしてね」

と、まさかあなたは言いませんよね?

断言しますが、寒さで風邪をひく人はいませんよ。
原因は「食べ過ぎ」です。
だから、原因は自分(の摂生のなさ)ですね?

断食していて風邪をひく人はいません。
交感神経が緊張しているんですから当たり前です。

(注:このお話を理解しちゃって、「あんたは食べ過ぎ! 晩御飯は抜きよ!」なんて決して言わないでくださいね。優しくしてあげてください)


少々埃っぽい部屋に数人で入る。
うち、一人二人は

「鼻がむずむずする」とか、
「くしゃみが止まらない」

なんていう人が出てきます。
ひどいのは鼻炎になる人も。

それは「埃」のせいですか?

なんでもなく平気な人がいるのに、なんで自分は?
それは体質なんだからしょうがない、鼻炎薬をのまなきゃ」

でも、薬で「体質」は作れませんね?
だから治らないんですよ。「体質」が先です。埃で鼻炎にならないような「体質」を作ればいいんです。)


東洋医学は生き方、ものの考え方です。

今回は、メンド―なんで、ただ徒然に書き進めてしまいましたが、この「東洋的考え方・生き方」シリーズは、わたくしが、半生にわたって悪戦苦闘して叩き込んできた「東洋医学・哲学」の思え書きです。

正確を期す意味でもサンコー文献なども照らして、本腰を入れてみようかとも思いますが、ただいかんせん、この「東洋医学」というものは「哲学」と同体なんです。それが問題です。どう展開するかわかりません。

というのも、それは「ある向き」にとってははなはだ難解なものらしく、どーしようか今現在思案中です。

理解されない方は、私がこのブログで随所に挙げている一見「奇をてらったような」言葉に抵抗を示されるものと思いますが、それこそ「東洋哲学的な考え方」なんです。

それは、仏教、禅や道教の底辺にある考え方です。
しかもそれは、現代的なものの見方の対極であるうえに、逆説的で、時に攻撃的かもしれません。

なぜかというと、この世が二元性で出来ているからです。その二元性を解体して一元の見方をすると、そう見えるのです。

と、ちょっと難しいお話になってしまうのですが、何が言いたいのか? といいますと、病気を自分で治すことに興味がある方には、私はそれをお教えすることが出来ます。しかし、それには、上記のような「哲学」を理解しないと、単なる付け焼き刃で終わってしまうからです。

まあ、読者の方々の反応を見ながらその辺は考慮したいと思います。

知らない病名がたくさん。そのうち居眠りしただけで病気にされちまう。医学は進歩したもんだ。

では、その「哲学」は何のために必要か? というと病気治しのためではありません。「病気」にも応用できるだけです。そんなものよりもっとバカでかいものです。

アセンションの移行への”導管”として

アセンションの波は外部からもやってきますが、外部の情報の90パーセント以上は偽情報です。だから、あまりに「情報おたく」になるのは、無意味です。

アセンションは、同時に内部的にも始まらなくてはならないのです。
そこで一番頼りになるのは自分です。
自分自身には裏切られません。しかもいくらでも修正が出来ます。

アセンションは、黙っていても始まる人もいますし、そうでない人もいます。そうでない人は、大きな価値観の転換を迫られます。
この哲学は、お察しのように、その新たな価値観の一翼を担うものだと思うからです。

もしかしたら、アセンションは、ある人たちにとっては期待通りの「素晴らしい移行」にはならない可能性があります。

もちろん、それ自体は「光」への移行であり、筆舌に尽くせないほどの感動を伴うものでしょうが、あまりにもこの二元性に慣れ親しんできたものの目には、その闇の重さと同じほどの浄化のために、恐怖以外のなにものでもなく映る人も少なからずいることでしょう。

「東洋哲学」は、それへの移行の導管となるものだと私は思います。



さて、何のとりえもない私ですが、一つだけちょっとは自分にとって良いことをしたなあと今となって思うことがあります。

あの小学2年生時に、食べ物を変えていなかったら、今私はこうしてこの世にいなかったんだろうと。

そして、私は思う。
幼心ながらも、ある病院で感じた忘れもしないあの自覚、「現代医療の限界」は、そのまま、

「現代文明の限界」

と言い換えてもよいのではないか? と。


東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。