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日々記2024.04.01

職場が変わった。

変わったので日記を再開した。

またすぐにやめてしまうかもしれない。

一応、書かなかったにも理由がある。

日記、というよりも、書くことそのものに理由があった。

虚飾性というのだろうか。

何か文章を書く際に、飾り立てを行うことに対して抵抗感があったのだ。

頭の中に浮かんでいる言葉の断片なりイメージなりは必ずしも十全に文章として表現できるわけではない。というよりも、十全に表現できることはない。

このことは文章を書く人、コミュニケーションを取る人、つまりほとんどの人たちが感じていることだと思うし、殊更新しいことを言うているわけではない。

こうして今も文章を書いていて、話が逸れはじめた、とか、順番変える方がええかなとか思いはじめている。でもそれをあんましたくない。

面倒、とか、大変、とかというだけではなくて、文章力の低さというか、構成力の不足というか、変え始めるとかえって何が言いたいかわからなくなってしまうことへの恐れがあるんだろう。

また逸れている。虚飾性。

虚飾性、虚飾性。

だから、普段こうやって書いている言葉を、できるだけ変形させたくないのだと思う。

十全に表現できないことをわかっていながら、そのまま出てきたものとしての文章を尊びたいと思っている。

でもそれはそれで、読み返すと、頭の中の色々を伝え切れてない気もする。だから飾り立てるのだが。

だが、その飾り立てを一生懸命こねくり回している自分が虚しくなる。

そういうことだと思う。

飾り立てたり、整えたり。

そうしたことを嫌がっている。だから虚飾性というよりは、推敲嫌いなんだろう。

なんで?

下手というのもあると思う。

さっきも書いたように、元あるものよりも悪化してしまうことを恐れている。

しっくりくる比喩を見つけられないというのもある。これに関してはプロではないからしかたないとも、プロアマ関係ないやんとも思ったりもする。

今筆が止まっている。過去の時々に思った、書き直しに対する拒否感を思い出そうとしている。けどなかなか出てこない。だからどうにか捻り出そうとする。ほんとにあった記憶か? これ。

ここで思い出した。嘘をつくのが嫌なのだ。

僕自身、嘘は方便として嘘はついたりしているのだけれど、仕事では特に。

けれど、こういった文章を書く場で、フィクションとして、というのではなく、フィクショナリティというのを持ち込むのが嫌なんだろう。もちろん、それを無くすことは絶対にできないというのはわかった上で。

だから、例えば上手い比喩に出会って、憧れて、さて自分もやってみるかとなった時、そんな比喩は、僕からは生まれないのだ。そこで僕はこねくり回す。なんとかいい喩えはないかと探す。その結果、そのとき思ったこととはかけ離れた言葉が出てきてしまう(しかも、いい比喩とは自分では思えない)。それがたまらなく嫌なのだ。いい比喩でない場合でもそう。大仰で大袈裟な比喩に出会うと、「ほんまに思ったんかそれ」と疑ってしまう。これは自他関係なく、なぜか冷めた気持ちが浮かんできてしまう。

誤解があると困るので言うておくが、上手い比喩は好きだし、そういう言葉の使い手を尊敬してるし、そういう人たちを嘘つき呼ばわりしたいわけでもない。

ごく個人的な問題。僕が文章を書いている時の問題。だから大っぴらに批判したいとか、問題を提示したいとか、そんなつもりはまったくない。

まったくない、と書くときに、毛頭ないと書こうとして迷ってしまう自分に嫌気がさしている、というだけの話だ。

で、こういうことを書くと、それでもそういうフィクショナリティを磨き上げていくのがプロ、とプロの方や文章に熟達している方は思うのかもしれない。多分これは批判しているようにもとれる文章だから。

それはそれでいいんです。僕が、書くときに、推敲するか、しないかの問題ですから。

拙くとも論文みたいなものを書いた経験から、当然、推敲が必要であることは痛いほどわかっている。でも今ここで書いてるのはそういう場合のことではなくて。

例えば、そう、先日ジャズ喫茶に行き、そこでかかっていた曲がとてもよかった。この記憶を、感動を文章にしたい。そう思った。だけど、どうやってもその時覚えた感動をそのまま文章にすることはできない。ただ感動した、よかった、というだけでは伝わらない。そこでどうにかして比喩や語りを駆使して伝えようとする。

でも、そのときの心のイメージを伝えようとすればするほど、感動も情動もすり抜けていってしまう。言葉をこねくり回しているあいだにこぼれ落ちてしまう。そしてその時、結果いい言葉が見つかったとして、こねくり回して捻じ曲げたようにも思われるその言葉は、果たして僕が伝えたかったことを伝えてくれているのだろうか。虚飾ではないのだろうか。あの時感じた心の動きに対する嘘ではないのだろうか。

こういう場合もある。僕は本を買うのが好きで、帯文の宣伝文句に簡単に乗ってしまう。今世紀最大の才能、とか、○○文学の三指に入る、とか、世界レベルに達している、とか。そんなすごい本ならぜひ読みたいと思ってしまう。もちろん宣伝であることを承知しながらも買ってしまう。

読む。心動かされつつも、上手いなあと思いつつも、失礼ながら世界レベルとか今世紀最大とかは言い過ぎなんじゃないかとも思ってしまう。僕が鈍いだけかもしれないのはそうだけど。それはともかくとして、言い方は悪いけど、嘘、なんじゃないかと思ってしまうのだ。そしてその時、その疑念は自分に返ってくる。自分が文章を書く時、自分の記憶に、感情に嘘をつかなかったことがあっただろうかと。それがじわっと嫌で、日記のような文章を書くのをためらっていたのだ。

けれど、最近ちょっと翻訳について考えたこともあって、何かが変わろうとしているし、何かを変えようとしている。

サリンジャーの番組を見た。
買ったまま置いていた二つの翻訳をひっぱり出した。読み比べた。ほとんどの人が感じたであろう、文体の違いを感じた。
そしてこう思った。野崎さんと村上さんは、いろんな形であることのできる言葉を選び切ったのだと。決断したのだと。自分などでは及びもつかない考えがきっとあったのだろうけれど、とにかく多種多様な言葉や言葉遣い、文体があるなかでそれを選びとったこと。翻訳とはその選択と決断の連続で成っているのだと。翻訳はもっともその決断がシビアに試される場なのかもしれないと。それから、翻訳でない文章を書く時にも選択と決断が必要なのだと。

作家になる人は海外文学を読みこなす人が多い、ということは知っていたけれど、その意味がようやく分かった気がした。どういう比喩を使うか、どういう文体で語るか、その選択をできる限りよくしていくこと、その決断をできる限り迷わないこと。それが文章を書く時に必要なのだと思う。

この言葉でいいのか、と何度も疑ってしまうことがある。選んだ言葉がいいものなのか。選ばなかった言葉のほうがよかったのか。そうしてこねくり回している。そのこねくり回した結果が納得できず、嘘のように感じてしまう。これが、僕が文章を書く時に思っていたことだ。虚飾性とかフィクショナリティとか、この言葉だって、僕が言いたいことを表しているとは思えない。僕は文体が欲しい。言葉を選び、決断し、よりいいものを書きたい。

日記を再開したのはそういう理由があってのことだった。
けど、僕は今どういう文体を選べばいいのかわからない。選択はあやふやで決断はもやもやだ。
じゃあ、どうしたらいいんかと。
きっと走り続けるしかないのだろう。饒舌に走って走って走りまくって色んなものを取りこぼしながら取り落としながら振り落としながらそれでも残ったものがやっと、自分の文体になることを信じて、走り続けられるよう祈っている。

というのが新年度最初の決意表明のような日記。日記のようではない日記。

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