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漫画学とドラマ理論

第1回「打ち合わせの技法」

 漫画学なんて学問はありません。私は会社に入るまで漫画を読んだことがありませんでした。よって理屈で理解するしかなかった。感覚で理解できるようになったのは1年ぐらいしてからです。「漫画」という存在は一種の研究対象と考えてしまうのです。だからまるで法学や経済学などのように私にとって学問的なのです。どこかに理論があるはずだと思っちゃう。実際ある程度はあります。しかし自然か科学じゃないのですから公式化できない。だけどある程度の傾向はあるのです。
 マガジングループに入った時驚きました。何もないのです。ノウハウも理論も何もない。これが『あしたのジョー』や『巨人の星』のマガジンかと愕然としました。オジサンたちは「自分で作り方を覚えろ」みたいなこと言っていましたが、本当は作り方なんか知らないのです。だから私に教えられない。仕方がないから映画や演劇などある程度理論化した分野の本ばかりを読んでいました。
 よって私にとって「漫画」は仕事であり学問なのです。

 皆さんはたぶん0から1を作り出す方法論、ノウハウを知りたいのでしょう。絶対的な方法論なんてありません。そう言うとがっかりすると思います。しかしこういう場合こうしたほうがベターだよねとは言えます。もちろんこれもまた人によって違うでしょう。剣術と同じです。剣術なんてただ刀を振り回すだけです。それなのに200ぐらい流派があるそうです。剣道の試合では中段の構え、つまり竹刀を前方の敵方向に向けていることが多いです。あれは相手との間をとることにより攻めにも行けるし、防御もできる構えです。ところが示現流ではトンボといって右肩に刀を載せるようにして一気に叩きつける。防御もくそもない。一撃しか考えていない。
 どの剣術も欠点もあるし長所もある。しかしあれはダメ、これもダメと言っていては何も身つかないのです。私の考え、方法論が正しいのかどうか未だにわかりません。しかし何かの参考になれば幸いです。
 

『打ち合わせの方法論』
(1)「重箱の隅を突っついても意味がない」
  ①打ち合わせはデベート大会ではない

 何をききたいのと漫画家さんに言うと、だいたい「打ち合わせはどうやればいいのですか」と答えます。いきなり各論ですが、まあ各論を書きながらその中に総論的なことを書くことになると思います。
 結論から申し上げます。「帰謬法(きびゅうほう)」は無意味です。聞いたことがない方もいるでしょう。私も「まんが学術文庫」編集部を作ることが決まって、熊本大学の苫野一徳先生に教えてもらいました。
 例えば「カラスは黒い」という命題に対して「そうかなあ、世界中のカラスを見たのかよ。白いカラスもいるかもしれないじゃない」そう言われるともしかしたら当然変異で白いカラスもいるかもしれない。これが帰謬法です。一瞬正しい気がします。例外をあげて相手の主張を相対化してしまう。見方を変えればどんな命題も否定できてしまう。ソクラテスのギリシャ時代からあるデベートの方法論です。
 これを漫画の打ち合わせでやりだす人がいます。ある個所でアイディアが足りないから何か考えなくてはいけない場合、私が「こうするればどうかな」とアイディアを出したとします。「そーかな?そのアイディアおかしくありませんか」としたり顔の編集者が時々いました。この人は二つおかしい。一つはそもそも漫画のアイディアに絶対はないのです。絶対的によろしい演出なんかありやしない。それに対して否定するのは簡単なのです。今一つはこの人はアイディアを出していない。当事者意識がない。この手の人は新入社員の頃からこんな感じです。だいたいこういう人はアイディアが浮かびません。まず育成不能です。
 ところがこれにひっかかる人が意外に多い。一見すると正しいから漫画家さんなどは、この上から目線の編集者の意見に「お前、アイディアでねえじゃねえか!」とは言いにくい。もっともこういう編集者はそう言われたら「そのアイディアを出すのが漫画家の仕事だろ」と言いだすでしょう。バカです。こういう場合ハッキリ言ってあげましょう。「じゃあお前、何やるんだよ。原稿運びしかできねえじゃねえか。この超高い宅急便め!」まあこういう人は脳の構造がまず治らない。

②実は編集者のチェンジは可能

 上述したような、よくしゃべるリトマス試験紙みたいな人が担当になったら、編集長に言ってチェンジしてもらいましょう。私だって2回チェンジされました。当初は不可解でしたが怒りはしませんでした。世の中にはお客さんにチェンジされる職業がありますよね。ドキドキするでしょうが最初だけだと思いますよ。
 我々は評論家になってはいけないのです。漫画家、作家も編集者も評論家になってはいけないのです。現実に「モノ」を作らなくてはいけないのです。他人の意見を否定して得をするのは「デベート大会」だけでしょう。打ち合わせはデベートではありません。デベートは虚しいのです。何も生まないからです。
 余談ですが、こんな態度や発言をしたら私の上司に殺されていたでしょう。「おい、お前!なに偉そうにしんてんだよ。アイディア出せ!」と朝まで生説教を食らっていたでしょう。『朝まで生テレビ』じゃない。『朝まで生説教』です。私は1回しか受けていませんが、この『朝まで生説教』は拷問です。声はでかいし、甲高くて強弱がないので眠たくて仕方がない。でも眠れない。これが朝の6時か7時まで続くのです。怒鳴られるより恐ろしい。旧ソ連の拷問みたいでした。説教を食らっている時、私は「このオッサン、いつか殺してやる」とか「今週の週刊プレイボーイのグラビアはよかったなあ」とか全く違うことを考えていました。しかし日ごろ偉そうにしている先輩が泣き出すのです。
 相手を論破することだけに喜びを覚えている人は、モノづくりに関してはいらないのです。邪魔です。編集者の場合、すぐ飛ばすこともできないし首にもできない。だから厄介なのです。

(2)「もう命題は明らか。ブレイン・ストーミング方式の効用」
 

 「より面白い演出を考え、より面白い作品を作る」命題は明確でしょ。面白いか、つまらないか、その程度は誰でもわかる。余程アブノーマルでない限りこれだけはわかる。
 ではどのように打ち合わせをやればいいのか。ある時会議で私の上司が、
「ブレストで会議をやる!」と言い出した。どこかで聞いたことがあるなあと思った。ブレイン・ストーミングのことです。社会学などをやった人には馴染みがある議論の方式でしょう。ある命題があって、評論的意見や批判は一切してはいけない。建設的な意見しか言ってはいけない。それでより良い結論を出す方式です。例えば絵コンテをみんなが読んで、いまいちですねと言ったら、「じゃあ、どうすれば面白くなる?」と上司が端から順々に訊いていく。そうなると何かアイディアを出さざるを得ない。急に緊張する。
 これは効果があった。批判を一切排除して、よりよいと思うアイディアを出させる。当時月刊少年マガジンは社員が5人しかいない。下手なことを言ったら目立つ。一周すると、あーら不思議、何とかモノになる企画になっていることが多かった。
 これには、上司を少し尊敬した。後で訊いたら赤塚不二夫さんがそれ以前からやっていたのだ。あたしの上司は赤塚さん担当だから知っていたのです。なあんだと思ったが猿真似でもいいからいいことはやったほうがいい。
 また当時はジャンプの編集者は全員天才に見えました。一人で担当して大ヒット作を作るのですから。我々は天才ではない、凡人だという共通認識から始まったのです。じゃあ、みんなで知恵を集めて作りましょうとなる。それが「ブレイン・ストーミング」で具現化したということです。

(3)「黒澤明が取った手段」
  ①黒澤明が大ピンチになった時

 黒澤明監督というと「七人の侍」「用心棒」そして「天国と地獄」あたりが頭に浮かぶでしょう。その中の「天国と地獄」(1963年公開)の撮影中に大問題が起きています。
 この映画は誘拐がテーマです。犯人が身代金を主人公の三船敏郎に要求して、金をもって特急こだま号に乗れと言ってきます。新幹線ひかりが走るのは翌年の1964年ですが、その前年まで特急こだまが走っていました。映画を観た人は密室である特急こだま号で、どうやって身代金を受け渡すのだろうとドキドキしたと思います。列車の中で犯人が受け取ると私も最初思っていました。刑事が客のふりをしてどいつが犯人だと目を光らせます。台本では、犯人から電話があって、ある鉄橋が見えたら窓から身代金のバックを落とす予定です。
 ここで大問題が発生します。当時の特急こだまも今の新幹線と同じで窓が開かないのです。もうクランクインしているわけです。天皇と言われた黒澤明も胃が痛かったと思います。そこで黒澤監督が取った行動がすごい。助監督、役者、大道具、小道具などスタッフ全員を集めて、いいアイディアがないかときいています。大がかりなブレイン・ストーミングです。みんな悩むでしょう。するとある照明係が手を挙げます。
「監督、こだまのトイレの窓は少し空きますよ」
 今のホテルなどでも窓を押すと少し空きますよね。あれと同じで押すと5センチだけ空くことがわかったのです。すぐに調べたら確かに5センチだけ開く。大問題が解決しています。
 黒澤監督が偉いなあと思うのは、困った時にはみんなを集めて意見を求めているところでしょう。恥も外聞もない。何とかいいものに仕上げるには誰の意見でも聞く。漫画も同じだと思います。
 
②黒澤監督の独特なブレスト方式の脚本

 黒澤監督の作品には脚本家の名前が黒澤明以外に2人か3人の名前が載っていることが多いのです。共同執筆ということでしょうが、この台本の書き方が変わっています。炬燵に4人が座る。あるシーンの台本をまず黒沢監督が書く。その原稿を隣の人に渡す。するとその人は、自分がいいと思うように赤字を入れる。そして隣に渡す。そんなことをしていると、黒澤監督のところに原稿が戻ってきたときは真っ赤になってしまう。そして最終決断は黒澤監督がする。「話す」か「書く」かの違いだけで、これってブレイン・ストーミングでしょう。もう巨匠と言われていた黒澤明が映画をより面白くしようとしているのです。偉くなってもこの態度ができるのは敬服に値します。
 私は100万部越えの大ヒットはありませんが、ヒット作は多いほうです。しかし厳密にいうと一人で作ったものは一つもない。悩んだら原作や絵コンテを同僚に必ず読んでもらい、意見を求めました。マガジンに人がいないと、少女フレンドまで行って読んでもらいました。黒澤監督ほどではありませんが、真剣だとこういう態度になるようです。

(4)「何もしない編集者のほうがなぜか好かれる」

 ①リトマス試験紙みたいな編集者は邪魔
 
 いいか悪いかは誰でもわかる。面白くない原稿を持ってきた漫画家には、「うーん、もっとスカッとするものがほしいなあ」とかなんとか抽象的なことを言う編集者がいる。面白い原稿ならば「いいですねえ。会議に出します」と言う。この漫画が売れなければ編集長に「この人の限界ですかね」なんて言っちゃう。漫画家には「まあ、また頑張ろう」なんて言う。
では売れたら、編集長に褒めれるし、漫画家も喜ぶ。ここからがおかしい。漫画家さんはその編集者に「有り難うございます!」なんて言うのを何度も見た。
 変でしょ。よーく考えてもらいたい。この編集者は何もやっていない。リトマス試験紙を演じているだけだ。何のアドバイスもしていない。すべて抽象的だ。しかし漫画家さんはいい人だなあ、なんて思っちゃう。

②作品の責任は作者と編集者、両方にある

 ちなみに我々場合、担当作品の人気が落ちたら編集長に呼ばれて、「お前、何やってんだ!人気が下がったのはお前の責任だ!!」と怒られました。だから人気が下がった場合、漫画家のせいにできない。ところが編集長が頭の悪い人だと、漫画家の責任にできる。なぜか。理由は簡単でそういう編集長はヒット作なんか作ったことがない。一番ひどいのは漫画そのものを作ったことがない人もいた。そういう人は原稿運びしかしたことがないから、人気が下げても担当者を叱らない。叱れるわけがない。自分も失敗を漫画家さんの責任にしていたからだ。
 私たちはリトマス試験紙的な編集は許されませんでした。アドバイス、アイディアを出して少しでも作品をよくしてきましたが、実際は嫌われることが多かった。そのまま載せたら人気が下落するのは明らかだから、打ち合わせ中に出た一番いいと思うアイディアでストーリーにしたのに不満なのだ。漫画家さんが完全に満足するようなストーリーなんて1年に1回ぐらいだろう。編集者と漫画家、作家は打ち合わせの最中は対等でないとマズい。時間も限られている。最善があればいい。なければ次善、それがなければ参善で行くしかない。要は与えられた状況下で、とにかくベストを尽くすのが正しいでしょう。
 何か対案を言うのは勇気が要ることです。完全な対案なんてあるわけがない。突っつけばどこかに欠点がある。編集者が「帰謬法(きびゅうほう)」を使ってはダメだと言ったが、漫画家さんも帰謬法的になってしまう。漫画家も思考法を変えるべきだ。ちなみに私は、かなりの漫画家をデヴュー、または再デヴューさせたが、「有り難うございます」と言ったのはたった一人でした。仕事だからやりますが虚しいのは確か。
 まだ若い頃、つまり血の気が多い頃の話ですが、何を言っても「そうですかねえ。それ面白いですかねえ」と小馬鹿にしたような言動をする漫画家がいました。私は原稿を落とすのは嫌だったので、だいたい1話は先行していました。頭に来たので「1週間、時間やるからお前がいいと思うものを描いて来いよ」と言ったことがあります。1週間経って編集部に来たら絵コンテ用紙が真っ白。(やっぱり)と思いました。結局私が言ったストーリーで描くことになる。こういうことが何度かありましたが、結果はいつも同じです。この人から何々をやりたいとか、こんなシーンがあったら面白いと思うというような具体的な発言はないのです。肝心の漫画家が評論家になっては最悪です。何しろアンカーですから。
 「絵」が描けるというのは、それは確かに一つのスキルです。しかし「絵」だけで売れた漫画家は、私は2,3人しか知らない。そういう漫画家はストーリーがぶっ壊れていても「絵」が見たくて読者が買います。漫画は「絵」と「ストーリー」の総合芸術だと思います。「ストーリー」がつまらない、もしくは商業レベルに達していないというのは致命的なのです。



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