ことばの魔法〜たった一言が世界を180度変える〜

私は「ことば」の力を信じて止みません。

「たった一言で、人生が変わる」そう信じてます。そこまでに至った、7つのストーリーです。まずは前編から。

もくじ
1 望まれて生まれてきた子じゃない
2 たった一言で人は心を閉じる
3「小さな出版」をくり返してた中高時代
4 いつまでも銅メダルランナーじゃいられない

1 望まれて生まれてきた子じゃない

これは、私の心の真ん中にあるものだ。

「アクティブだね」「エネルギッシュだね」と言われるけど、たくさん動いて、いくら周りを仕事や色んな活動や色んな人で埋めても、真ん中のピースは埋まらない。まるでパズルのピースの真ん中のピースだけ、一個欠けてるみたいに。

というのも、私の両親はできちゃった婚で、私が6歳のときに離婚した。4つ下の弟と母親に引き取られ、10歳のとき、母親が違う人と再婚して今に至る。

そのときから私の名前は「鳥井美沙」なのだけれど、18歳まで自分の名前にアイデンティティが持てなかった。これを友人に言うと、「はぁ?」って大体言われる(笑)テスト用紙やプリントに名前を書いても、自分のものとして捉えられない感覚があった。だから、私は小学校のときにたまたま付けられた「トニー」っていうあだ名が好きだったし、しっくりきていた。「あれー!トニーって本名なんだっけ!?」って言われるのは、妙な気分だった。今もこのあだ名は好き。覚えてもらいやすいし。

10歳の再婚までに、母親が家にいなくて甘えられなかったり、母親が鬱になったり(子どもとして自覚してなったけど言われた日のことは鮮明に覚えてる)、離婚に伴って引っ越したり、その小2の転校先の学校が学級崩壊で泣きじゃくってたり、今の父親に会ったりした。

どういう形でかはわからないけど、母親から幼い頃、できちゃった婚であることは聞いていた。離婚の原因のひとつは、私の教育方針の違いだった。それもあってか、私が生まれなければ、母親は辛い想いはしなかったんだろうなという気持ちは、多分子どもながらに感じていた。そこから、私は望まれて生まれてきた子じゃないという気持ちが芽生えたんだと思う。

昨年の就活で自己分析したとき、「何でこんな色んな課外活動してきたんだろう?」って思ったけど、色々動いて埋めても埋めても、埋まらない感じがあるんです。

(ネガティブだなと思ったので、おふざけの1枚)

2 たった一言で人は心を閉じる

母が再婚してから、家庭は落ち着いていた。小学校を2回転校したので、同じ学校に通わせてあげたい&私立の女子校に入れたいという母親の想いと、プールが死ぬほど嫌いで、プールのない中学校に行きたいという私の想いから、私は私立でカトリック系の中高一貫の女子校に進学した。

あとから自覚したけど、学校が合ってなかった。みんな私とは違って平和な家庭で暮らしてるんだろうな」と思っていた。花より男子の西門さん(というか松田翔太)への憧れから、茶道部に入った。たまたまそれが同好会というかゆるい形だったので、実質、帰宅部になった。

中1の初めての成績が書道だけ悪すぎて習い始めた書道教室に、私はのめり込んだ。学校での退屈さを埋めるようだった。みんなが部活に打ち込む時間、ただひたすら書いていた。

その頃小学生だった弟は、月1くらいで、実の父親のところへ土日に泊まりに行っていた。私は土曜も学校や書道があったり、たまにしか行ってなかった。父親はいつも車で迎えにくる。そんな13歳だったある日、久しぶりに迎えに来ていた父親と顔を合わせた。そこで、彼は私に言った。

「いま12歳だっけ?」

私は何て答えたか覚えてない。ただ、この人は自分の実の娘の年齢も忘れるんだ、そう思った。この一言で私は実の父親に心を閉じた。父親に会いたくがないがゆえに、「書道があるから、父親には会いに行けない」という口実をつくるかのように、土曜も書道教室に通った。

私は、たった一言で、父親に心を閉じたのだった。

3 「小さな出版」をくり返してた中高時代

中高時代、私は書道に打ち込みながら、ファッション雑誌SEVENTEENの読者編集員(?)と毎日ジャニーズオタクのメルマガ配信をしていた。いま思うとよくやったと思う。

SEVENTEENの読者編集員は、たまたま雑誌を読んでるときに見つけ、中3〜高2くらいの間にやっていた。バイトが禁止だったから、楽しそうだし、おこづかいを節約できると思って始めた。毎週木曜にFAXで、選択式や記述式のアンケートが送られてきて、それを〆切までにFAXで送り返す。1年間の契約で、毎週のアンケートに答える代わりに毎月SEVENTEENが届く。どんか企画があったらいいかとか、気になるトピックとか書くこともあった。今思えば、企画発想のいいトレーニングだった。届いたSEVENTEENを読んで、誤字脱字を見つけるのがなぜか得意だった。毎月、たいてい1,2個はある。プロがつくっても間違いはあるんだ、とも学んだ。

2個目のジャニーズオタクのメルマガ配信は、恥ずかしいけど、毎日放課後にやっていた。ネットかなんかに登録して、毎日読者に向けて書いていた。まさに「小さな出版」だった。オタク界隈の人が登録して、情報を集めたりするのだ。私も情報を発信したり、思ったことをつらつら書いていたと思う。読者は多分200人くらいいた。

周りの友人にも言ってなかったし、一人で毎日もくもくとガラケー片手に書いていた。受験も差し迫ったので、高3の冬ごろに辞めようと思って、一人で考えて、一人で決めて、終わりにした。読者とのやり取りはそんなになかった。しかし、その最後の配信に対して「なんで毎日楽しみにしてたのに、なにも言わずに突然辞めるんですか。」と怒りと応援が混ざった返信をもらった。毎日楽しみにしてくれた人がいたのか、とびっくりした。自分のことしか考えずに書いていたので、画面の向こう側の「読者」という存在をはじめて意識した瞬間だった。

4 いつまでも銅メダルランナーじゃいられない

中高一貫校だったので、高校に上がると、周りは大学進学に意識をしはじめた。みんな塾や予備校に行き始めた。私もその流れで高1から予備校に通った。

そこで他の高校の人と出会ったのは、私の知っている世界を広げてくれた。特に、「小論文作法」(造語だと先生も言っていた)という授業は楽しかった。坂東太郎先生という多分プロの方が担任だった。その授業は、4回の授業で1タームという流れがあった。

①その場で与えられた課題やテーマに対して、小論文を95分間で書き上げる
②添削・コメントが入った自分の小論文の返却と先生の講義を受ける
③ 4人グループになり、他のメンバー3人の小論文を約15分ずつ読んで、それぞれ、異なる色ペンで添削していく。それに基づいてディスカッションをする
3週目と4週目の間に、宿題として同じテーマで自分の小論文をリライト・推敲する。先生に提出する。
④リライトに対する講評やポイントの解説を行う
(たぶんこんな感じ…。宿題が4週目の内容だったかも)

私は、この授業をとても楽しんで受けていた。受験科目として小論文が必要なくなっても、受けていた。自分の考えを書くこと自体や、自分以外の視点から物事を見れるのが楽しかった。

この授業では各テーマで書いて、②のときに先生から金銀銅メダルが発表される。30人いるクラスで、私は銅賞を3回ぐらい取っていた。

そこで、4回目に銅賞を取ったとき、先生の講評に「いつまで銅メダルランナーでいるんだ。金メダルを獲れるのに獲りにいかないのか」と書かれていた。しかも、その先生の各生徒への講評は、全員に配布されるのだ。負けず嫌いの私は、今でもあの悔しさを覚えている。

「何が惜しかったんだろう」「金メダルの人と私では何が違うんだろう」。そう思いながら食い入るように講義を聞いた。ディスカッションもした。リライトもした。「学ぶ」ということを頭と身体で感じた1タームだった。その次のタームの小論文で、私はやっと金メダルを獲れた。めちゃめちゃ嬉しかった。書く楽しみと喜びを教えてくれた坂東先生、クラスメイト、チューターの方々、ありがとうございました。私のおおきなターニングポイントです。

さて、4〜7は後編に続きます。

#エッセイ #原体験 #ことば



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