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2つの自立と主体性

「自立」とは何か?何をもって人は「自立している」と言えるのだろうか?

最近は「自立」について考えている。

昨年3月、大学の卒業論文の最終発表会で、他のゼミ生の結論が「個人を出発点とした自立」であった。そこから、頭のどこかに「自立」という言葉が引っかかっている。『嫌われる勇気』か『幸せになる勇気』か『7つの習慣』で読んだのだが、人の自立には「精神的自立」と「経済的自立」の2つがある。(違ったらごめんなさい。)この2つが人間の自立には必要だ(と、仮定する)。

経済的に自立していても、精神的に自立してないおっさんもいる。反対に、経済的には自立していないけども、精神的には自立している小学生もいる。では、どうやったら「精神的な自立」も「経済的な自立」もできるのだろうか。社会人になったらできるのだろうか。働き始めたらできるのだろうか。

会社から餌を与えられる豚になるな。
自分の手で、足で、頭で、名前で獲物を狩りに行くオオカミになれ。
サラリーマンであっても金銭的、精神的に会社から独立せよ。

引用:箕輪厚介『死ぬこと以外かすり傷』第2章[商売のやり方]自分の手で金を稼げ

少し前まで私のロック画面はこの言葉だった。初見の人にはビビられた。(そりゃそーだ。)

要は、社畜になるなということ。
社会人になったら、自然と「精神的自立」と「経済的自立」どっちもできるという訳ではない。どっちかだけしている人もいるだろうし、上の言葉にみるように、どっちもしていない人もいるのだ。

どうやったら「精神的自立」も「経済的自立」もできるようになるのだろうか。手を動かして、追い求めて、自分で狩りに行って獲物を捕まえたときだろうか。「夢に手足を」生やしたときだろうか。

「精神的自立」と「経済的自立」どっちもできるのはいつからか。そんなのは人によるけれど、「精神的自立」の方がずっと大事な気がする。("気がする"だけなので、しっかり理論で学術的に示したい。)

「精神的自立」と「経済的自立」の2つが揃ったとき、人は自立する。自転車の補助輪を外したときのように、ふっと自分で走れるようになる。では、どんな条件が揃ったら、どんなコツが掴めたら、人は補助輪を外せるようになるのだろうか。あの一人で自転車に乗れたときの爽快感を味わえるのだろうか。(と、自転車乗れるまで3年くらいかかった私がつぶやきます。)

どんな条件が揃い、どんな知識やスキルを得たとき、人は「精神的自立」と「経済的自立」ができるのか。それが今探究したい問いだ。鍵はきっと「主体性」が握っている。生きることへの主体的な姿勢、学ぶことへの主体的な姿勢などなど…。主体的になることが、「自立」の第一歩かもしれない。


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