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「夢に手足を」

ほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)が掲げる言葉のひとつに「夢に手足を」という言葉がある。

夢に手足を「生やす」かな?「付ける」かな?

色々考えていたけれど、「生やす」がしっくりきたので、ここでは「生やす」という表現を採用する。これはさておき本題へ。

夢に手足を生やすために、人は学ぶ。むしろ、夢に手足を生やす以外に、学ぶ目的があるのだろうか。

学校ないしは自分で学ぶことによって、人は知識やスキルをつける。そうやって身につけた知識やスキルを使って、人は考え、作り、何かを世に生み出していく。そう、知識やスキルは、何かを生み出す=夢を叶えるための「手段」なのである。1+1=2という公式を覚える勉強自体が目的ではない。1+1=2という数学の公式を使って、解きたい問いを解いくことが目的だ。1+1=2は手段でしかない。

そうやって、人は学び、思考や創作を深め、「夢に手足を」生やしていくのではないだろうか。人は、自ら何かを作るなかで知識やスキルを得ていく。

私は社会人向けの専門スクールで働いている。昨日は、中間制作や卒業制作の発表会だった。半年間や1年間の学びを、1つの作品として作り上げ、発表する。どれも、やはり出発点となるのは、自分の問題意識や社会に感じている課題や希望だった。「夢」であった。それを小さく、形として作り上げている姿に「夢に手足を」という言葉が重なった。自分が4年間の学びの集大成として卒業論文を書き上げた感覚を思い出した。

自分が体得した知識やスキルを「手段」として使い、〇〇を解決する、〇〇を伝えるといった「目的」を実現する第一歩が踏み出せたとき、「夢に手足が」生えていく。

文章力というスキルも〇〇を伝えたいという「目的」を達成するために、書き続けるなかでその「手段」として磨かれる。グラフィックデザインのスキルも、〇〇を作りたいという「目的」の中でその手段として身に付くものだ。

これをジョン・デューイという教育者は「為すことによって学ぶ;Learning by Doing」、『経験主義』と言った。

究極、学校の意義は「夢に手足を」生やすところにあるのではないだろうか。こう問いを立てると、既存の公教育に疑問を持つ。

自分が接する周りの人(子ども、部下、後輩、他人)に「夢に手足を」生やす教育をできているだろうか?周りの人が「夢に手足を」生やせるようサポートしつつ、自分も「夢に手足を」生やしていこう。

サポートしていただいた後に起こること。 1 執筆するために行くカフェで注文するコーヒーがソイラテになる。 2 部屋に飾る花が1輪増える。 3 いつも行く温泉でサウナにも入る。