八条口、コンコース
「俺、ピアニスト目指してたの」
すごく綺麗な指してますね。
わたしがそう褒めたら、左手の薬指に銀色をキラリと馴染ませて、ニカッと笑った。
「あ、ごめん。嘘。なんの経歴もないしふっつーの会社員だよ」
黒く短い髪。
黒縁のメガネ。
切れ長の瞳。
大きな身長に不釣り合いなほど細い手足。
この人の奥さんも同じように細いのだろうか。
当時ハタチの小娘は「結婚」という2文字に憧れていた。例えば、プロポーズなんて女の夢の1つだと思っていたし、愛する人と歩むと決めたなら、「不倫」「昼顔妻」なんていう言葉はおぞましく感じた。
「プロポーズ、どんな風にしたんですか!」
お酒というものは時に恐ろしい。どう考えても出会って3分の人に尋ねる質問ではない。好奇心には勝てなかったのだと思う。
「チャペル付きのレストランでさ、跪いて指輪を渡したよ。あれが人生で1番緊張したかもしれない。」
ドラマでよくある満点のプロポーズ。
「むちゃくちゃ素敵じゃないですか。いいなあ、結婚って。」
そうかなあ、そう言ってジョッキに残ったビールをぐっと飲み干した。あ、喉仏がくっきり。
「もうそろそろ店出るみたいだから、良かったら連絡して。俺ら出張で来てるから、また会えるかわからないけど」
それだけ言い残すと、上司らしき人とお店を出ていった。プロポーズ満点だなんて、前言撤回。最低じゃないか、既婚者なのに。真面目そうな見た目にそぐわない一連の流れ。こういう所から不倫が始まるんだろうか、穢らわしい
不倫だなんて、
やはりお酒というものは時に恐ろしいものだと思う。勢いなのか、それとも本心だったのか。今になってはどうでもいいし、わかったところで何も変わらない。
【さっきお話したものです。メッセージ送れてますか?】
だって、恋愛経験の浅い小娘を刺すには充分だったのだ。
「むちゃくちゃタイプだったから、勇気出して声掛けてほんとうに良かったよ。またね。」
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