【発達障害ASDの長男#10】小学校6年の頃。
長男は、ASDとADHDグレー、発達性協調運動障害、軽度知的障害が先天的にあり、思春期の頃から、チック症を発症し、そのまま改善されずトゥレット症になりました。現在は20歳になりしっかり働いています。
前回の続きになります。
小学校5年生の頃から始まった、ゆる〜い受験準備。
そんな息子も6年生になり、中学受験も少しづつ進んでいた。
当時の息子の日常を思い出してみます。
お料理に目覚める
確か4年生の夏休みの宿題がきっかけで、料理に興味を持ち始めた。
夏休みの自由課題のような宿題で、「初めての料理」に挑戦。
その時作ったのが、フレンチトースト。
それ以来、息子はお料理に目覚めた。と言っても、何度も何度もフレンチトーストだけを作った。
それが6年生の頃になると、自分でカップラーメンを作る、袋ラーメンを作る、ご飯を炊く、お味噌汁を作る、と超定番のことをし始めた。これさえできれば、どうにか生きていけるよね、レベルのお料理。
最初はカップラーメンのためのお湯を沸かして、それを注ぐのを見るだけでも、ヒヤヒヤした。もう、怖くて見てられないくらい。
ちなみに、お味噌汁の具材は当時は、あまり入っていなくて、油揚げやワカメとか簡単な物だった。不思議とお味噌汁の味の濃さは私が作ったものと同じで驚いた。
相変わらずゲーム大好き。
ルールは守ってはいたが、ゲームが大好きだった。友達の家にもゲームつながりで遊びに行くようになり、放課後の楽しみも少しはできていた。
ただ、不思議なのは、必ずしも友達と同じゲームをしている訳ではなく、横に並んで、違うゲームをしたりしていた様子。男の子ってそんなもん?それとも特性?わからないけど、嫌じゃないから、いそいそと出かけていたんだと思う。
当時はまだスマホそのものもあまり普及しておらず、子供達はDSで遊んでいた。
何のゲームをしていたかまでは覚えていないけど、何個かソフトを買ってあげたのは覚えている。
がしかし、あの小さいソフト。。よく失くしていた。
ソフトを入れるためのケースまで買ったけど、失くす。
ちゃんと物の場所を決めておいても、その場所に戻すことがどうやらできない様子。今思えば、わかりにくかったのか、もう少ししっかりフォローした方が良かったのか、、、
勉強は散々でも、自己評価は高い。
学習面は、困難極まりなかった。ちょうど、息子が5年生の時から、ゆとり教育が終わった。急に教科書のボリュームが増え、ペースも早くなった。
正直、焼け石に水、という状態で、テストは大体20点〜30点あるかどうか。。
がしかし、親も子も悲壮感は全くなく、「生きていくのに支障のない程度」が中学卒業までに身につけばそれで良し、と思っていたので、正直、学習面の遅れについて、さほど興味がなかった。
先生にもうちの方針を説明し、宿題もできてなくても、できたところを褒めて頂き、もっというなら取り組もうとしたことを褒めて頂き、、、。
息子も、プライドが高いタイプでもなく、先生も息子なりの頑張りをちゃんと認めてくれたので、本人も頑張れることは頑張るけど、頑張れないことは頑張らない、という感じだった。
漢字の練習とか、頑張り方がわかりやすいものは、ちゃんとやるけど、あとは、ま〜、ゆる〜く。
6年ともなると、社会だって現代社会的な内容になるし、地理的な内容も覚えることが増える。理科も、重さとか磁石とか電気とか、なかなか難しい。実験もお客様状態にもなったりしていたと思う。
とにかく、担任の先生には、6年間ず〜〜〜〜〜〜っと恵まれていたので、自分を卑下することなく、過ごせた。
毎回、個人面談の度に、本人が書く「ふり返りカード」を見せてもらった。
ほとんどの項目において、「よくできている」に○がついていた。笑
そんな感じで自己評価が割と高めだったから、人のアドバイスも素直に聞ける子だったように思う。
当時やっていたこと
お絵かき工作のアトリエには相変わらず、週1で通った。その頃には、木材を切って色を塗り、タコ糸を使って、船を作ったり、結構本格的になっていた。先生がかなり手伝ってくれた様子だけど、とても楽しく通えていた。
通級教室にも相変わらず、週1回。私も付き添った。この頃はようやく、下の2人が幼稚園にいき、私は1人身軽に行くことができるようになった。
通級では、先生には「通級の日はシャツを着せるようにしてください」と言われた。中学に入ったら、制服になって、毎日シャツのボタンを何個も留めることになるから、今のうちにあの面倒臭い服に慣れた方が良いですよ、と。
当時は、主にTシャツやトレーナーで通学していたので、2、3枚シャツを買って、早速週に1回はシャツを着させた。結構時間がかかっていた。シャツの一番上のボタンなんか、最初、留められる日がくるんだろうか?というくらい苦戦していた。
また、グループ指導も続いていて、リコーダーの練習をしたり、ゲームをしたり、お話をしたりしていた。
一応、受験対策に算数のドリルを細々とやっていた。大体小学校4年生程度くらいで、足し算、引き算、掛け算、割り算と、それらの筆算。
受験対策っぽいことといえば、夏季講習、冬季講習だけは行かせた。
日常生活では、高学年くらいからは自分に必要な学用品、例えばノートや鉛筆なんかは、自分で買いに行かせたりしていた。(お金は渡しますよ!)余ったお金で、お菓子を買ってきたりもしていたけど、悪知恵ついたな、とちょっと嬉しくもあった。
当時は私もあまり難しいことは考えず、「なるようになるさ」スタイルで日常を送ることができていた。
受験失敗したらどうするの??
さぁ〜〜。って感じだった。
倍率は高いと聞いている。なので、落ちる確率も半分を超える。でも落ちたところで他に行くところは公立の中学校しかない。
さすがに、中学に入ったら個別支援級じゃないとなぁ、、とは思っていたが、、下の2人の幼稚園の役員をやったり、他のことで手の回らない日が続き、調べなきゃ、どっか連絡しなきゃ、とは思うものの、結局、何もせず。。
落ちたことを考えると、心配で仕方なくなったが、どこかで、
うちの息子はなんとなく、”持ってる”
と思っていた。なんだろう、、これぞ根拠のない自信。
息子は担任運も良い、そして、素直。だからきっと、幸運が舞い降りる、はず!!
息子が4年生の時に、私の父が63歳で亡くなった。当然、天を見上げて、
「お父さん、頼むわ。まじで。」と本気で頼んだりしていた。
あの頃、私も若かった〜。まだ、30代。
今の私なら、多分、受験対策のための情報収集、個別支援級に入れるべく調整作業、本人に「落ちたら個別級に行く」という提案をするための障害告知問題で頭を抱えていたと思う。ま、結果オーライだったので、良し。
男の子だから?
ざっと振り返ると、雑に向き合っていたな〜と思います。
反省点はたくさんありますが、長男に関しては反省はしません。
雑だけどポイントだけは逃さないように、その時にできることをしていたと思うから。根拠のない自信を持って育てていました。
しかし、、この頃もまだ靴紐は結べなかったな〜。家庭科のミシンとかどうしてたんだろう?謎です。。←こういうところが雑。
あまり参考にならないかもしれませんが、最後までお読み頂きありがとうございます😊
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