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なぜ今の学習指導要領が悪なのか

僕は近年の学校の混乱を招いた最も大きな要因は学習指導要領だと考えています。まともな話ばかりの要領がなぜ今日の学校の混乱を引き起こすことになったのか少しまとめてみようと思います。

多くの教師は読んでいない

小学校の学習指導要領をビニルの買い物袋にいれると破れてしまうくらいの分量です。改訂になってほとんどの教師は全教科を買うことになったと思いますが、多くの人はその10分の1も読んでいないと思います。多くの場合、開くのは授業公開で人に自分の授業を説明しなければならないときにくらいだと思います。文科省としては、誰でも(つまり学力の低い教師でも)、これを読めば一定水準の授業を成立できると考えたのでしょう。でも学びの力のない教師はあそこに書いてあることさえ、理解できないというのが現実です。次期学習指導要領では、漫画にした方がいいのではないかと思うくらいです。(実際教師向けの漫画本売れてますものね)
でも、多くの教師が読んでいないのなら学習指導要領が悪影響を及ぼすことないはずです。あの分厚い分量のどこに悪が隠れているのでしょうか。

悪は評価に隠れている

今の学習指導要領になって、評価の順番が変わりました。学びに向かう姿は3番目。1番目は知識理解です。そして2番目が思考力です。平成の始まりに行われた学習指導要領の改訂で、文部省はこう説明していました。
「評価の中で最も大切である、児童生徒の関心意欲態度を評価の最も上位として最初に掲げた」(まあ文は正確ではないけどこんな感じ)と。つまりそこからの少なくとも20年間は、今でいう学びに向かう姿が最も大切だと言われていました。その流れを変えたのがPISAです。日本の順位が大きく下がっているぞと報道されるようになり、その張本人として「ゆとり教育」が叩かれ始めます。と同時に、学びとは知識理解こそがという流れが押し寄せてきます。これと同時に全国学力状況調査で全国一斉都道府県対抗学力競争が始まりました。1ポイントでも低ければ現場では叱咤激励が飛び、教師はみな学力向上こそが学校の使命だと考えるようになります。この流れの中で学習指導要領の評価の最上位は、ついに知識理解となるわけです。つまり、学習指導要領にどんなに素晴らしいことが書かれていても、結局教科の最上位は、知識理解だと全ての教師は知ってしまったわけです。この改訂は、学習指導要領だけでなく、全国ほぼ全ての学校の通知表にも反映され、順序が入れ変わっているはずです。つまり、普段、学習指導要領など読まない教師も、新しい、これからの教育は「知識理解」が重要だと「改めて」認識してしまったのです。平成の前半では少なくとも(うそっぽくとも)「子どもの学びの姿こそが重要」だと言われていたはずです。

何が起こっているのか

ちょうど知識理解偏重になった頃から、学校は少しずつ荒れてきます。初めは見えにくかったところが、次第にそれは少しずつ少しずつ目に見えるようになりました。小学校が荒れているのも、中学校で不登校になるのも、その根は同じものです。それは「不安」です。そりゃ、当然です。今の学校を見渡せば、どの学校でも学力重視です。その学力は知識理解です。この流れに順応できる子どもはよいでしょうが、生まれつき学力の低い子ども、発達的な揺らぎで学びにくい子どもは、この流れには乗れず、不安は増大します。小学校でそれが現れやすいのは、男子で幼さが作用し暴れ出しますが、その裏では本当は女子も不安が増大しています。中学校になると、暴れていた男子の多くは成長が追いついてきて、暴れることが少なくなりますが、今度は学力がより鮮明になり、不安がさらに増大し、学校にこれなくなっていきます。学習が不安だから学校に行きたくないなんて言えませんから、友達が嫌だとか、先生と合わないだとか、いろいろと理由をつけて休みます。(もちろんですが、これが不登校の全てではありません。不登校の増大の原因としてです) ですから中学校で不登校になる生徒の多くは成績の低い子どものはずです。

解決の糸口はあるのか

ありません。もう一度、国をあげて教育とは何か、何が大事なのかを強力にメッセージを伝えない限り、今後も不安は増大し、学校は荒れていきます。日本は人口1億2000万の国ですから方向を変えるにも膨大な時間がかかります。もし、国が方針を変えるとしたらそれは2040年ごろじゃないかと思います。少なくとも次の学習指導要領では何一つ変わりません。おそらく、GIGAスクール構想の次世代版が改訂の中心になるはずです。でも、どんなに情報機器を使おうと子どもを救うことはありません。改訂の兆しが出てくるのは、学校の荒れがどうにもならず社会問題になって、検証が始まり、現行の学習指導要領の問題に気づいてからです。それまで20年でも足りないかもしれません。

僕らはどうすればいいのか

この潮流を今変えることなど誰もできません。でも、少なくとも目の前に子どもにはやれることはたくさんあります。荒れを鎮めることも、不登校をださないことも、あることやることだらけのはずです。そうです。目の前のことをやえばいいのです。僕らの力はそんなものでしかありません。でもそんな教師が一人でも多ければ、救われる子どもは何万、何十万と増えていきます。そのために、僕ら教師は、子どもの目の前に、どう育て、どう生きる力をもたせていくか、毎日悩みながら、そして淡々と続けていくしかないのです。でも、それこそが教師という姿だと僕は思うのです。



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