見出し画像

私の一部をつくっている本 梨木香歩『裏庭』

 何度も読み返す本がある。梨木香歩著『裏庭』だ。20代の頃、飛び抜けて好きな作家で、働き始めてから、この著者の本が出たらハードカバーで買うと決めて買っていた。それまでは、文庫版を買って(親のお金で買わせてもらって)何度も読み返していた。
 余談だが、本について話すとき、作家さんの名前を呼び捨てがちだが、先生と付けるべきか、さんづけでよいのか、呼び捨てでよいのか、実はいつもモヤっとしている。心の中では、先生と呼びたいくらい尊敬しているし、目の前にいらっしゃったら思わず先生と読んでしまうと想像する。しかし、先生と呼ばれたくない方もいるようだから、さんづけが妥当かしらとも思うのだけれど、紹介文中では何となく敬称を略したほうがしっくりくる気もするし、、、。そんなわけで、この文の中では気持ちによって敬称がついたりつかなかったり変化するかもしれないが、ご容赦いただきたい。
 さて、その梨木香歩の作品がたくさんある私の本棚だが、なかでも最も昔に手に入れたのが、ハードカバーの『裏庭』だ。
 小学校から配布される推薦図書の注文袋のようなもので、親にねだったのではないかと記憶している。小学6年生頃だったのではないか。
 それから、実家暮らしの多感な10代の間も、大学生になって一人暮らしをしても、結婚しても、今なお私の本棚にあり、何度も読み返している。

 実は、思春期に『西の魔女が死んだ』を読んで、梨木香歩が好きになり、あとから『裏庭』も梨木香歩の作品だということを知ったのだった。
 そうだ、私、この人の本、持ってる!と。
 つまり、それまでの間は、一度読んで本棚に仕舞われていた。子どもの頃の私は、記憶力も良かったし、一度読んだ本を何度も読むことはあまりなかった。というのは言い訳で、小学生の私には内容が「まだはやかった」のだった。
 私にとって、梨木香歩作品は、ときに寄辺であったり、在りたい姿だったり、心の安定剤であったりする。例えば、西の魔女に何度も救われて、からくらからくさで蓉子の在り方に憧れて、家守奇譚に心のペースを戻してもらう、といった具合に。そもそも、植物の豊かな描写や、地の文の空気感、そして、言葉たちが丁寧にできるだけ正確に選ばれているということが伝わってくるところが、私に合っているような気もする。あるいは、梨木香歩の著書を読んできたことで、自分のなかにそのような性質が育まれているとも言えるかもしれない。

 自分のライフステージによって読み返したくなる本が違うのだが、『裏庭』を何度も読み返している理由は何なのだろう。40歳の今になって読み返しても、この物語世界のすべてをわかったとは到底思えないので、もっとわかりたいからなのか、この本に、私が大事だと思うものが詰まっているからなのか。今であれば、子育て中ということが関係しているのか、とにかく、この物語を読む必要があるときが、私の人生に何度も訪れているということは間違いない。そのとき身体に足りない栄養素を補うかのように物語を読むことが、私にはあるので。

 子ども時代、本の虫だった私だが、息子が小さかった頃はとても読書をする時間も気力もなく、本を読まなくなった自分の変化に驚いたものだ。しかし最近、寝る前に本を読む余裕ができてきた。初めての小説を読むときは、先が気になり、つい止まらなくなり夜更かししがちだが、何度も読んでいる本は多少落ち着いて読める。(それでも心に決めた時間は簡単に過ぎてしまうのだが、)なんとか、途中でやめることができる。
 一昨日の夜、布団に横になり、読みかけた『裏庭』を開いていると、小4になる一人息子が
「何読んでるの」
と、私の脇に滑り込んできた。
 私はうれしくなって、本のあらすじを、息子が興味を持ちそうなところを強調して説明した。
 今は人の住んでいない荒れ果てたお屋敷にある大鏡、不思議な裏庭での冒険、、、。
「ふうん。その人の本、お母さんいっぱい持ってるよね。おもしろい?」
 いつもなら、うん、おもしろいよ!とかおすすめだよ!とか言うところだが、一昨日の私は少し考えたあと、
「うーん、あのねえ、もしかすると、この本はお母さんの一部をつくった本と言えるかもしれない。」 
と答えた。彼としては、予想外の返事に、いつもとは違う方向に興味が湧いたようだ。
「へえ。」
と言ったその声色は、私にとっても予想外に好意的に、関心があるように響いた。
 ならば、と、本を閉じ、表紙を触りながら、この本をいつ買ってもらったのか、そして、何度も読み返していることを話した。
 『裏庭』の照美が持つほどの深い寂しさは今のところ持っていなさそうな息子(決めつけはいけないね、既に彼がいくつか小さな傷を持っていることは感じている)、しかもまだ小4、やっぱり「まだはやい」のだろうが、久しぶりに読み聞かせをしてみることにした。子どものための読み聞かせをしたというよりは、宝物を自慢するような気持ちで読んだというほうが正しい。
「ちょっと怖いけど、ワクワクする。あと、ちょっと難しい。」
「うん、そうだよね。いつか、もう少し大きくなったら読んでみてね。」
 こんな風に、もう少し大きくなったら読んでほしい本がいくつもあり、彼の成長の少し先に合わせて、私だけの扉のついた本棚から、リビングの本棚へ移動している。いつか、息子が手持ち無沙汰のときなんかに、視界に本棚が目に入って、なんだか気になって、気がついたら手にとって、読み始めてしまう、そんなときを想像しながら。『裏庭』は、まだ私だけの本棚にあるけれど、いつか移動させようか、それともこのまま私だけの本棚に置こうか、まだもう少し考える時間はあるかもしれない。
 さて、何を書きたかったかというと、この本が私の一部をつくった、そしてこれからもつくっていくだろうということを自分が言語化したときのことを、とにかく記録しておきたかったというわけである。
 出版社宛てにファンレターを書きたくもなったのだが、ファンレターはもっと「好きです、頑張ってください、これからも応援しています」というものかもしれない。偉人の人格の一部を形成しているならともかく、私だしな、と、そこですかさず卑屈な自分が顔を出す。手紙というのは、害がない内容ならきっとご本人に届けていただけるだろうし、届いたからには、時間を使って読んでいただくことになるだろうし、せっかく読んでいただけるなら、読んでよかったと思われたい、でも、自信無し。そんなわけで、noteに記すのみにした。でも、あわよくば、noteを読んだどなたかからご本人の耳に入ったらうれしい、という気持ちも実はある。ただ、梨木香歩さんの作品に感謝している人間が、ここにもいます、と。
 梨木香歩さんに感謝を込めて。『裏庭』をはじめとする数々の物語に感謝を込めて。
 他にも、私の一部をつくっている様々な作家さんの様々な物語に、感謝を込めて。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートいただけたら本当に嬉しいです。