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「e-sports」という言葉について (2) ”スポーツ"は"ゲーム"より尊いのか

 前回に続いて何の役にも立たない独り言を。前回の(1)では、私が考える海外における「ゲーム」と「スポーツ」の定義の違いについて書きましたが(下にリンクを張っておきます)、今回は主に国内についてのお話。

 「e-sports」という言葉が国内でも頻繁に使われるようになりましたが、私がその普及過程を見ていて感じるのは、日本における「ゲーム」の価値の低さと、対象的に「スポーツ」に対する評価の高さ
 「ゲーム」と言っちゃうと社会の受け止めもいろいろあれだけど「スポーツ(e-sports)」って言っておけばいろいろと受けがいい。だからそう言っておこうぜみたいな雰囲気を、意図的、無意識の別はあるとしてもどうしても感じてしまうのです。

 新しい言葉(名称)を名乗ることで、それまでの言葉が持っていたネガティブイメージを薄めてポジティブなものとして売り出していくのは、経済社会の常であちらこちらで行われているものですので、それ自体を非難しようとは思いません。

 私も日本人ですので、業界人として自治体に「ゲーム大会を主催しましょう!」と提案すれば「はあ?なんで役所がわざわざ」みたいな反応が返ってくるだろうけど、「e-sports大会をやってみませんか?」といえば「ふむふむ」みたいな反応が返ってきそうだというのはわかる。
 学校で先生に「ゲーム部作りたいんです!」といえば速攻で却下されそうなのが「e-sports部作りたいんです!」といえばとりあえず話は聞いてくれそうな気がする(笑)日本の社会はそうなっているというのはわかるんです。

 なんでこうなるかというと、日本においては「ゲーム」の価値が低く、対象的に「スポーツ」が非常に良いもの、素晴らしいものと受け止められていることの表れだと私は思うのです。

 日経新聞で「私の履歴書」に出てきそうな、経営者などのいわゆるビジネス的成功をおさめた人のインタビュー記事によくある略歴紹介で、趣味の欄でテニスやゴルフとかのスポーツはそれなりにあるけど、ゲームと言うのはいまだに見たことがない(笑)スポーツ選手とか芸能人だと時々見るようになりましたけど。
 「ゲーム」はただの暇つぶしで時間のムダであり、いい大人がやるのはちょっと…。そんな価値観はいくらか薄まったとは言え、まだ日本の社会に根強くあると思います。
 一方、「スポーツ」にはそんなイメージはなくて。年をとっても熱心にしている人は、活気のある若々しい方みたいな扱われ方をする。同じ余暇の遊びなのにこの差は何なのかと。

 ここからは個人的暴論になるのですが、日本における「スポーツ」はいまだ「体育」の呪縛から脱しきれていないと思っています。
 「グランツーリスモが国体の種目になった!」と喜ぶ声を多く目にしましたが、あれ「国民体育大会」なんです。「国民スポーツ大会」ではない。
 名称は歴史的な名残でしかないとも言えばそれまでですが、歴史的にはそういう経緯だという事実と、その名残を変えられないという事実は結構重く深いものがあると私は思っています。

 そもそも外国から伝来する前、日本に「スポーツ」的な概念があったのかと言うと、多分なかったところで。
 運動を中心とした「スポーツ」の概念が日本に入ってきたのは明治以降となりますが、それまでの日本で身体を動かす”運動”と言うと武道がもっとも身近だったわけです。ですので、日本でまず起きたのは武道のスポーツ化でした。
 武士道という言葉がありますが、やっぱり日本の歴史において武道は遊びではなく、精神面も含めた鍛錬であり修養の要素を色濃く持つ
 この日本人にとって身近だった武道の価値観がスポーツと融合していく過程で、外国でのスポーツが母体としていた「遊び」の要素は、日本においては限りなく薄まっていきます。加えて、当時の富国強兵の時代背景もあって「スポーツ」は”遊び”よりも”鍛錬”の要素を強く帯びるようになります

 そして、鍛錬であり修養である以上、日本では「スポーツ」を「体育」として学校で教えるようになっていく。更には、日本特有の部活動というシステムが構築され(詳しい経緯は教育史など歴史の専門家に譲りますが)、教育の一環として運動(=スポーツ)を行うという認識が現在までの日本社会に根強く形成されてきました。

 学校は教育の場所ですので、学校で教えるということは、生きる上で役に立ち、自分を成長させるものという定義が社会的にされていることになります。何の役にも立たない、暇つぶしの遊びではないのです。
 上で経営者のインタビューにスポーツが出てゲームは出てこないということを書きましたが、結局、スポーツは自己研鑽であり、年をとっても読書等と同じように、自分が成長するための努力を怠っていないという社会へのアピールなのです。ゲームを自己研鑽と捉える考え方は日本にはなかなかない。

 こういう日本社会の評価の違いが「スポーツ」は尊いものであるが、「ゲーム」は生きる上で役に立つ価値のあるものではない、という捉え方につながっていると思います。
 私は若い頃からずっと、もっと「ゲーム」=「遊び」の価値を日本の社会が認める方向になればいいと強く願ってきましたが、それなりの時間生きてきた中でいろいろ社会の価値観は変わりましたけど(喫煙なんて三十年間で劇的に変化しましたから)、ここらへんは全然変わらなかったなというのが偽らざる実感。

 さて、この記事で私が伝えたいのは、こういう外国と異なる日本社会独特の「スポーツ」に対する捉え方のもとで、「ゲーム」を「e-sports」化して日本特有の「スポーツ」の枠組みに入れてしまって本当に大丈夫なのか?という危惧が拭えないということ。

 まとめると、外国では運動などの「遊び」を肯定し幅広く楽しむ土壌が一定あって、その上で遊びに秀でたやつが勝敗に注力する「スポーツ(競技)」としての楽しみ方が確立していると。
 一方、日本では「遊び」を肯定する文化が乏しい代わりに、「スポーツ」を学校で教え「人間的成長」の場として社会が扱うことで、「スポーツ(競技)」が持つ熾烈な優勝劣敗のシビアさを緩和してきたと。

 シビアさの緩和について補足すると、一部の強豪校を除けば日本の学校の部活動は、教育として行われている以上、競技レベルは二の次でした。
 そもそも指導者(顧問)もその競技の専門家ではないですし、私自身も経験していますが、下手くそでいつも一回戦敗退でも「努力の大切さを知った」「友人ができた」「キャプテンをやって人間関係について学んだ」とか人間的成長が果たされればそれでよかったのです。
 実力的には少し劣るけど、ずっと努力してきた最終学年の生徒を出場させるというシーンを時折見ますが、パフォーマンス以外で評価するのも教育だからこそと言えるでしょう。
 また、私立の強豪校は別として、普通の学校の部活動は「下手だから」という理由で入部を拒むことはないでしょう。それも下手だから排除してしまったらそれは「教育」ではないからです。これらの感覚は、多くの学校にあるごく普通の運動部活動にいた方なら理解できるのではないでしょうか。
 日本のスポーツの大部分は教育的価値観と深く結びつくことで、競技能力以外の評価軸を併せ持って運営されてきた。これが私の言う優勝劣敗のシビアさの緩和です。

 ところが「e-sports」はいまのところ、学校で教えたり部活動がある教育の枠組みには入っていない。となると、将来の選手となる若年層は、各個人なり競技チームに所属しての活動になると思いますが、そこにはランク付けがもたらす剥き出しの優勝劣敗が指し示す「競技性」しかないわけです。

 いろんなe-sports施設が「子どもたちが活動しています!〇〇君はタイムが縮みました、今日は〇〇選手の指導を受けました」と活動紹介しているのをSNSで見ます。もちろん悪いことではないのですが、才能がなくていくらやってもタイムが縮まない子や、友達にどうやっても勝てない子にはどうやって接していくのかな、そのへんは考えがあるのかな?と思うのです。

 別記事でもかつて書きましたが、生きていく上で、勉強(受験)を筆頭に、ランク付けされて他人と比較されていくものは他にいくらでもあるわけです。
 そこからの息抜きがゲーム(遊び)であるはずなのに、そのゲームでもランキングの上げ下げが中心の楽しみ方となったとき、上手くプレイできない人がそれでもそのゲームを楽しもうとするのだろうかと。

 個人的に興味深いのが、誰もが認める日本の誇るゲームメーカーである任天堂が「e-sports」の流れには非常に慎重に構えているようにみえることです。
 マリオカートやスプラトゥーンあたりはばりばりe-sports向きのタイトルだと思いますが、あえてその方向にいかないようにゲームをデザインしているのは間違いないと思います。
 私は、任天堂は「ゲーム」の「e-sports」化が本当にゲームの裾野を広げるのかを慎重に見定めようとしているのではないのかと推測しています。

※この辺は以下のネット記事が私の伝えたいことをだいたい説明してくれているので紹介させていただきます。

 最後に思いっきり毒舌をぶちかませば、昨今の「e-sports」という言葉の扱い方を見るに軽薄さが拭えないというのが私の思い。
 流行り言葉に乗っかる人間はどこにでもいますが、ここまでお読みいただいた方には、「e-sports」を声高に口にする方々が、本当にゲームに対する社会的評価の向上や、ゲーム業界全体の発展や裾野の拡大を考えているのか、そして行動がそれらに資するものとなっているかぜひ見定めていただくよう切にお願いをしてこの記事を終わりにしたいと思います。

※ますますフォロワーさんが減りそうな内容になりましたが、あと一回、歴史と文化の違いも踏まえた「スポーツマンシップとフェアプレイ」辺りについて論じたいと思っていますので、奇特な方はお付き合いいただければと思います。