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【感想】写真集『いくつかある光の』 木原千裕 

写真家の木村千裕さんが、友人でも恋人でも無い「他者」を撮った写真集、『いくつか ある光の』を読んだ。
写真展に訪れていた被写体と知り合い、彼女が暮らす東北の街に4度訪問し、撮ったのだという。まったくの他人でもないが、友人でもない、名称を持たない関係性・間柄を、そのままに撮影する試みだそうだ。
いちど開くと最後まで読み進めてしまう、そういう力のある写真集だった。

知らない町に向かうときに、乗り物の胃袋の中で感じる自分自身の異物感であったり、肌を撫でる風の冷たさであったり。
そういうものが全部あいまって、とてもさびしい気持ちになる。

そう、とてもさびしい写真集である。 
そもそも他者と関わること自体が、とてもさびしい行為だから、他者を写した写真もまた、さびしい写真になるのだと思う。

我々は人と永遠に関わり続けることはできない。
二人でベッドに入っても、目を閉じるときは一人だ。誰かと出会うことは、別れについての想像をいったん保留することでもある。
他人のあたたかさを感じながら、多くの前提条件で理論武装した自分に気がついて、しばしばひどくさびしい気持ちになってしまう。
まぶたを閉じて一人きりになったときに、だいたいそういうことを考えている。

この写真集は、撮影者が被写体の住む町に向かう道中の写真から始まる。
福岡から飛行機で東京に向かい、そこから高速バスで石巻に向かう。
自分の身体が少しずつ、知らない場所に運ばれていく。何度も反復されて記憶された街が遠ざかっていく。
乗り合わせた人々には、それぞれに様々な目的地を持ち合わせている。
目的地。自分にとっての目的地とはなんなのか。
これから向かう場所に期待が無いと言えば嘘になる。しかし、その一方で徒労に終わるのではないかとも考える。だいいち、これから会う人とはただ一度会ったきりなのだ。ただひとつの成果も無く帰路に着く可能性だって十分にある。あらかじめ諦めておく、いや、できるだけ何も考えず、「ただ移動すること」に意識を向ける。
車窓を写した写真からは、そうした心情を想像してしまう。

そこからは、石巻に住む被写体の家の写真が続く。古い平家だろうか。生活感のある部屋、車の助手席、いちごのビニールハウス(被写体の方の生業だろうか)、犬の散歩、花火大会への道、街を一望する丘。

一連の写真を眺めていると、否が応でもこの2人の関係性について考えてしまう。考えさせられる。
僕たちは、あるモノに名前がついていないことに耐えられない。人に会えば名前をたずねるし、動物を拾ってきたら名前をつける。自分だけが見つけた知らない感情を表現する言葉を探してしまう。
名前をつけると、漠然とした大きなものから把握可能なものになる。あるいは、把握可能だと考えるようになる。
旅路の胸懐を想像するように、この二人の間の会話を補完してみようとしてみても、その声は壁の向こうの囁き声のように形をなすことがない。
写真集に収められた写真には、二人のヴォイスが満ちている。にも関わらず、そこから掬い上げられる言葉はとても少ない。ぽつりぽつりとした会話がふと途切れた瞬間ばかりが写っているような気さえする。だとすれば、その写真に写らない時間に交わされた会話があるのだろう。
なぜ、僕らの思考はこんなにも視覚に依存しているのだろう。五感では感じられぬものを想像できる一方で、しばしばそれらが全て間違っているのに、なぜそれでもすがってしまうのだろう。

写真集は4度の訪問にあわせて、4つの章に分かれている。
ページをめくるたびに時間が経過しているはずで、二人の写真もどこか親密な雰囲気が満ちていく。残りのページが少なくなっていき、写真集は唐突に終わる。二人をのぞき見していた僕は、唐突に自分の部屋に立ち返ってくる。全編を通じてカタルシスがあるわけでもなければ、美しく終わるわけでもない。それでも、ミニシアターで短編映画を見終えたあとのような「くぐり抜けてきたような感覚」が、目の奥にジッと焼き付くのだ。その感覚の正体をぼんやりとさぐりながら、僕は僕の生活をはじめる。

いい物語とは、入り口があり出口があるものである。
読者を引き込んで返さない物語があるならば、少なからず悪しきものが含まれうる。
その点、この写真集は、便宜上入り口が設定されているものの、終わりはない。二人の邂逅は、始まりと終わりこそあれど、入り口と出口はない。写真集はそもそも物語ではないから当然ではある。
けれども、どことなく物語的に消費されることへの抵抗を含んでいるようにも感じられる。

二人は、見慣れた町や見慣れない町に住む一人一人にすぎず、それがたまたま写真集という車窓に写り込んでいるにすぎない。
観賞する我々は、踏み切りを待つ二人を、一瞬認識する。会話もなくたたずむ二人の姿に、一瞬の会話を想像し、それらはたちまちに後ろに去っていく。観測しなければ、存在しない関係性。
我々が、街を歩きながら斬り結ぶ他者との関係性と、この写真集の二人との違いは、ただ写真(あるいは他のあらゆる方法)によって定着しているか否かにすぎないのではないかと思う。
写真として定着する過程で、嫌が応でもこびりつくべたべたとしたエゴ。順序を決めて並べることで生まれるストーリー。あらゆる写真は、暴力的に現実を加工してこの世界に生まれ落ちる。
にも関わらず、この写真集におさめられた写真は、たまらなくさびしいのに、どこかあたたかい。
読み終えたあと、玄関のドアを閉めて街に出たとき、あらためて自分が様々な関係性に巻き込まれていることを突きつけられる。写真集におさめられた写真を一瞬想像してから、関係性の渦の中に自分を置いて、生活がはじまる。

はたして、そのひとつひとつに名前が必要なのだろうか?

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