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 ある日、自分が耳だけになっていることに気づいた。鏡で自分の顔を覗いたら、顔と頭がまるごと消えていて、耳しか映っていなかったのである。私は一瞬ギョッとしたものの、物事に動じない質であるから、まずは現象の解析が必要だと考えて、見たままを受け入れることにした。

 体調は、悪くない。むしろ平素の憂鬱感からくる倦怠もなくて、すこぶる気分が良いし、視力が維持されていることからして、眼やその他の器官は、認識できないだけで、物理的に消失したわけではないようだ。身だしなみの問題などがわからないのは難点だけれども、生命の維持にはそれほど大きな影響がなさそうである。社会活動の維持には多少影響するかもしれないが、他人からどう見えているかはわからない。自分の身だけに何やら異変が起きていて、他の人類はこれまで通りの世界に生きていることだって充分考えられるのだから。

 私は、なるほど、これはあれだ、時々文学にかまけた精神薄弱者が陥るやつだ、ゴーゴリの『鼻』みたいなものだなと一人合点した。かの作品においては、鼻のみが全人格の代表として行動するわけであるので、耳だけの人間であっても何ら問題はなかろう。むしろ、ついに自分にもこのような文学的かつ美的な幻想が降りかかるようになったのだ、これは災難ではなくてむしろ思わぬ僥倖ぎょうこうだと、一人合点してニヤつきながら、見えない身体を手探りして身支度を整えた。

 いつもどおり紳士の象徴であるグレー・フランネルの三つ揃えスーツを身につけ、英国製の革靴に足を滑り込ませたが、多少スタイルにこだわりのある私にとって、それらも着衣の瞬間に見えなくなってしまったことだけは残念であった。そうして改めて全身を見て、完全に耳だけが浮かんでいる格好になっていることを確認した。鏡の前で屈伸をしてみて、耳だけが蝶々のようにひらひら翔んでいる様子を演出し、悪くないと悦に入った。奇術的な光景を目の当たりにして私はようやく愉快な気持ちを増し、街行く人もやはり耳だけになっているのだろうかと心躍らせつつ、いつものように家を出た。

 果たして、朝の出勤時間に街ですれ違う多くの人々は、耳以外が見えていた。正確には、耳だけの人もいるにはいたが、大半の人は耳以外の部分だけが可視領域となっていた。しかし、全身が見えている人は現れず、人々は実に多様な姿形をしていた。頭の上半分、それも額のあたりから後頭部にかけての部分しかない人が比較的多いようにも思われた。

 道行く人々、というより身体の欠片たちは、私を見ているのか見ないのか、いずれにせよこちらを訝しむ雰囲気は感じない。つまり彼らにとって私は以前のとおりの全身が見えているに違いない。あるいは世界全体が転轍され、身体の一部のみが見えることに違和感のない線上パラレル・ワールドに移り変わってしまったのかもしれないが、それはそれで別段問題はあるまい。どちらにせよ私はこの世界において異端者になったわけでもないようだ。

 とはいえ、やはり各人の見え方が均質でないことは気にかかる。私は、出来損ないの機械工場のように不揃いな身体のパーツが目の前に次々と送り込まれる光景を目の当たりにして初めて、若干の気持ちの悪さを覚え、自分が脳病または眼疾、あるいは何らかの精神疾患にかかったのではないかと疑いをもった。

 私は平生を装いつつ、さらに観察を続けた。市井の人々は、顔の一部分だけの人以外に、他にも腕だけが確認できる人、顔全体が浮き出た人、胸のあたりだけが見えている人、中には局部のあたりのみが残っている人もいた。さらによく分析してみると、顔だけの人は例外なく目鼻立ちのはっきりした、化粧の濃い人々である。腕だけの人は上腕二頭筋を中心としてたくましく、筋肉質である。

 だんだんと眩暈めまいをおぼえながら数十人を観察しているうちに、どことなく見え方の傾向性が了解されるべく思われた。どうやらその人を象徴する部分か、もしくは自信の有る部位が私にとっての可視部分となっているらしい。腕のみ見えている人はその上腕二頭筋が、顔のみ見えている人はその顔の美しさが、頭部のみ見えている人は、さしずめ頭の良さに自信があるといったところだろうか。自信のある部分を定義するにあたっては、形相と本質との区別はないようだ。

 通勤列車に乗り込んだとき、奇妙な人体パーツ展覧会場のような空間に放り込まれて、私はようやく眩暈に身を任せることを覚え、状況を楽しむ余裕が生まれた。そして、視角から飛び込んでくるひとつひとつの新しさに、喜悦していた。車内では日々、その密度に辟易しているところであるが、それぞれの人間の身体の思い思いのパーツだけが浮き上がって透けて見える有様は、想像以上にストレスを忘れさせてくれた。のみならず、生まれて初めてといって良いほど愉快な通勤時間を過ごした。私は再び、すっかり元気を取り戻していた。

 人間の順応力とは優秀なものだ。私はその日の午前中には、眼前に広がる(自分の眼があるかどうかもわからないのに眼前とはおかしなものだが、なぜか見えるのである)世界の奇妙な光景に慣れてしまっていた。職場の同僚たちが、どの部分に自信を持っているのかが一目でわかるのだから、各人の性格を見透かしているようで面白い。例えばいつもとんちんかんなことばかり言っている上司の眼だけが浮き上がっているのを発見した。彼はとんちんかんな眼でいつものとんちんかんな音声を発しているのだった。私は、見る目がないこの人は目に自信があるつもりだったのかと心で嗤った。

 しかし、もともと好意を感じていた同僚に対しては、見てはいけないものを見た気がして、接するのが申し訳ない気分になった。ミスの多い自分をいつもフォローしてくれる、体型は華奢でありながら理知的かつ頼もしく、優しく鷹揚な先輩職員に会ったとき、その人の局部のみが晒されていたことは、私を棍棒で殴りつけるように驚愕させ、唖然たらしめたのである。私はつとめて、その意味を解釈しないよう心掛けた。また、女性職員ともなるとますます目のやり場に困る場合があったことは言うまでもないが、詳細は伏せることが君子の嗜みであろう。

 しかし他方で、浮き上がる身体のパーツたちを眺めていると、なんとなくこの薄気味悪いパーツたち同士は、他の個所も見えているように動いているように思われたし、互いの不可視部分を不自然さなしに認識しているようでもある。そうすると、やはりこの一部分しか見えない現象という現象は私だけに齎されているようであった。

 つまり、その人についての見たいもののみを、あるいはその人の見せたいと思っているであろうもののみを、選び取って見ることに、私の眼が、あるいは意思が、意識が、決めたのではないだろうか。私の中で人間の概念が変わってしまった、あるいは自分の意識が働きかけて見方を変えてしまったのではないだろうか。これまで私は、ヒトは当然に肉体と精神を持つと考えていた。しかしそうではないのだ。ヒトとは物質と非物質が混濁一体となった概念にすぎぬのだ。そうではないことから始めて、私は、一度人間の存在を肉体と精神はもちろん、肉体の細部や精神を形成する各構造に細かく解体したうえで、必要とする見るべきものだけを選択することにしたのではなかろうか。

 しからば自分に耳だけが残っていて、それを失われたはずの目で見ているという現象をいかに理解すべきであるか。自分について耳だけを自分を代表する概念として選び取ったことは何を意味するか。私は、先に人間の長けた部分、自信のある部分だけが見えていると考えたとき、私に関して耳だけが見えていることについて、自分の聴く力、すなわち傾聴に長けていることに自負を持っているためだと推測していた。しかし一方で、私の耳は役に立たないことも知っていた。肝心なことを聞き逃し、うるさい音や破裂音に弱くてすぐにへこたれる。いったい私の耳とは、いかなる存在意義のもとに、いかなる機能を果たしていたのであるか。

 突如身に降った異変を楽しがっていた私も、夕暮れ時にはさすがに疲弊し、朝の電車の中でのように、再び気分が悪くなった。これが毎日続くのは厳しいと思えた。ならば、どうせ見えないことは多いのだから、全てを見ようとしないことに決めた。自分の意志が見たい部分だけ見ようとしているのであれば、人間という概念自体を排除してしまえばよい。見なければいいのだ。そうして全部消してしまって、やがて人間という存在がすべて見えなくなってしまうような気がした。帰宅途中に見た行き交う人々がどんな姿をしていたか、もはや覚えていなかった。よろめきながら自宅にたどり着いて、そのまま泥のように意識の底に沈んだ。

 幸か不幸か、翌朝、世界の見え方は元に戻っていた。初めから何もかもが夢であったかのようだったが、うっすらと生えた無精ひげは、昨日怖くて髭剃りができなかった事実を証明していた。鏡の中の私の耳は宙に浮かず、一昨日までのとぼけた顔もはっきり映っており、その傍らの相応しい場所ですましていた。私はため息をひとつ吐き出して、人間の全体像とやらがおもむろに眼前に示される、味気ない生活に戻った。一昨日よりも人間の輪郭と色彩が濃いような気がした。世界はなんとも有難迷惑だと思った。





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