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周回遅れの男

 コロナに罹患した。今さら、である。私の人生ではいつもこんなふうに、何かを踏み出そうとしたときに出鼻をくじくような感じで、少し流行から外れたようなものが一周遅れてやってくるようだ。思えばこの4月の初めはたくさんの新しい出来事に遭遇し、さらに仕事においても予想外の事態があって多忙が続いたため、心身に負荷がかかったと思われる。

 コロナ罹患者の症状の辛さについては様々な人々によって記録されているとおりだが、多くの人が証言しているのと同様、私が今回もっとも辛かったのは喉の痛みであった。その痛みについては、何本もの針で刺すような痛みとか、鉈で喉を斬られているような痛みとか言われているが、私の場合は、炎症が大きく広がっていたせいか、喉の奥に、番手が100番以下の粗目の紙やすりをゴシゴシと擦り付けられているような、広く面で傷つけられている感覚に常に襲われていた。鏡で喉の奥を見てみると、口蓋垂(のどちんこ)が、鉄条網から脱走して血みどろになった脱獄者のように、赤く斑に染め上がっているのが確認できた。

 コロナウイルスと対峙してみて思ったのは、連中の人体侵蝕手法は実に知能的であるということだ。生命体に起こりうるありとあらゆる矛盾を押し付けてきて、戦略的に命を奪おうとしてくる。例えば喉の痛みに耐えかねて食事をしないでいると当然空腹になってくるが、止むに止まれず飲食すると、今度は喉を経由する最高の痛みでお灸をすえられるのはもちろん、吐き気までおまけでつけて食わせないように仕向けられる。
 あるいはまた、喉が乾燥して喉が痛くなるので、多少の湿気を求めてマスクを着用すると、今度は呼吸困難を発生させて苦しめる。たまりかねてマスクを外せば、今度は再び喉が乾燥してチリチリと痛みを呼び起こす。
 発熱が辛くて身体を冷やせば、寒気を引き起こす。寒気を放置すれば再び熱っぽさが襲ってきて、身体を冷やせと唆す――

 まさしく無間地獄とはこのことだが、それにしてもウイルスの目的とはいったいなんなのか。自分達が寄生した宿主の生命が奪われれば自分たちの存在も脅かされるのに、そうまでして命を狙ってくる理由はなんなのだろうと不可思議極まりない。互いにメリットを享受しあいながら共生するほうがいいはずなのに、そういう手ぬるい連中ではない。話し合いは通用せず、一方的に命を脅かしてくる。しかし何らか話し合いの取っ掛かりはないのか…

 病院で薬の処方を受け、親族や知人からは療養のアドバイスをもらったが、基本的には休んで耐えることになる。同居家族がいないため、家の中で同居人から隔離されるわびしさを感じる必要こそないものの、ちょっとした買い出しさえも頼めないことは不便である。誰からも看病されないという不安もある。容体が急変して救急車すら呼べない場合、一人暮らしでは誰も異変に気づく人間がいないわけだから、それはそれとして諦めるしかない。一人で戦うことはなかなか困難であるが、自分の身体に向き合って一人で戦うことには慣れている。これまでもそうしてきた。

 コロナと人間関係といえば、それが真っ盛りの頃、ちょうど2年前の2022年4月のネットニュースに、「「孤独感ある」30代が最多 コロナで深刻化 自殺の背景にも」という記事があった(毎日新聞配信)。記事そのものは標題どおりの内容で特に印象に残っていないのだが、以下のようなコメントがあって、なにか自分の心持ちを代弁しているようでもあったので、メモしておいた。

「孤独は山になく、街にある」という言葉があるが、まさに都会に暮らす人間の実態を現してる。孤独の正体は人と人との距離感。人が多ければ寂しくないなんて事は決してない。人が多いのに誰とも繋がっていない事の方がよっぽど寂しいのだ。私自身の経験に置き換えてもそれは分かる。30代の独身の男が街を歩き、未来のある若いカップルや同世代の家庭持ちを見る時、自分だけ暗闇の中でスポットライトが当てられたような感覚に陥る事がある。データでは生涯未婚率は年々高まっているが、都内の公園などを歩けば本当に自分以外に結婚していない人なんているのか、と思うくらいたくさんの家族がワイワイ楽しそうにしている。でもネットを見ると、どうやら私と同じような人間も多くいるようだ。一体何が現実なのか良く分からなくなってくる。

匿名ユーザによるニュース記事へのコメント

 私はもはや30代ではないし、社会的立場を他人と比較して焦ったりする気持ちも相当薄れているが、こういう感慨を見ると過去の自分に立ち戻ったような気になる。街を歩けばどこかしこにも親子連れがいて、子供があちこちで元気に駆け回っている。いったい未婚率の上昇や少子化というのは現実の事態なのかと思う。自分だけが自分に都合の良い情報だけを自分に言い聞かせて生きているのではないか、今見ている世の中は現実ではないのではないか…

 コロナ現象の最大の弊害は人間社会の分断であると常々考えてきており、コロナ前とコロナ後では人間関係のあり方が大きく変わったのは巷説のとおりである。職場において、接触を避けるという名目で気に入らない・興味のない他人と深く関わらなくなり、飲み会を通じた半分オフィシャルで半分プライベートな付き合いといったものも皆無となり、人の思わぬ一面に触れるということはなくなった。付き合いは業務の範囲だけとなり、50人ほどの部署でありながら、新任の同僚の顔と名前さえ一致しないという事態になっている。付き合いの多かった人間を分断して孤立させただけでなく、もともと孤独な人間までもさらに孤独に追いやってしまったことはコロナ禍の容赦ない害悪である。

 人生に早いも遅いもないと頭では解しつつ、どうしようもない自分の生き方の周回遅れという現実を、コロナによって改めて突きつけられた。そういった感傷を淡々と乗り越えた先に、豊かな人生の終着点に向かう道筋があるのだろうと思うが、自分の心持次第で試練はいくらでも積みあがるのだろう。そしてまた、うだうだと周回遅れを繰り返す。そんな心の疼きを思い出す前に、まずは残っている喉の痛みなどの諸症状を取り除かねばならないのだが。





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