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繊細な人よ、完全無穴なれ

 最近ある種のブームのようによく聞くようになった「繊細さん」、すなわちHSP:Highly Sensitive Personという言葉を初めて耳にした時に、その定義からして自分に当てはまるに違いないと思った。そして、こんな人がそれに該当しますというチェックリストをやってみたら、予想通りほとんど当てはまっていたので、驚きもせずショックも受けなくて、まあそれはそうだろうなという感想だった。

 なにしろ大きな音や破裂音に敏感だ。子供のころから音に苦手意識があった。怪獣映画などは内容うんぬん以前に叫び声などの音が怖くて観られなかったし、ウルトラマンのようなヒーローものでさえ、憧れるどころか怖がって泣いていたらしいことを、物心ついてから親に聞かされたことがある。5~6歳の時分だったか、盤上のたくさんの小さな穴に逆U字型の金具を挿し込んでいき、盤の下でランダムに変化している回路が通じると大きなブザーが鳴る「ジャンクション」という卓上ゲームがあって、それが始まると怖くて近寄れなかった。いい大人になった今でさえ、職場で使われている安物のPCのカチャカチャ、バシッバシッという落ち着きのない、神経を逆なでするキーボードの音が耐えがたく、耳栓を装着しなければ仕事にならない。見て見ぬふりをしてくれる周囲の同僚の優しさはありがたくもあるが、その気遣いがあるならキーボードを静かに叩いてくれてもいいのにと考えもするのだけれど、それはそれ、なのだろう。20歳くらいの頃には、友人に連れられて、何の興味もなかったが一度は経験してもいいかくらいの気持ちで渋谷のクラブで一夜を明かしたことがある。若いエネルギーと混じって、フロアからうねり上がるような音量と音圧に耐えきれず鼓膜に異常をきたし、翌日耳が聞こえなかったことは今なおトラウマである。映画館の臨場感あふれるサウンド環境も自分にとっては逆効果であり、激しい爆発音がする映画などは、大きな音が気になってその中身に集中できないことさえある。花火は嫌いではないが、あまりに近い場所で見ると音が気になって、やはり楽しめない。お祭りごとは一般的に騒々しいので好かない。祭にいくといつも不機嫌になっていたことをしみじみと思い出す。このところ行く機会もないが、おそらく今も祭は苦手なほうだろう。こうしてみると、世間一般に流布しているアミューズメント施設はほとんど利用できないように思える。そういえば、やはり子供のころ、お化け屋敷を兼ねた立体迷路のようなアトラクションに入ったとき、迷路は簡単だったのにもかかわらず、お化け屋敷部分で大きな音が出て脅かされるのが嫌で、一時間も立ち往生した挙句、心配した親が迎えに来たこともあった。

 閉鎖空間で一方的に聴かされる音は辛い。電車の中での音漏れはとりわけ拷問である。音漏れをさせている人間の聴いている音楽で、心地よくセンスがいいと思うものがひとつもないのはどういうわけか。漏れ聴くだけだからそのように思うだけで、実は名曲なのか。あるいはマナーの悪い人間の聴く音楽など劣悪なジャンクだろうと頭から決め込んでいるのかもしれない。電車といえば、帰宅中の夜の電車で騒ぐ酔っ払いは心底嫌だ。わいわい話しながら集団が入って来た時点で車両を移りたくなる。このように、音に困らされたエピソードはいくらでも思い出される。(若い頃は激しくてうるさい音楽が好きだったが、そのくせ、小さな音量で聴いて重低音だけ楽しむという、なんともミュージシャンを冒涜するような行為に浸っていた。)正確には音が嫌いというよりは神経を逆撫でされることが嫌なのであろうが、とかく音を介してねじ込まれる不快感は尽きない。音楽を聴かないわけではないが、最近は若い頃のように神経を高ぶらせるような音の刺激は全くといっていいほど欲しなくなり、優しい旋律でないと受け入れがたい。とにかく静寂・無音が最も快く、それによって精神が研ぎ澄まされて、好ましい心理状態に誘ってくれることを望んでいる。ただし、その代償として様々な音に対して、ますます弱くなっている気がする。自宅に居てさえ、近所のちょっとした物音や人の談笑する声さえも気になって、耳栓に頼ってしまうことが増えた。

 外部からの刺激では、臭気も嫌である。いつの頃からか、部屋の中にどこからともなく侵入してくるようになった近所の住人の煙草の臭いほど不愉快なものはない。今も不愉快な思いにとらわれながらこの文章を書いているわけで、いい気分がしないまま書いているものが爽快に読めるわけもなく、わざわざ時間を割いてお読みいただいている方々には本当に申し訳なく思いながらつらつらつらと不健康な言葉の屑を垂れ流している。自分が不快な思いにさせられている思いを他人に強いている行動以外のなにものでもない。電車で座った隣人の臭いほど気になることが他にあろうかと思う。夜の帰りの電車は体臭が際立つサラリーマンが多い。夏場は実につらいもので、そういうときだけは、電車に頼らないで通勤できる環境が欲しいと心底願ってしまう。自分だってそんな臭いを発しているに違いないのに、そのことは棚上げして、今日も家族のために頑張ったであろう企業戦士のかぐわしきかほりに顔をしかめている自分は所詮自分のためにしか生きていないような人間以前のヒト種族なのだ。今日の帰りの電車で隣に座った、ちょっと悪ぶった感じの、だぶだぶの真っ黒のスウェットを着た男の発する臭いときたら、長くしまいこんでいた衣類に染み付いた湿気がもたらしたかのようなカビ臭さであって、申し訳ないがなんとも耐えがたかった。しかも、よくよく鼻腔の神経を澄ませてみると、それはカビにまみれた衣服の臭いではないようで、どうやら香水か石鹸のような香りであることに気づいた。広い世の中には、他人を不快にさせる香水というものが売っているらしい。そもそもが自分の不快感が先にあって、どんな臭いもネガティブだと感じたのかもしれないが。

 そんなわけで、自分が平均よりは神経質で、いわゆるHSP的傾向を色濃く持っているということには何の感慨もないのだけれども、HSP傾向がある人の割合は5人に1人ですと知った時には驚いた。なんと、5人いたら4人もの人間がそうでなかったのである。世の中の人間はそれほどまでに「繊細でない」人々であったのか。信じがたい事実を突きつけられると同時に、どうして自分がこの社会で生きづらいのかがすっかり腑に落ちた。人の嫌がることをしないと教わるのが普通なのに、バタバタ音をたてたり、大声で騒いだり、なぜ周りの連中は嫌がらせばかりしてくるのかと思っていたら、多くの人はそもそもそれが不快なことだと思っていなかったのであった。こちらから見て無神経だと感じる人間が多数派を占めているわけである。それめっちゃズルいやんけ!…

 これまでの人生によって、いかに自分が肉体的に弱い人間であるかということが明らかになっているので、もはや身体中の穴という穴を全部塞いで、感覚を遮断して、ただただじっとしていたいという気持ちにもなる。もっとも、美食の官能は失いたくないので口だけは開けておきたい。しかしそうなると鼻からの香気も取り入れなければ愉しめないから、結局鼻も必要だ。そうなるとあれもこれも風通しを要することになり、結局身体の穴がない肉体など無意味であるという結論が導かれる。ところが穴から刺激は容赦なくやってくる。「あの人は穴のない人間だ」というとき、弱点や欠点がないという意味で用いられていて、完全無欠は完全無穴と言い換えてもよいくらいだ。然るに現実はどうだ。人間の肉体に穴がないと生命の維持に関わるほどの不便があって、穴があってもこれほどの不愉快が避けられないのだから、もはや穴に甘んじて耐え忍んで生きて行くしかないのである。繊細であるかどうかは、単純にこの穴の(あるいはその機能の)大小の違いではないかと思える。人間の穴は世界との回路であるから、穴の大小によって人生の質を左右されるほどの重要な要素なのである。外からの無理な刺激を楽しめる人間が羨ましいとは思わないし、時にそういう人を無神経だと冷笑してしまうこともある。しかし、この世の中は、物事に鈍感な人の方が、おそらくは楽ちんに生きられるようにできていると思わされるし、「鈍感力」という言葉さえ肯定的に言われているように、神経が図太い人間は世間に幅を利かせる可能性に恵まれているのもわかる。神経が太いというのを穴が小さいという言葉に言い換えてやりたい。諺に言うところの「憎まれっ子世に憚る」は時代とともにアップデートされていて、必ずしも犯罪を連想させる悪人でなくとも、人間の穴が小さくなって、感覚が鈍っているだけの憎まれない憎まれっ子というものが多数生まれていて、その人々は周囲の環境の影響を受けにくいため、世に憚って比較的容易に生きていけるのではないか。今や環境に適応するとは、環境に耐えるあるいは環境を無視できる性質のことを言うのではないか。いつまでも穴が大きいままの繊細な人間は、環境適応能力が少ない人間なのであって、今のところ生きる権利はあっても、いずれは淘汰されていくのかもしれないと、諦めのような、得体の知れぬ怖れを抱いて、今日も耳栓とマスクで外から侵入しようとする振動や粒子を防御しつつ、ため息をマスクに反射させながら、どう明日を迎えようかと思案している。



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