見出し画像

魚の骨が美しい曲線でありますように

 これは論考でもあり緊急ルポでもありつまらない日常の妄想を綴っただけの雑文でもある。はたまた物語でもあり詩でもあり、想像をたくましくした結果のわたくしなりの芸術でもあるかもしれないところのものである。

 その日もわたくしは、あゝ前回の記事を投稿してから一週間くらい経つなあ、そろそろ記事を更新したいなあと思いながら、愉快でたまらない毎日の仕事をこなすべく、例のごとくのんべんだらりとデスクに向かっておった。そんな、週末の気怠さを引きずった月曜日の昼休みに限って事件は起こる。

 焼き魚を毎日の弁当に入れると決めている。人生の莫迦者であるわたくしにとって、魚に含まれるDHAで少しは頭が良くなるかもしれぬ、人生の智慧が得られるかもしれぬという、まじないのような心境で毎日魚を食っている。まさしく莫迦の一つ覚えであるが、もちろん一向に頭が良くなる気配などない。しかし頭が良くならずとも、良質のタンパク質とカルシウムを摂取でき、獣肉と比較した場合の消化の容易さから、身体にとっては望ましいのでとりあえず毎日食うのである。たいていは経済的観点から、サケとサバを交互に入れておるのだが、たまには奮発して一段階高級なブリを使うことがある。

 そしてまさにこの日は、スーパーで手に入った天然もののブリを塩焼きにして弁当の主役に据えていたのであった。一般にブリは庶民の弁当にはやや不釣り合いであるが、よく見かける切り身の高級なものは基本的に養殖ものである。けだし養殖の彼らは徹底的に脂が乗るように「開発」されているために生育コストがかかり、いきおい高価になるのであろう。他方で天然ものはそれほど出回らない割に、安価に購入できるのでお買い得であるから、見かけたら買っておくのがよい。天然ものは養殖ものと明らかに味が違っており、まず強い磯の香が特徴的である。悪く言えば魚臭いのであるが、かえってこの野性味が、海に憧れる内陸育ち人間の視床下部を大いに刺激してくるのである。

 さていよいよ昼食の時間となり、わたくしは、そいつに向き合った。ぽってりと肉厚ながら身質は引き締まっており、敵としてなんら不足なし。いざ鎌倉、悪く思うなとばかりにおもむろに箸でほじくって、もそもそと食いはじめた。

 わさわさとほじくっていると、なるほど天然ものだけあって骨が実にしっかりしている。しかしそんな硬い骨を取り外そうと試みた際、横着をして手を沿えるのを怠ったのが愚策であった。豊満な身にその端っこを食いこませていた骨はぐいっと撓んだかと思うと、ぴょんと跳ねて20センチほど飛翔し、デスクの隅の大日如来の前に着地したではないか。如来様はいつもと変わらぬ冷静な顔で佇んでいるが、こいつなんという粗相をするのだと怒り心頭ではないか。しかしそれもお構いなしにわたくしの心は、さすがは天然もの、イキが違うわいと感心しきりである。

 ところで「大日如来」とは何の比喩か、デスクに大日如来とは、いくら与太話だろうと荒唐無稽もほどほどにせよと読者は思われるかも知れぬ。だが、わたくしのデスクの隅には大日如来が鎮座しているのである。模型、いわゆるカプセルトイである。過去に仕事で訪れた某博物館にて、今は職場を離れてしまった当時の後輩職員と、ノリにまかせてガチャガチャして入手したものなのであった。

 ともかく、魚の骨は回転を伴って放物線を描き、飛躍を試みた。ブリの体内を支える役目を全うし、しかる後に晴れて自由の身となり、広き外界への躍進を望んだのであった。しかし、デスクを超えて飛び去ることは、如来様から阻止された。枠を超えたくても超えることができない有り様がなんとも健気で惨めでもあり、わたくしは思わずこの魚の骨に我が身を重ねてしまったのである。そしてその骨を拾って供養すべく、弁当箱に仕舞い込んだ。
 弁当を食べ進むうちにさらに大きな骨が現れた。美しい曲線を描くその骨に見惚れて、わたくしはその一本を綺麗に洗って持ち帰ることにした。(後日、別の切り身から同じような骨が出て来たので持ち帰った骨は二本になった。)わたくしは、友人がいないからといって、とうとう魚の骨を親友だと認めるまでに至ったのかもしれなかった。

 数式のごとく均整に湾曲した魚の骨を見つめていると、宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』が思い出された。主人公二郎は、昼飯で食ったサバ味噌煮定食の骨を箸でつまみ出して、友人の本庄に見せつつ「美しいだろう、素晴らしい曲線だと思わないか」と言う。それに対して本庄が、「おまえ骨を見るためにサバを食ってるのか」と冷やかすシーン。その骨は飛行機の骨組みを構想する伏線となっている。二郎が造形美を見出したサバの骨は透き通った乳白色だが、わたくしが掘り出した天然ブリの骨は赤紫のしっかりした色で、両側面にほぞが入っており、中は空洞になっているようである。
 ところで二郎の友人本庄は「本腰を入れて仕事をするために所帯をもつ。これも矛盾だ」などとかっこいいセリフも吐いていた。わたくしはこのような矛盾を矛盾とは思わない。このような矛盾を許容すれば、仕事に本腰を入れずに魚の骨を弾き飛ばしつつ、所帯など考えてもみない自分など至極真っ当なようではないか。本庄のこのセリフは好かない。しかし本庄のような男が実在したらいい奴に違いないから、友人になるに決まっている。

 そういえばやはり『風立ちぬ』で、二郎を夢で飛行機開発に導くカプローニが「創造的人生の持ち時間は10年きりしかない」と語っていたのであった。10年とはあまりに短いが、果たしてそれ以外の人生の時間は非創造的に生きなければならぬというのか。また、創造的人生なるものの始点はいつなのか。わたくしはわたくしの創造的人生を、それとも知らず過ぎ去ってしまったのではなかろうか。

 そもそもわたくしは根暗の引きこもり気質であるのだから、わいわいみんなと仲良くして、楽しい物語など書いているのはむず痒い。ダンゴムシはダンゴムシでいたいというようなコピペが、世紀の境目あたりの某有名掲示板サイトではよく流行っていたけれども、ああいったことを書いていた連中は、一部を除いて結局日の当たる場所に引っ越していったのではなかろうか。
 …このように最近わたくしは再び、自分を卑下する傾向が顕著なようだ。これは良くない傾向だ。ブリの骨の曲線からずいぶん外れて、感情の曲線へと迷い込んでしまった。

 わたくしは自称文系人間にありがちな数学音痴のため、曲線を表す数式がどういうものであったかよくわからないが、y=px²の如きものだったと思う。pの数字によって曲線の緩やかさが変わるのであったか。しかしどんな緩やかな曲線であろうとも、二元論から脱出しないことには、いつまでもxとyに最適解を与えられず、延々と曲線の上を動くことになり、平べったい関数を抜け出すことはできないはずである。

 二次関数の放物線を脱するための教訓は、ぴょんと跳ねても職場からの脱出がかなわなかったブリの骨の曲線にあるに違いない。陰から陽へ、陽から陰へ。変転は容易である。y=px²を x=py²と転換すれば、曲線の向きも90度傾くはずだった。二次関数からは逃れられずとも、第一象限から第二象限へと移ることは可能なはずだ。そう試行錯誤しながら白いちり紙にブリの骨を二本並べているうちに、骨の形が双曲線を描いていたのである。これでは二本の骨が永遠に交わらなくて、感情にも示しがつかぬ。

ブリの骨の双曲線



この記事が参加している募集

昼休みの過ごしかた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?