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ねこという生き物

 私の人生にはずっと猫がいた。あの、柔らかであたたかな生命が。

 私が産まれる3年前、兄が産まれる1年前にその猫は我が家にやってきた。母がどこかの店先で、譲り先を探しているというケージに入れられた子猫たちから一匹連れて帰ってきたのだという。当時のことを母は、「ケージの中からね、この子が私に飛びついてきたの。だから、もう決めた! って、運命なんだ! って思ったのよ」と語っている。母は話を誇張する癖があり、このエピソードは語られる度に若干異なるが、概ねはそういうことで二人暮らしの家に子猫がやってくることになったそうだ。
 小さな小さなキジトラのその子はどういう経緯だか、『どら子(表記に関しては家族内で様々な議論が行われ、結論は出ていないがあくまで私の中の表記とさせて頂く)』と名付けられた。ドラえもんのドラではなく、ドラ猫のドラだそうだ。なんと不名誉なのだろう。殆どフルネームで呼ばれることはなく、皆愛称の「どら」と呼んでいた。本noteもその表記で書き進めていくことにする。父曰く子猫の頃は「とにかく痩せて小さいのに目だけがぎょろっと大きくて少し不気味なくらいだった」等と言っていた。父も母も幼少期は犬と過ごしており、猫ははじめてで勝手が分からず苦労したそうだ。
 それからどらは両親が暮らしていたマンションから、私が産まれてから引っ越した古民家、その古民家を建て替えるまでの借家、そして新築になるまでの18年間我が家に君臨し続けた。

 子猫の頃は短毛だったが、段々と体のあちこちの毛が長くなり、私が物心つく頃には立派な長毛だった。緑の瞳が凛々しく、まるでメインクーンやノルウェージャンフォレストキャットを思わせるような風格があった。そして、彼女はいつでも自由だった。玄関の引き戸は勝手に開けられたし、障子は破って通り道を作り、飯は適当に補充しておけば上手い具合に調整しながら食べる。旅行のときだっていつもより多めにご飯をセットしてさえおけば、適当に家の中で過ごしていた。一日の殆ど外にいて、よく近所のオス猫と喧嘩をしていたし、近所の散歩中の犬に吠えられたって逃げることなく、堂々としていた。そして、いつも庭の松の木の上で幼い私を見下ろしているのだ。
 幼い私はもうどらのことを神獣か何かだと思っていた。絵本で見る猫ちゃんとは違いすぎる。この生き物が迷子になって泣くはずがない。どらは時々我が家に寄る「猫ではない何か」なのだと確信していた。小学校低学年くらいまではそもそもどらに触ることさえ出来ずにいたが、ある年の年賀状で家族写真を撮る際に父から「どらを抱えた写真を撮ろう」と言われたのだ。初めてどらのあの柔らかな毛に触れ、膝の上にぬくもりを感じた。その時の私の心は喜びよりも恐怖が強く、逃げようとするどらを母とどうにか膝に収めながら半泣きでカメラを構える父を急かしたことをよく覚えている。

 それからどらが10歳近くなったくらいから、気性が少し穏やかになり私にも触らせてくれるようになった。私は買ってもらったばかりのデジタルカメラや父のちょっと良いカメラでどらの写真ばかり撮った(このnoteの画像も私が撮影したいつかのどらだ)。正面、横顔、足、しっぽ、毛、全部撮った。外を歩き回るどらに付いて回って動画を撮ったりもしていた。絶対に鬱陶しかったはずだが、その頃のどらは私のそんな自由な行動も一瞥で許すくらいの年齢だった。
 とにかく毛が長く、遠くから見るとまるで野生のタヌキみたいだったどらには毛玉がよくできた。ブラッシングが大嫌いで少しでもやると血を見ることになる。それで自由に外に出るから虫もつけてくる。だから、私が定期的にどらを風呂に入れていた。風呂に行くとどらはとんでもない声量で喚いて、壁に体をひっつけながら逃げ回るのだが、それでも手は出さなかった。だから、いつも毛を刈るのも風呂場だった。よく分からないが、どらの中で風呂場はもうどうしようもない所だったのだろう。いつも適当にざっくばらんに毛を刈られる上に水でしぼんだどらは、神獣のような風格は失われ、奇妙な生き物になるのがいつも面白かった。
 私が小学五年生、どらが14歳の頃に長年住んだ古民家を建て替えることになった。建て替え終わるまでの仮住まいに勿論どらも共に引っ越したのだが、どらはよその地域でも相変わらず強く凛々しかった。どらの中で私は多分一番下の存在だったのだと思う。父の前では怒られるから大人しくしていたし、母の前ではよく甘えていた。兄は動物が苦手で、お互いそれなりの距離を保っていた。一方で、私の前ではどらはなんでもありだった。私が一人で留守番しているときには、絶対両親がいる前ではやらない食卓に登る行為や物を落とすいたずらをしていた。極めつけは、朝に私が布団から炬燵で二度寝を決めていると、必ず私の顔の上を通るのだ。そんなこと家族のだれにもしたことがない。多分、早く起きて朝飯を食えと面倒を見てもらっていたのだろう。それから私が朝食の最後にヨーグルトを混ぜる音がした途端、どらは必ず私の足元に来て私が席を立つのを待つ。そして、私が暖めた椅子に丸くなる。これが毎朝のルーティンだった。いつの間にかどらは私にとって姉のような不思議な存在になっていた。ほんの数秒だが、抱っこもよくさせてくれるようになった。色んな抱き方があるが、私はどらの顔がだいすきだったのでお姫様抱っこのように抱えて顔をよく擦り付けていた。初めて抱いた時はあんなに怖くて大きな存在だったのに、まるで赤ちゃんのようで本当に愛おしかった。

 私が中学一年生、どらが16歳くらいの頃、どらの目が見えなくなった。きっかけは母が急に「どらと目が合わない。おかしい」と言い始め、動物病院に連れて行ったところ、腎臓が悪いからそれで視力にも影響があるのだろうと言われた。よく食卓から焼き魚を貰っていたし、おやつに人間用の鰹節を与えていたし、塩分過多だったのはもう明らかだった。しかし、目が見えなくてもどらは強かった。新居に引っ越してから視力を失ったことが幸いし、大抵の間取りは把握していたから普通に生活していた。それでも寝ている時間はすごく長くなったし、どらは時たま外に出ては迷子になり、家族総出で近所を探すことも何度かあった。病院では薬や点滴を貰い、両親と私で一生懸命看護した。薬を飲ませるときは勿論暴れたし、点滴を打つときはどらの背から血が出ることもあり、私は怖くてよく泣いていた。段々と足取りが不安定になることも増え、我が家にはどらの生活圏内のバリケードが作られた。
 中学校三年生のある朝、母が泣いていた。今までどんなに目が見えなくても、足取りが不安定でも一度もトイレに失敗したことのなかったどらが失敗していたのだという。父が近くのスーパーでペット用のおむつを購入し、どらはそれを履かされていた。それでも、私が朝起きた時に見たどらはおむつを装着してガツガツと飯を食う姿だった。やっぱり逞しい子だと思った。きっと大丈夫。きっと大丈夫だ、と言い聞かせてはいたけれど、やっぱりどこかで分かっていたのかもしれない。私は家を出る前にいつものように、大切に大切にどらを抱きかかえて、顔を擦り付けながら小さな声で祈った。「私が帰ってくるまで待っててね、お願い。お願いね」と。

 私のnoteをいくつか読んでくださった方ならご存じかもしれないが、私は保育園、小学校にあんまり馴染めてこなかった。それでも中学校で気の合う穏やかな友人が出来た。その日、私はその子の家に遊びに行く約束をしていた(365日練習漬けの吹奏楽部を引退した秋口だった)。すごく楽しかった。いっぱい笑った。いつも友人と遊ぶと何かしら傷つくことが多かったのに、その日私はひとつも傷つくことなく笑顔で迎えに来てくれた母と合流した。母は父と少し遠くのパン屋にドライブしたそうだが、毎回のように父の機嫌を損ねて怒られていたのに「今日は楽しかったよ」と車内で教えてくれた。兄は高校になってから入った部活に打ち込んでいて、今日も腹ペコで帰ってくるだろう。このまま、いつものスーパーで買い物して帰ろうか、なんて言っているときに母の携帯電話にメールが届いた。父からだった。
 いつもは簡潔に淡々としたメールばかり送る父が珍しく単語だけを送ってきた。
「帰ってきて」
「早く」
「どらが」
 ひとつひとつメールを読み上げながら涙が込み上げてきて、もうわけがわからなかった。運転している母も泣いていて、もう二人して大きな声をあげて泣いた。車から走って降りて、リビングに行くとどらが父の腹の上で横になっていた。もう、息をしていなかった。18歳で立派な大往生だった。最後はテレビで野球を見る父の上で眠っている内に痙攣し、息を引き取ったのだという。どらは最後まで凛とした逞しい猫だった。ここまで育てられ甘える対象だった母ではなく、弱くて守る対象だった私の前でもなく、我が家で一番強い父のそばを選んだ。それこそがどらの意志なのだと思った。兄にも連絡してすぐに帰ってきてもらい、家族みんなで大泣きした。
 「まだあたたかいよ、抱いてごらん」と父に言われ、柔らかなどらの毛に触れた。いつものように顔を見ながら抱っこをしようとした、けれど、出来なかった。どらの筋肉にはどこにも力が入っていなくて、私の手の中からするりと落ちてゆくのだ。ああ、もう生きていない。これが死なのだとはじめて理解した。あたたかいのに、今にも起きていつものように私の顔を踏んで、大きな声で鳴いて、ご飯をガツガツ食べそうなのに。それなのに、もうこの子は起きないのだと理解せざるを得なかった。
 家族みんなで大泣きした後、「ご飯を食べよう」と母が言った。全然食欲はなかった。でも、食べたいと思った。食べるべきだと思った。そうして、食卓で両親が仲良くドライブして買ってきたカレーパンを食べた。美味しいカレーパンだった。でも、やっぱり途中で涙が出てきた。泣きながらカレーパンを食べるのは人生でこれが最初で最後だろうと思った。

 それからはあっという間だった。私は次の日学校を休んで、火葬までの間どらと一緒に過ごした。どらを箱に入れて、その中を花でいっぱいにした。手紙も書いて一緒に入れた。どらの毛は少し切って別の箱に取っておいた。首輪を外して同じ箱に移そうとしたところで、鈴の音に反応した家族みんなから「どらが動いたのかと思った」と言われ、またみんなで笑いながら泣いた。花に囲まれるどらの写真も撮った。どらはもうすっかり痩せていて、3キロもないくらいだったから花ごと火葬してもらえた。とんとん拍子で火葬が終わり、小さな白い灰のような骨のようなものになって帰ってきた。それを壺に詰めて、大事に抱えて帰った。庭に埋めようかという話も出たけれど、やっぱり家の中にいてほしいということになり、扉付きの骨壺入れを購入しリビングに設置することにした。
 骨壺入れの表の写真を何にするかという話になり、どらの写真をみんなで見た。子猫の頃、神獣みたいだった頃、丸刈りにされている頃、沢山あった。私や兄の幼少期のビデオにもどらは居て、小学生の私が沢山撮った写真や動画にも勿論居た。ずっとずっと居た。結局は古民家時代の凛々しいどらの写真が選ばれた。あまりにも膨大な写真だったから、後日カメラ屋にて、厳選した写真でアルバムとカレンダーを作った。完成してめくりながらやっぱり涙が出た。寂しかった。恋しかった。また抱っこして顔を擦り付けたかった。これが愛でなくて何というのだろう。

 そうして私はあの柔らかであたたかな生命の居ない生活を、人生ではじめて送ることになった。中学を卒業して、高校に入学する頃には思春期も重なり、父と毎日のようにぶつかることが増えた。毎日辛くて、寂しくて、家に帰ってきてはどらの骨壺の前で線香を焚いた。今振り返れば、あんなに癒しも逃げ場もない生活の中よく生きていられたなあと思う。

 2020年の夏。どらが居なくなってから3年後。地域行事に参加していた父が走って帰宅してきた。
「ご近所さんちが野良猫保護して、子猫が生まれたんだって! 一匹どうかって!」
 青天の霹靂。だらだらとSNSを見ていた私は飛び起きて、母と顔を見合わせた。母は「早く見に行こう!」と乗り気だったが、私は怖気づいた。どらは奇跡的に賢くてかわいくて愛おしい存在だった。でも、どの猫もそうかは分からない。例えば、賢くなくてかわいくなかったら私は愛せないのだろうか。自分の愛に自信がなくて、私はもだもだと言葉を探した。どうしよう。もし、もし愛せなかったら? 自分が薄情者だと証明されるような気がしてすごく恐ろしかった。あまり乗り気じゃない私に両親は驚いて、「とりあえず見に行くだけ。見に行くだけ行こう」と言われた。猫は好きだ。見るだけ、見るだけなら……と重い腰を上げて、玄関に向かう。母は「念のためね
」と言い、どらをよく病院に連れて行ったケージを片手に持っていた。完全に連れて帰るスタイルだ。なんだか私は笑ってしまった。勿論生命を迎え入れる以上、安易な気持ちでは駄目だ。でも、そんなに難しく考えるものじゃないのかもしれない。こういうのは勢いだ! 私と母は早歩きで、そのご近所を目指した。
 丁度子猫が居る部屋はカーテンが開けてあって、庭からでも母猫と三匹の子猫が良く見えた。母猫によく似た黒猫、活発そうな白猫、そして、一番後ろから顔を覗かせるキジトラ。あ! あ、ああ、と私と母の口からは言葉にならない音が出た。もう二人の気持ちは決まっていた。あの子だ。どらの代わりなわけじゃない。でも、我が家にはあの子が必要なのだと直感で分かった。そして、家主の方にきちんと許可をとってキジトラの子猫がまた我が家にやってきた。面白いことに、この子はどらと真逆だった。臆病で甘えん坊でポンコツな男の子。ご飯は盛られただけ全て食べてしまうから調整しないといけないし、ご飯を食べたあとにすぐ走り回ってよくあちこちに吐いた。私の鞄の上に吐かれたこともあるし、それを踏んだこともある。夜には眠らずにずっとずっと鳴いていた。眠らない彼を抱きかかえては「大丈夫だよ」と言い聞かせ続けた。心配なことが多くて、手がかかる子だった。それでも愛おしかった。私が物心ついた頃にはもうどらは成猫だったから、子猫はこんなにやんちゃなのかと心底驚いた。そうして二度と同じ轍は踏まないと心に決めた家族から箱入りに育てられた坊ちゃんは、すくすくと育った。毛は伸びずに短毛のままだったが、手足はよく伸びてスタイルの良い成猫になった。臆病で外には一度も出たことがないが、父の怒りをものともせずケロッと机の上に乗ったり物を落としたりする。それ故に、どらへの線香もお花のお供えも出来なくなった。なんなら窓の外を見るのが大好きで、よくどらの骨壺入れから窓へ飛び移っている。多分どらが現役だったら相当怒られているだろうが、きっとなんだかんだ許してくれる。どらはいつもそうだった。

 猫という不思議な生き物は私に色んなことを教えてくれた。柔らかさ、あたたかさ、おもちゃの遊び方、木の登り方、家の中の隠れ方、抜け道、猫へのマナー、育てる苦労、そして、死というもの。どれも大切なものばかり。
 私は私に自信がない。でも、この自分の深い愛情にだけは自信がある。深く柔らかな愛情。これも教えてもらったことのひとつ。一人暮らしを始めてからは勿論猫とは暮らしていない。それでも、私はこの猫に教えてもらったことと共に生きていく。猫と過ごした思い出と生きていく。

 私の人生にはずっと猫がいるのだ。あの、柔らかであたたかな生命が。


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