私はやさしい。…のに、違和感があった。
やさしさなんて世の中に沢山ある。沢山あるから、難しい。それは、明確そうで、あいまいなのだ。
こういった「はっきりしていそうで、実は抽象的」という価値観は、世の中にあふれている。やさしさも、そのひとつだ。
このような価値観―大きすぎて逆に掴めない存在―に必要なのは「自分はどういうものだと思うか」ではないだろうか。
今回はそれを確認するために、投稿コンテストを使わせてもらう。
自分が思うやさしさって、なんだろうか。
そんな話です。
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やさしい人になりたかった私は、自分なりのやさしさは常に持っていた。と自負している。一般的なやさしさや気配りは、なかなか意識できていたはずだ。
…が、心のどこかで「何か違う」という空しさが、よくあった。
この感覚を知って、辿り着いた今のやさしさは「相手を見ていること」だ。
何故なら、私が感じた空しさの一因は、ここにあったから。
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誰かを褒めたり、親切にしたり、やわらかく接するのは、言ってしまえば相手を見ていなくてもできる。視界に入ってきた見た目や状況を拾えることができたら。極端な話「その相手」じゃなくてもいい時だって、あるのだ。
そう、だから空しさを感じていたのだ。私のやさしさは、相手を見ているようで見ていなかった。見ていたのは相手以上に、自分だった。
良いひとでいれば、良いことがあるはず。っていうか、良いひとだと思われたいんだけど。
私のやさしさの始まりは、誰かへの気持ちではなく、ずっと自分だったのさ。相手を見ていたようで、自分のリターンを気にしていた。だから、やさしさを意識しているはずなのに、違和感が消えなかったのだ。
つまり、やさしさというのは、誰かのために存在するものなんだと、実感じているのです。
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―後日談。
記事を作った数日後、このテーマにピッタリな作品を急に思い出したので、ぜひ紹介させてほしい。
『幸福な王子』
1888年/オスカー・ワイルド
小説は日本語訳でも多数刊行されているため、細かい部分は略すが、簡単に書くと
―きらびやかな石に包まれた王子像が、ある街にありました。王子像はこの街の不幸な人々が気掛かりで、自分が身につけている宝石を不幸な人々に届けるよう、近くにいた渡り鳥のツバメにお願いする。
それを繰り返すうちに季節は変わり、身を削り続けてみすぼらしくなった王子と、渡そこねて弱ったツバメは、街の人々によって粗末に扱われるのだった―
という、自分を犠牲にしてまで周囲を気遣った王子と一匹が迎えた、現実的な残酷さが印象的なお話です。
この作品の評価は分かれているようです。悲しくて嫌いだという人もいます。わかります。結局、王子の好意(行為)は報われたのかどうか、人間としてどう判断していいのか、迷います。
私はこの作品が大好きです。読むたび、聞くたび、幸せとは・やさしさとは何かを考えます。そしてこう思うのです。
『幸福な王子』と同じように、幸せもやさしさも、みんな同じように判断できるものではないのだと。
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