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中目黒ドンキの水槽前で

気がつくと随分長く水槽の前にいた。

この街に越してきたのは2年前だ。せがれが生まれてエレベーターなしの4階では暮らせなくなったからだ。おれは住む場所などどこでもよかったのだが、職場に近くそれなりの広さという事でここになった。

緊急事態にすぐに帰れるようにと妻に言われた時、どんな緊急事態があるのかおれには想像もつかなかったが、実際にそれは起こった。何回も。

緊急事態の度におれはドンキまで歩いて買い出しに行った。車は持っていないし夜中にバスは走っていないからだ。たいていおれは疲れ切っており、レジを終えた後、いつも夜用のブルーの照明に照らされる水槽を眺めた。そしてパネルに書いてある魚の名前と水槽の中の魚を照合した。単純作業をすることで気持ちを落ち着けていたのだろう。

魚たちは夜でも元気に泳いでいた。小さな魚がお互いを追いかけ、大きな魚はゆっくりと水槽を回遊する。ドンキの店員と客以外は寝静まったようなこの時間、生命の輪郭がやけにくっきりと浮き上がって見えた。そして今入院したばかりの家族のことを思った。

おれは今朝も早く家を出て、ちょっと遠くのドンキに必要なものを買いに寄った。そして水槽の前に立ち止まった。これまでのことを何回か思い出した後、今のことを考えた。全員健康で、せがれも順調に育っている。金もしばらくは持つ。ただ無職だというだけであの頃より随分ましじゃないか。おれはバスに乗り、渋谷のレンタルオフィスに向かった。

#日記 #コラム #エッセイ #無職 #中目黒 #ドンキ

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