見出し画像

存在することが表現である

停滞する秋の暮れ

コンセプトを作って悦に入ったものの、さっそく発信が滞る。

このファッションなら「コラージュを届ける」ことができそう、と思えるような、自分の制服を作ることを、まずは私の自問自答の一里塚としたいと思っています(キリッ
と書いたものの

ファッション、発信、両方面で停滞すること1ヶ月……。

この停滞感というか、なし崩し感、一体何なんだろう? 
ファッション、発信、それぞれに自問自答してみた結果、根本は同じところにあるんじゃないかと思うに至ったので、つらつら書いてみる。

制服化の壁

あきやさんの著書や自問自答ファッションと出会い、「キーワード探し→コンセプト作り→実装」の流れの鮮やかさに感銘を受けながらも、「一年を3セットの服で生きる」とか「試着100回チャレンジ」のメソッドを、自分がそのまま実行するのは無理なんだよなーと感じていた。

理由は、私の似合うもの、好きなものが限られているから。
逆説的なようだけれど「似合うもの、気に入るものが少ない」という理由で、私はかなりたくさんの服や靴を所有している。

順を追って説明しましょう。
私は平均的な体型ではなく、サイズで選ぶなら、デパートの「小さいサイズ」の売り場にあるような服が合うのだけれど、そういう場所には「着ることができる服」「ちょうどよい服」はたくさんあっても、「一目惚れするような好きな服」があった試しはない。

そこにある服は、適度に流行を取り入れつつ、無難でコンサバティブなデザイン。一方、私は、もうちょっと「遊び」を感じさせる個性的な服が好きなのだ(遊び全開のデザインだと、それはそれで似合わないので、「ちょっとだけ」というのもポイント)。

絶対数の少ない客向けに、多様なデザインを揃えると商売が成り立たないので、最大公約数的な服を揃えておく、という理屈は理解できる。マッチしないのは、こっち側のせいである。
(でも「大きいサイズ」の服には「大きいこと」の魅力を活かしたデザインもあるのに、「小さいサイズ」には「小さいからこそ似合う」ようなデザインが少ない気はする。)

まあそういう理由で、私は体型に合わないことは知りつつ、普通のサイズ展開のショップで服を選んでいる。
お直しをして、丈やウエストを詰めてもらうのも、ブランドが意図しているデザインじゃなくなってしまうような気がして(他の人がサイズを直した服を着るのは全く気にならなくて、単に個人的なこだわりです)、もともと細身、小さめ、短めのシルエット、7〜9号で展開しているようなブランドで服を選んでいるのだけれど、昨今のオーバーサイズブームで、以前は好きだったブランドもテイストが変わってしまっていたり……。

自分が着こなせるサイズ感で、かつ気に入り、自分に似合うテイストの服。
絶対数が少ないので、100点のものを目指すと買い物の難易度が高すぎて、何も手に入れられない。ので、75点くらいなら、とりあえず買っておく。
75点の服を買った直後に、80点の服を見つけたら、それも迷わず買う。
そして80点の服を手に入れたからといって、75点の服を返品したり、捨てることはない。

80点の服が汚れたり、生地が傷んだりするかもしれないし、それで大切な予定の日に着ていく服がないと困るから!
「大切な予定」というのが具体的にあるわけではないけれど、服はたくさん持っているけれど、いざという時のために、いろんな種類の服(カジュアル寄り、フォーマル寄り、ビジネスシーン、リゾート用、勝負服、華やかなもの、落ち着いたもの……etc)の備えがないと不安!!
急に必要になって、75点未満のものしか手に入らなかったら、大変だから!!!

書き出してみると、何にそんなに怯えているんだろう、と自分でも思うけれど、常にパンパンのクローゼットと共に、私は生きてきた。

備えあれば憂なし。
いつも余裕を持っていたい(対外的に余裕を見せていたい)、必死と思われたくない、ダサいと思われたら死ぬ(社会的な意味で)、人前で失敗したくない。このマインドが、クローゼットと私自身を形成している。

そうかー。
自分で書いて自分で納得した。
まさに自問自答。
私にとって、ファッションとは心理的安全性を形成するためのものなんだな。
たぶん、私だけじゃなく、多くの人にとっても、そういう側面があるのだろうけれども。私の場合は、心理的安全性を形成する上で、ファッションが担っている部分がとても大きい。というか、大きめのウォークインクローゼットをパンパンにするくらいの装備がないと、心理的安全性を保てなかったのだ。

発信(表現)の壁

発信すること、表現することへの、自分の苦手意識について考えてみると、やっぱりこれも、心理的安全性と、失敗したくない、対外的な余裕のポーズを崩したくない、というマインドが根底にある。

表現しようとして一歩踏み出せないのは、つまらないんじゃないか、伝わらないんじゃないか、誰にも必要とされないんじゃないか、発信するほどのことじゃないんじゃないか、という気持ちになって、結局面倒になるからなのだけれど、つまらないかどうか、などという評価は、受け手の人がそれぞれ判断すれば良いことで、発信する側がいちいち考えたって仕方のないことではある。

生きているだけで、好きな服を着ているだけで、世界に対して何かしら表現しているのだ、と考えてみたら、表面上の余裕を取り繕うのではなくて、自分の言葉を発したらいんだ、と思えた。
好きな服を着て、自分の言葉を発する。ただそれだけのことなのだと。

--
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「スキ」を押していただくと、お花かお飲み物が出ます〜


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?