祝福されるのは苦手だけれど感謝をするのは得意だ
きのう、四年間勤めたカフェを卒業した
お客さんが会いにきてくれたりお花をくれたり
スタッフがプレゼントを届けてくれたり手紙をくれたり
嬉しかったし光栄だったし
けれど、嬉しいと言いながら、疑いのきもちを抱いていた、いやこれは本当に愚かなことだったとおもうよ
でも、
わたしはそんなことをしてもらえるようなことをあなたたちにできてなかったのにごめんね
という、罪悪感のようなきもちがあった。
こんな戸惑いは表情にでてしまっていたかな大丈夫だったかな、
どうしたらいいのか分からなくて、家に帰ってお花を生けて、綺麗なお花たちをみて涙を流すばっかりだった。
そうしてひと晩たって、なんだかこれはだいぶ愚かなことであったぞと、おもっている
この、いただいた言葉や贈り物は、卒業と新たな門出にたいする、素直な祝福の気持ちであるのだから、それは素直に喜んで良いんじゃないか。
それが自分のしてきたことへの対価だとみなして、自分の価値を贈り物によってはかろうとしていた昨日のわたしはなんと傲慢でなんと幼稚だったのだろうか、と。
きっと、もっと気楽にありがとうと受け取って良かったんだ、
だって卒業っておめでたいことですもんね、
卒業とかそういう節目をお祝いするのがどうも苦手だなあと、成人式ぶりに実感してしまった。
けれども、感謝をするのは得意だ。
あのお店で出会ったひとたちみんなに、ありがとうと伝えたい。
あなたたちのおかげでわたしは、ひとのことを素敵だとおもうようになったし、相手のことを考えるようになったし、気持ちを伝えるために手紙をかくようになったし、花を贈ったり贈られたりするのが好きになったし、器をよくみるようになったし、木のぬくもりに惹かれるようになった。
あなたたちのおかげで、数字ではない人間としての自分に自信をもてるようになった。
あのお店ではたらいて、あなたたちのような素敵なひとたちに出会えたことが、わたしのこの四年間におけるもっともおおきな価値である。
あなたたちに恥じることのないように、生きてゆく