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【感想】 鈴木康太『水/凪の踏み跡』


 ときどき、それを読んだり、見たりしたあとに、何かを言おうとして、しかしついに何の言葉も掴むこともできず、空虚になってしまう。そんな作品に出会うことがある。それはたいてい、つよい思い入れと表裏一体だ。つまりは好きだということだ。しかしこの思い入れというのも、いったいどこからやってくるのか。
 たしかなのは、それはわたしというものの境界をすりぬけてやってきて、此方を内がから侵襲するということだ。言葉と「わたし」という主体とが本質的に深く絡みあっている、ということを考えれば、そのときある口ごもりがあらわれてしまうのは、必然とさえ言えるだろう。けれどもそれがはたしてその作品の優れているがゆえなのか、それとも単なる相性の問題なのか。ひとたびすり抜けられてしまったあとに、振り返ることは難しい。
 『水/凪の踏み跡』は、わたしにとってそのような稀な作品としてとらえられた。収められた作品はどれも小品で、一編のただ字面だけを追うだけならば、十秒もかからない。言葉づかいも平易で、さりげない韻律が、軽やかな調子さえかたちづくっている。されどそうして一編が吹き抜ける、そのあとから、あとから、余韻は膨らみだしてくる。荒涼さと、ささやかな湿り気とを伴いながら、広々と。
 それはこの詩集の言葉数の少なさゆえに、たちあらわれるものなのかもしれない。ときに一行ごとに、ときにその一行さえ完結しないままに、言葉をとだえさせたままに、新たなイメージへと移ろっていく、詩句の数々。その切れ目には広々とした、けれどもけして虚無ではない余白がある。それは「わたし」という境を打ち消して、というよりも始めからなかったものとして、実にあっさりと此方へとひたよせる。
 あるいは、この詩篇たちの実体は、記された言葉の方にではなく、余白の方にこそあるのではないだろうか。
 けれどもその余白を、寂黙を潜り抜けてもう一度、記された言葉へと目を転じるとき、そこには平易だったはずの言葉が、鮮烈なイメージへと転じて再び立ち上がっている。不可解なものは不可解なままに、どこか懐かしい景色は、その懐かしさをよりいっそうあらわなものとして。
 本詩集に収録されているなかでも『鯨』と『海岸』、この二篇が個人的にはとても好みだった。また文学フリマにて同時に頒布されていたフリーペーパー『涙』も印象的だった。
 とぎれとぎれながら、なおもほそりとした抒情の糸を絶やさぬそのイメージが、どのように編まれているのか。いましばし、ゆるりと耳を預けていたいと思う。


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第38回文学フリマ東京にて購入


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