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旅行記1 広島編

(原爆ドームのかたわらを路面電車は当たり前に通りすぎていくこと)


 物心のついた頃から平地のど真ん中、それも建物が密集し、遠くの見通しも効かぬような市街に暮らしてきた人間には、建物と建物の距離が適度に空いて、かつその隙間に当たり前のように緑の山の稜線があらわれる。たったそれだけの風景すら、珍しい。東京でさんざ目にしてきたはずの三越や、東急ハンズのロゴですら、何やら真新しいもののように思えるし、普段の生活ではまず見かけることもない、路面電車が近くを走り抜けるたびにはしゃいでしまう。
 広島市中をうろついているあいだの私は、常にそんな調子だった。よほど楽しかったのだろう。すでに広島を訪れてからは一週間が過ぎようとしているなかで、こうして改めて振りかえってみようとしても、わくわくとした気持ちが次から次に膨らんでしまい、文章にもどうにもとりとめというものがなくなってしまう。
 しかし、この日の行程そのものはそれなりにハードだった。朝早くの新幹線を取ったにも関わらず、夜型生活を直しきれなかったがゆえの、睡眠時間三時間での出立(なお私はけっこうなロングスリーパーで、睡眠時間が六時間を切るとあちこちの行動がおかしくなりだすのが常だ)に、建築家・谷口吉生によって手掛けられたという広島市中工場(ゴミ処理場)のエコリアムを見に行きたいと直前になって思い立ったがゆえに、かつかつになってしまった予定。そして広島来訪の最大の目的である、原爆ドーム。
 原爆ドーム、そして平和記念資料館を見学することは、私にとってはかねてからの宿題だった。誰にそうしろと言われたわけでもないけれども、それをしなければならない、という強い感覚が私にはあった。それはいったい、どこからやってきた義務感なのか。それを一口に説明するのはどうにも難しいけれども、あえて簡潔に述べるのならば、「それを知らずしてどうしてものを書けよう」といったところになるだろうか。
 もっとも、この日は運悪く平和記念資料館は展示替えのため休館だった。あえてほかの旅客も少なそうな、二月の平日に旅程を組んだのが裏目に出たようで、この後、他にも宮島ロープウェイを始めあちこちの施設で改修や、補修や、定休日に見舞われる羽目になったが、これはその中でも最も手痛い失敗となった。広島を訪れた目的の七割が飛んだと言っても良い。観光ガイドで営業時間を確認しただけで満足していた結果がこれである。
 とはいえ、時間が空いたら空いたで、ほかに見るべきものはいくらでもあった。死没者追悼平和祈念館、原爆投下の日の広島市気象台の職員たちの記録を負った特別展示「空白の天気図」、原爆ドームから少しだけ離れたところにある爆心地、旧日本銀行広島支店、袋町小学校に遺された伝言たち、市中の何気ないところに建てられた、原爆投下当時を物語る看板。もとより市中散策も兼ね、それらの痕跡を訪ね歩くことは予定していたとはいえ、実際に巡ると、そのあまりの多さに呆れるほどだった。平和の灯、原爆の子の像、慰霊塔、旧元安橋親柱、動員学徒慰霊塔……。
 どうしてこんなにも多くの碑が建てられているのだろう、と浅はかな問いが頭を掠め、すぐに打ち消した。それだけの犠牲が出たのだ。
 よく晴れた一日だった。雲もほとんど無く、広島に着いてまっさきに向かった中工場の周囲には、さまざまの工場が埃っぽいような日向のうちに黙然と並び、エコリアムから眺めた海は深く輝いていた。原爆ドームこと旧産業奨励館の建物は、底なしの空の青のうちにくっきりと浮き立ち、いかにも洒落た天井や壁、窓の意匠の名残からは、在りし日の賑わいや、憧れの影がふと垣間見えるようだった。あるいは被爆を免れ、負の遺産としての刻印を背負わされずに済んでいたとしても、やはりこの建物は旧産業奨励館という歴史的資産として、大切に守り継がれていたのかもしれない。
 今や広島市内は、立派なビルの連綿と立ち並ぶ都市として、すっかり再生されている。市内の大通りに車の流れは絶えず、さまざまな方面へと向かい、また帰ってくる路面電車がひっきりなしにその中を抜けていく。夕刻を迎えるに連れて、その車窓のうちには仕事上がりらしき、どこか茫洋とした印象の人々の俯きがちの顔も増えていった。東京ほどの過密さ、過剰さはないにしても、そこにあるのは、どこまでも見慣れた都会の夕景色だ。そしてそれは当たり前のものとして原爆ドーム、爆心地、小学校、かつて亡骸が並べられたという通りの周囲に、あるいは上に覆いかぶさっている。
 おおよそ八十年前にこの街で暮らしていた人々も、多くはそんな当たり前の、見慣れた景色を日々見送りながら暮らしていたはずだった。今ほどのビル建築は少なく、今とはよほど文化の在り様も違い、戦時の特異な体制下にはあったにせよ、この市街、この路線のそば、建物のうちに、それぞれの当たり前が過ごされていたはずだった。
 そしてその延長線上にあるものとして、不意に惨劇は訪れ、また八十年の時を掛けて過ぎこされていこうとしている。
 しみじみと私は思う。それは果たして、過ぎこされて良いものなのだろうか。まだ過去のものとするには、早すぎるのではないだろうか。いつまでも、早すぎるのではないだろうか。
 無論、その惨禍のうちを生き延びた当事者らにとっては、それは過ぎこされねばならないものだろう。されど人間という総体においては、きっとまだ何も終わってはいない。
 それは筆舌に尽くしがたい地獄絵図だったとしても、語りえぬ破滅ではない。絶対的に許されざる所業だとしても、例外的な狂気の産物ではない。あくまで人間の理性と正気の粋を集めて導き出され、あるいは当たり前の熱情と義心によって、また名誉と力へのいっそきらめかしい憧れによって産み落とされ、そして今後ともたやすく産み落とされうる、当たり前の惨劇として、わたしたちの当たり前の生活のすぐ隣に、足元に、つい昨日の、あるいは明日の出来事としてまだ横たわっている。永劫に。
 同じ夕方、旅行中もついに手放せなかったSNSからは、イスラエル軍がパレスチナ・ラファ地区へと地上侵攻を予定しているという報が伝えられていた。私はそれを鉄板焼きの店をふらふらと探しながら(やはり目的の店が定休日で閉まっていた)、その道々に、またようやく辿り着いた駅ビル内の有名店の列に並ぶあいだに、そうして通されたカウンター席で、次々と目の前の鉄板の上で具材が軽快に焼き上げられ、ひっくり返されていく様を楽しもうとする、その合間合間に、塞ぎこんだ気持ちと共に追いかけていた。
 原爆と共に、人類の負の遺産として語り伝えられる、ホロコースト。それが目指そうとしたものとまったく変わらぬ民族浄化が、何の恥じらいもなく、国際社会の明るみのもとに堂々と繰り広げられている。それもよりにもよって、かつて絶滅を強いられようとした側の民族の一部が作り上げた国家の手によって、反復されている。昨年十月、事の発端となったハマスによるテロ行為もまた許しがたい行為であるにせよ、それがある土地に住まう人々の生活、住まい、学校、病院、記録、記憶、喜びと自由、期待と未来、そして生命を根こそぎにして良い理由には決して決してなりえない。
 美しく晴れ渡った薄茜色の夕焼け空の下、ぼんやりと街灯も灯りだす穏やかな景色のうちで、広々とした川のうえに架かるいくつもの橋を越えながら、路面電車のまろい走りにゆったりと追い抜かれながら、私は昼に訪れた平和記念公園の死没者慰霊碑の前で、祈れなかったことを思いだしていた。そこにはちょうど前日に訪問していたという、国連の総会議長が捧げた花輪がひとつきり、ぽつねんと置かれて、涼しい風が吹いていた。
 碑にはこう刻まれていた。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
 私は、祈れなかった。この先の未来にて過ちを繰返しませぬ、と、たとえ仮初にでも言い切ることは、もはやできそうにもなかった。

 翌日は朝から宮島観光へと向かった。広島駅から宮島口までの道のりを、あえて広島電鉄の路面電車でのんびりと辿っていったのも、楽しい旅の思い出のひとつとなった。
 前日よりは曇りがちになりながらも、やはり和やかな日がじんわりと滲む、穏やかな一日だった。車内には観光客よりも、日常の便として広電を通勤や買い物に使っているらしい乗客の方が多いようで、次々と途中駅から気取らぬ格好の人々が乗り込んでは、また降りていった。
 そうして宮島にてろかい舟やら、生牡蠣やら、もみじ饅頭やらを堪能したその帰りも路面電車を使った都合、この日私は二度、原爆ドームのすぐ隣を通過していった。車窓からも、その姿はよく見ることができた。それはありきたりの景色の一部として、そこにあった。原爆の落とされる前の日も、その当日の朝だってきっとそれは当たり前に、ありきたりな日常の一部として、そこにあった。
 今や原爆ドーム前と呼ばれるその駅は、かつては相生橋と名づけられていたという。


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