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社会には誰がいるんだろう? 「社会復帰」「社会進出」に感じる違和感


ネットをふらふらしていると、気になるワードが目に入った。

うつやひきこもりだった人が回復して仕事はじめたりすることを「社会復帰」っていうでしょ。あれ恐ろしいわ。うつ病者やひきこもりは社会の成員ですらなくなるのか。徹底的に孤立させてる。

白饅頭(御田寺圭/光属性Vtuber/バーチャルツイッタラー)🌤️ @terrakei07


半年くらい前から「社会進出って変な言葉だよね」と感じていたのだが、それと同じ種類の意見だな、と思った。



女はそれまでどこにいた?


「女性の社会進出」という言葉が使われるようになって久しい。最近では「パパの家庭進出」という言葉も使われ出している。

「女性の社会進出」と「パパの家庭進出」が対であるとしたら、その両者が意味することは以下のようなものだろう。

  • 女性の社会進出:女性が仕事をする

  • パパの家庭進出:パパが家事育児をする

確かに、この二つが「対」になっているのはなんとなくわかる。その意図することも理解できる。だがしかし、どうにも私にはこの「社会進出=仕事をする」という構造が納得できない。

社会とはなにか。その言葉を聞いて思い浮かべるのは、さまざまな人々がさまざまに集まっている場所のことだ。老若男女、性別問わず集まり共に生活を営む場所。それが社会だ。

にも関わらず「社会進出」という言葉にはもっと偏ったイメージが浮かぶ。すなはち「男性が中心を占めていた”職業人”の集まりの場所に、仕事を求める女性たちが挑んでいく」イメージだ。時代や環境や結婚出産育児で仕事をしたくてもできなかった女性たちが、仕事を求め、職業人としての人生を求めて「社会」に「進出」していく。彼女たちが目指すとされた「社会」には、さまざまな理由で働けない人は、最初から存在していない。それは本当に「社会」なのか。

その違和感を抱いてから、私は「社会進出」という言葉を見るたびに「ふざけんなよ」と心の中で呟くようになった。ふざけんなよ、なにが社会だ。どうせそこで言ってる社会っていうのは「男は働き女は家庭」のスローガンで作られた「働いている男性」だけで作られた社会だろ、と。

その社会に女はいない。労働年齢に達していない子どもたちもいない。仕事をリタイアした老年男性はいるかもしれないけれど、夫を支え続けた妻はいない。心身にハンディキャップを背負った人もいない。男であっても「男並みに」働けない人もいない。そんなの、ちっとも社会じゃない。

私は、女性が働くことには賛成だ。働きたいと思うこと、自分の人生を歩みたいと望むことは、誰にも止められない。だがそれを「社会進出」と言われると「ちょっと待て」となる。

「子育て中の女性も社会進出を」というフレーズは、ものすごくありふれているけれど、ものすごく失礼だ、と私は思う。子育て中の女性は最初から社会の一員だ。次世代を育てるという役目を担っているし、買い物をして経済を動かしていたりもする。無償のケア労働によって支えられているからこそパートナーは働ける。彼女たちは社会に進出していなかったわけではない。社会にいた彼女たちを「いないもの」として扱っているだけなのだ。それまで彼女たちが担っていた役目や果たしてきた責任、それにともなう努力や苦労を「社会には存在しなかった」ことにして「はい、そっちにいるだけじゃだめだから、今度はこっちに来てくださいねー」と偏った社会へと誘導する。馬鹿にするにも程がある。

社会には、最初から彼ら彼女らはいた。それを自分勝手に「見えないもの」にして「いないもの」として扱ってきたのが「社会進出」で待ち構えている「社会」だ。



育休中に絶対使わなかった「社会復帰」


先述した「社会復帰のグロテクスさ」もよく似ている。私自身、数年前にうつ病で休職したことがある。ごく当たり前に、仕事に復帰する時に「社会復帰の第一歩」と自分に言い聞かせていた。しかしこれも、よく考えればおかしな話だ。

仕事には行っていなくても、私はずっと社会にいた。コンビニで食事を買い、光熱費を払い、通院するために車や公共交通機関を使っていた。ずっと社会の中で生きて、社会の中に存在していた。

「社会復帰」でイメージされる「社会」は、実際の社会ではない。その社会は「心身ともに健康な人が健全に働いている場所」であって、「一時的に仕事を休んで心身を回復させている人がいる場所」でも「薬を飲んで体調をコントロールしながら仕事をしている人がいる場所」でもない。正しくは「仕事復帰」であって「社会復帰」ではない。

3年前、育休が明けて仕事復帰する時に、私は「社会復帰」という言葉は使わないようにしていた。当時はここまでの言語化はまったくできていなかったし、それに久しぶりに一人で外出した時に「懐かしい下界の空気……!!」と感激して思わず「社会復帰」という言葉を使いそうになったのだが、それでもなんとなく、それは違うと思っていた。だから意識して「育休明け」とか「仕事復帰」という言葉を使うようにしていた。

今振り返ると、私は「社会復帰」という言葉を使うことで、ほぼワンオペで初めての育児をしてきた自分が「社会にはいなかった」と認識されるような気がして恐ろしかったのだと思う。そうじゃない、私はちゃんと社会にいた。一人の社会人として真っ当に生きていた。そう感じて、それを否定されたくなかったからこそ「社会復帰」という言葉は使えなかった。



「人」と言えば「男」だった


「自由・平等」の思想を掲げた「フランス人権宣言(人および市民の権利宣言)」は「女性」を想定していなかった。人権宣言でいう「人」や「市民」は男性を想定したものであり、その後に制定された憲法や議会でも、女性や納税額が低い男性には選挙権が与えられなかった。

フランス革命時の活動家にオランプ・ド・グージュという女性がいる。彼女は革命派としてロベスピエールらと共に活動に参加し、革命を成し遂げた後は女性の権利を求めてロベスピエールと対立し、断頭台で処刑された。

世界で女性の参政権が認められたのは第二次世界大戦が終わってからだ。日本だけでない、西洋諸国もだ。「人」と言えば「男」だけが想起される時代があり、それはつい80年前まで当たり前のこととされていた。


仕事をしていると、しばしば「自分はこのまま、これまでの男性社会にとって”使いやすい女”になってしまうのだろうか」と不安になる。毎日フルタイムで働いて、時に長時間労働も厭わず、時間外勤務も行い、職務に従順。

実際は「男は仕事、女は家庭」と違う働き方をめざしているのに、他の人にもさまざまな働き方ができるようになってほしいと願っているのに、「育児中だけど頑張っているよね」と言われると、きっとこの思いは上司には伝わっていないのだろうと感じてしまう。


今はみんな働き続けよう、と一色になっている感じですよね。しかもその働き方は、経済というものに呑み込まれる働き方。経済的に価値がないことは仕事と認められない時代になった感じです。

『働く女子と罪悪感』

安倍首相の女性活躍推進はありがたいものの、ロジックが経済への貢献だけなのが、不満です。本来は人権というか、仕事への取り組み方が性別によって区別されることなく、各々の選択を広げることを目指したいんです。

『働く女子と罪悪感』


社会人とは、”労働者として”経済に貢献すること。「社会進出」や「社会復帰」に抱く違和感の底には、そんな偏った「社会観」が横たわっている。そんな社会観に苛立ちつつも、飛び込む先がそこしかないことにまた、歯痒さを抱く。


今が時代の過渡期であるというなら、いつか「社会進出」という言葉そのものがなくなる日が来るのだろうか。





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