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読書感想文が苦手だった12歳の私へ


読書感想文と名のつく宿題が、世界で一番苦手だった。


苦手なあまり、どんなふうに書いていたのか全く覚えていない。なぜこんなものを書かなければならないのか、なぜこの世に読書感想文なるものが存在するのか。その不条理についていけず、ただただ苦しかった記憶となっている。読書感想文などこの世から滅してしまえばいいとさえ考えていた。


あれから20年以上。あれほど読書感想文に苦しんでいた私は、なぜか30歳を過ぎた今もこうして文章を書いている。

言葉を綴ることは、決して得意ではない。いつも手探りで、いつも納得がいかず、なにか足りない、なにかが欠けていると感じながら言葉を探している。それでも、あんなに「書く」ことが苦手だったのに、今もこうして書き続けているのはきっと、「書きたい」という欲求が自分の中にくすぶり続けているのだろう。

今なら読書感想文を書けるかもしれない。仲良くなれるかもしれない。そう唐突に思い立ち、改めてこの難題に向き合おうと思う。

なぜ私は、あれほどまでに読書感想文が苦手だったのだろうか。



読書感想文を書く目的はなにか


読書感想文における最大の疑問は「なぜ読書感想文を書かなければならないのか」だった。この世に読書感想文が存在する理由も、それを書かせる目的もわからなかった。

読書感想文は、なぜこの世に存在するのか。なぜ毎年、多くの小中学生が書くことを求められるのか。なぜあれほどたくさんの読書感想文がこの世に量産されているのか。

読書感想文は「読み物」ではない。図書館や本屋に「論説」や「書評」はあっても、「読書感想文」のラベルはない。一般的な読み物のジャンルには含まれていないにも関わらず、なぜか子どもたちの夏にだけ、一気に読書感想文があちこちで生み出される。


幼少期も含めて、私は読書感想文を一度も読んだことはない。「これはコンクールで優勝した作品だから」と提示されても「そこに取り上げられている本、あんまり興味ないから」と素通りしていた。

読書は好きだ。だが、それは自分が読む本を自分で選ぶから好きなのであって、そうでない読書はあまり好きではない。さらに言えば、興味のない本の「感想」にもそこまで関心を持てない。

この世に素晴らしい一冊の本があったとして、その素晴らしさを共有したいのならば、その本を実際に読んでみればいい。あるいは「読書紹介文」や「書評」の形を取ればいい。ネタバレになるかもしれないリスクをおかしてまで、誰かの感想を読む必要はあまり感じない。


子どもの私は「課題図書」と「読書感想文」のセットに、どこか嘘臭さを感じていた。大人が「課題」として薦めてくるものには大抵、下心がある。友情の素晴らしさや、平和の尊さ、勇気の大切さ。大人が子どもに「知っておいてほしい」テーマが書かれた本を差し出して、「これって素晴らしいよね」とドヤ顔をしてくる。「友達を大切にしようと思いました」「平和は大切です」「勇気を持って生きたいと思います」。「浅く美しいスローガン」を書いてほしい、書かせたい。そんな大人たちの傲慢さがうっすらと見え隠れしていた。

けれど、子どもだって考える。友情の素晴らしさを謳う物語はこの世に溢れるほどある。「友情は大切です」も、もはや使い古された言葉だ。だが、どれほど素晴らしい物語があっても、どれほど美しいスローガンを唱えても、この世からいじめはなくならない。いじめっ子を正す仕組みもなければ、いじめられっ子を守る体制もない。それなのになぜ、大人は平然と友情について書かれた物語を提示し、安直な答えを子どもに書かせようとするのだろうか。はなはだ不思議だった。



感想を書くために、本を読むわけじゃない


本を読む行為は、「土」を作るのに似ている。「自分」という森の「土」を耕し、分厚く、豊かにする作業。ページをめくるごとに、枯れた土壌の上にふわふわと落ち葉が降り積もる。けれど何日もかけて重なっていく葉は、雨風にさらされ、虫に食べられ、日に当たり、やがては朽ち果てて土に帰る。そこからさらに何年もかけて、土から新しい芽が生え、虫がごそごそと這い出してくるなにが生まれ、なにが芽吹くのか。本を読んだ時には、落ち葉が落ち葉として重なっている時はまだわからない。けれどその有形無象の時間や体験が、いつかどこかで自分自身となって新しい世界や経験につながる。読書は、目に見えないような柔らかい形で、自分という世界や土壌の厚みを増していくようなものだった。

だから一冊の本を読み終えても、そこで感じたことや、読後に残る余韻は、すぐに言葉に表せるものではなかった。なんとなくじんわりと残るものや、少し気持ち悪くて飲み込めないものもあった。その形にならない感情や思考たちをゆっくりと抱きしめて、何年もかけて咀嚼する。あるものは綺麗さっぱり忘れてしまうし、あるものは棘のように残る。本に描かれる物語が、自分の人生を少しずつ、少しずつ分厚くしてくれる。その実感を、その時間の流れを、一部分だけ切り取って言葉にすることは至難の業だった。



読書感想文が書けなかった「2つ」の理由


それでも毎年夏はやってきて、そして読書感想文もやってくる。腑に落ちないことも多々あったが、それでも宿題はやらなければならない。しぶしぶ鉛筆を持った私の手は、一文字も書けずにピタッと止まる。


第一の難関はあらすじだった。

自分が読んだ本について書く。それについて感じたことを書く。それにはまず、その本の内容を書かなければならない。この「本の内容を簡単にまとめる作業」がとにかく出来なかった。

どこまで書いたらいいのだろう、どれくらい詳しく、あるいは省いて書けば良いのだろうか。いわば「ネタバレしてもいいのか」がわからなかった。課題図書の一覧にも、夏休みの宿題リストにも、どこにも「ネタバレOK」や「ネタバレNG」は書かれていない。もしも一冊の本を読み終えたとして、その全ての物語が収束したその最後に、たとえば主人公が呟いたたった一言のセリフに感激したとしたら、そのセリフの深みや重さを伝えるために、どれほどのあらすじを書いたらいいのだろうか。悩むあまり「とにかく本を読んでくれ。話はそれからだ」とっていた。下手な要約をするよりも、とにかく原本を読んでくれれば、作品の奥深さは伝わるのだから。

本一冊の物語を、原稿用紙一枚に詰め込む方法を知らなかったし、誰も教えてくれなかった。


第二の難関は読み手が見えないことだった。

読書感想文の感想を、私はもらったことがない。始業式に回収された大量の紙束はどこに行き、誰に読まれるのか。国語の先生が読むのか、担任の先生が読むのか、それとも学外の知らない人が読むのか。その人は、私が課題に選んだ本を読んだことがあるのか、読もうとするのか、読まないまま感想文だけに目を通すのか。すべてが未知だった。

遠足の作文は嫌いではなかった。それは、それを読むのが「自分と同じ遠足を体験した担任の先生」だと分かっていたからだ。体験を共有しているからこそ、遠足のコースや場所を詳細に書かなくてもよかった。書きたい場所の描きたい思い出だけに力を注ぐことができた。さらには作文の出来は、国語の通知表には影響しなかった。だから思うがままに書いてもよかった。

翻って、読書感想文はどうか。誰が読むのか、どんな背景を持っているのか、まったくわからない。そんな相手に、何を伝えたらいいのか。体験か、感動か、あるいは本のあらすじなのか。友情をテーマにした本を読んで「こんなに友達は大事だっって訴える本があるのに、なぜ私はいじめられているんですか」「戦争の悲惨さを描いているのに、なぜその本を薦める大人は戦争しているのですか」と書いても許されるのか。内申点に影響するのか。とにかくわからないことだらけだった。

当然のことに、自分が書いた文章に対するレスポンスは、なにもなかった。いつも書きっぱなし、出しっぱなしで終わっていた。自分なりに頑張って書いたのに、納得がいかないながらも書いたのに、なにも帰ってこない。まるで読書感想文などこの世になかったかのように、9月1日が始まったら消えてしまう。こんなもの、書いてなにになるのだろうと虚しさが募った。



それでも読書感想文を書く意味


それでも、読書感想文は存在する。いまだに存在し続けている。それはなぜか。大きく2つの理由を考え出してみた。


ひとつは、物語を自分なりの言葉で語る練習だ。本のあらすじやストーリーを、ぎこちなくとも自分のことばで語り直す。

別に本の内容を語る必要はない。本の素晴らしさは、それを実際に読むことでわかるからだ。ここで内容を自分なりに書くことの意味は「物語を語る練習をする」ことにあると思う。

物語は本だけにあるのではない。人の人生も物語だし、行動に隠れた感情もまた、物語だ。医療の世界ではもう何十年も前に「narative based medecine」という言葉が広がっている。ここでいう「narative」とは「文脈」。患者がこれまで生きてきた人生と、そこで積み重ねられてきた「物語」を指す。自分で自分の人生を選んでいく時代。医療の現場に限らず、人は誰かの物語を見ることを求められ、自らの物語を語る技術を求められる。

今、私がここで綴っているのは、まさに自分の物語だ。「語る」ことを知っているから、20年前の自分の物語を振り返ることができる。読書感想文を頑張ったから文章が書けるようになった、とは思わないが、それでも「筋書きを語る」経験は、何度かあっていい。


あらすじを語る際は、ネタバレなど気にしなくていい。新聞や雑誌の書評と違い、読書感想文は「読書感想文を読むぞ」と覚悟を決めた人しか読まない。あとから「ネタバレしてるやんけ!」と文句を言ってくる人はいない。読み手はネタバレ上等で望んでくるのだろうから、必要があればどんどんネタバレをしてもいい。だってこれは、物語を語る作業なのだ。物語に「ばれる」も「バレない」もない。


もう一つの意義は、自分の感情を自分の言葉で語る練習、ということだ。感じたことを言葉で書くなんて簡単と思うかもしれない。簡単な人はいるだろうが、一方で私のように簡単ではない人もいる。そういう人は、なにかモヤモヤすることがあっても、違和感を感じることがあっても、それを言葉にできず、もどかしい思いをして終わる。それだけならまだいいが、それがハラスメントや言葉の暴力となって、助けや叫びをあげられないまま、自滅へと至ることもある。自分の考えを知り、感情に気付き、それを言葉にすることは案外、難しい。ひとつの物語を読み、感じたことをたった1つでもいいから言葉にする、文字にする、文章にする経験は、あったほうがいい。100のことを感じて、1つしか書けなくても構わない。

後味の悪い物語に釈然とした思いを抱くかもしれない。それもそのまま、正直に書けばいいのだ。本の中に描かれえる物語は、多くはフィクションだからこそ、あるいは編纂された書籍だからこそ、最後は後味よく、スッキリ終わることが多い。けれど、現実はそうではないことを、大人になるにつれて人は知っていく。この世はフィクションに描かれる夢物語ではない。悲劇や絶望に直面することもある。ハッピーエンドばかりではない。バッドエンドが存在する理由を次第に知り、受け入れていくようになる。

友情を描いた本を読んで「なんで友情は大切なんだろう」とか「友情ってそもそも必要なんだろうか」とか、それ以前に「とてもつまらない本でした」とか、そんな感想を抱くことは、決して悪いことではない。そんなことを書いて、それが原点の理由だとすれば、それは採点基準が間違っている。



自分のために読書感想文を書こう


読書感想文が苦手な理由と、それでもこの世に存在する理由について考えた。考えて、考えて、ようやく気づいたことがあった。それは「読書感想文は自分のために書くもの」ということだ。

自分の言葉で物語を語る。感情を語る。

自分で自分を語る練習の場。それが読書感想文なのだと思う。

見えない読み手について考えすぎる必要はない。通知表も気にしなくていい。ただ、読み手を意識する必要はないが、誰かに読んでもらって「こんなふうに思ったんだね」と受け入れてもらえる経験はしたほうがいいと思う。いいとも悪いとも言わず、評価もせず、罰しもせず、ただ「そうなんだね」と頷いてくれる人がいてくれたら、書いた”甲斐”を感じられるかもしれない。



読書感想文は、小さなスピーチ台だ。そこではなにを語っても、どう語っても構わない。すべてが自由な、自分だけの「語り場」なのだ。











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