「いい人」について思うこと


「いい人いないの?」

と最近聞かれる。

その答えはゲェッホン、ゲホッゴホンとわざとらしい咳で誤魔化すとして、これを聞くたびに私は2人のキャラを思い浮かべる。

一人は小川蘭。『いいこじゃないよ』という小説の主人公。

もう一人は漫画『進撃の巨人』のアルミン。

この2人がわたしにとって「いい人」であるとかそういう話ではなく、2人が持つ「いい人」という表現に対する考え方がわたしにかなり影響を与えている、という話だ。

アルミンは知っている人も多いかも。『進撃』に出てくるキャラクターの中で1、2を争う賢い男の子。

蘭はというと、こちらも成績優秀な女子中学生。みんなの人気者だけど、そういうのを「演じてる自分」にコンプレックスがあって、「いいこ」と言われる/思われることに抵抗がある。

断っておくと、『いいこじゃないよ』を呼んだのが十数年前なので、内容は確かじゃない。記憶と、インターネットの記述を少し参考にして書いてる。

この本を読んで以来、「いいこ」という言葉を使えなくなった。

ちなみにわたしも小中と「いいこ」の部類だった。

生徒会、学級委員など何かしらの役職にばんばん立候補した。それが成績の点数になることも知っていたし、大人が学校という枠組みにおいて、そういう「役割」を欲しているのもなんとなく分かっていた。

なんとなくじゃないな。かなり、分かっていた。

なにより、好きだったからやっていた。朝礼で話すとか、ボランティアとか。大勢の前で話して、反応が返ってくればやりがいを感じたし、日曜の朝8時に校門前に集合して始める町内のゴミ拾いも、夢中になれば楽しめた。

でも、「いいこ」の範疇におさまる自分を「なにやってんだろな」と思うことはあった。「よくやるよな」と思うことも。

そして、不思議とそういう「いいこ」は先生に感謝されども特別気に入られることはなかった。

真面目な生徒より、先生と話していておもわずタメ口が出ちゃうような、大人とも気さくに話せるような子が可愛がられていた。

さて、一方のアルミンは作中で

「いい人か…その言い方はあまり好きじゃないんだ。だってそれって、自分にとって都合のいい人のことをそう呼んでいるだけのような気がするから」

と言うシーンがある。ここだけ抜き出すとムーミンに出てくるキャラクターがいいそうなセリフだ。スナフキンは川べりでムーミンに「いい人か…」なんていかにも言いそう。

実際は仲間が裏切っているかそうでないかを確かめるとても緊迫したシーンなんだけども。

アルミンの言葉は「いい」に含まれる本質を突いている。

そう。生徒会もボランティアも楽しい。ただ、それをするわたしを誰かに「都合がいい」と思われるのは癪なのだ。

捩くれている!そんなん気にしなくていい!

とごもっともな声が飛んできそう。でも気にしちゃう。

捩くれてるのがバレたところでさらにぶっちゃけると、冒頭の「いい人いないの?」の「いい人」はずばり「“結婚するのに都合の”いい人」だとわたしは思っている。

もちろん、シチュエーションによりけりだけど。

わたしはこれを聞かれるのが苦手だからいつもなんて答えようか悪戦苦闘してる。

うまい返しがあったら、教えてほしい。

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